5 まずは挨拶から
「お嬢様?」
「もう少し、ここにいさせて」
不審がる山口に頼みながら、私は、車の中で粘っていた。
「構いませんが……」
山口は曖昧に笑い、とんとん、と軽くハンドルを叩く。
窓越しに、通り過ぎる生徒を眺める。普段ならできるだけ早く教室に向かう私が、こうして外を伺っているのには、それなりの理由がある。
「行ってくるわね」
「お気をつけて」
機を見て鞄を取り、教室へ向かう。
意を決して、教室へ一歩踏み込み。朝っぱらからできている人の輪に向かって、声をかけた。
「おはようございます。早苗さん、皆さん」
笑顔の仮面を貼り付けて。できるだけ、柔らかな声で。私は努力した。
「え……?」
少しの沈黙が耐えられなくて、足早に通り過ぎた私を、早苗の驚いたような声が追う。
言ってやった。
親しくなるには、まずはこちらからの歩み寄りが必要だ。何しろ私は早苗には苦手意識しかなかったので、ろくに挨拶すら交わしたことがない。
心臓が、いやにどきどきする。
「なんだ? あいつ……」
「わかんない……」
早苗の机に片手をついて、話し込んでいた海斗。早苗と顔を見合わせ、ふたりして困惑の声を上げる。
「あまり気にするなよ」
「うん……そうだね」
声のトーンを落とした私的会話なのに、よく聞こえる。私は意外と地獄耳なのだ。あまり好意的ではない反応だが、努めて聞き流した。
早苗と親しくなるという目標からしたら、本当に小さな一歩。それでも私は、挨拶だけで大きな勇気を要した。いつもの順番で机に荷物をしまうことで、少しずつ、動悸が収まっていく。
「それよりも、早苗、チーク変えただろ」
海斗がさらりと、早苗の頬を指の背で撫ぜる。思わず見てしまったのは、女生徒たちが、例のごとく甘い歓声をあげたからだ。
「ええ、何でわかるの? すごいね、千堂くん。男の人なのに、そういうのわかるんだ」
「母が化粧にうるさいからな」
海斗の母は、プロの歌手だ。テレビには出ないが、コンサートなどには引っ張りだこの、実力派。私も、両親と共に会ったことがあるが、声が素晴らしいのはもちろんのこと、息を飲むほどの美人だった。
「へえ。千堂くんのお母さんって、歌手なんでしょう? 楽しみだなあ、勉強会のときに、会えるの」
「あれ、話したっけ? 悪いな、その日は、親はいないんだ」
「そうなの? 残念」
海斗と早苗、隣の会長が共に勉強会をする話は、本決まりらしい。みるみるうちに、早苗と海斗の距離は縮まっていく。
「今日のロングホームルームで、学外活動の行き先について話し合う予定です。考えておいてください」
朝のホームルームで、学級会長が、そんなことを言い始めた。
会長は、男女1名ずつ。学級での存在感を考えれば、会長になるべきは、海斗なのかもしれない。彼は頭脳明晰だし、運動神経も抜群、家柄も良いという、皆の憧れだから。
しかし、こういうとき海斗は「柄じゃない」と言って、引き受けない。
私? 私なんてお呼びでないのは、火を見るよりも明らかである。私こそ、本当に「柄じゃない」。会長になっているふたりは、中等部からの顔見知り。朗らかで、誰からの信頼も厚い、素敵な級友である。私よりも、はるかに適任だ。
「学外活動だって」
「どこ行きたい?」
授業が始まる前の休み時間にも、あちこちで言葉が交わされている。
高等部は、中等部よりも、学級のつながりが強くなる。まさにここの高等部に通っていた兄は、そう話していた。時期や行き先、活動内容全てを決める学外活動も、そのひとつ。
昨年度末に卒業した兄が高等部1年生の時、私はまだ初等部。その話を聞いて、高等部に強く憧れたものだ。
「海斗様は、学外活動のこと、詳しく知っているのかしら」
「お兄様がいらっしゃるから」
海斗の兄は、私の兄と同い年である。そもそも私と海斗の婚約が結ばれるに至ったのも、兄同士の交流を通して、両親が親しくなったからだ。
当然、海斗も学外活動のことは知っているはず。聞こえているだろうに、当の海斗は素知らぬ風を装っている。
授業が始まればそんな会話もなりを潜め、皆真面目な表情で先生の話に耳を傾ける。
午前の授業が終わり、私は山口と車で昼食。そして午後には、ホームルームのために、皆が教室に集まった。
「学外活動について、何か意見はありますか」
司会をする会長が、皆に問いかける。ぽつりぽつりと意見が出て、ああでもない、こうでもないとやり始める。海斗は時折意見を求められ、答えていた。優秀な会長たちは、意見を3つにまとめあげる。
「浜辺でスポーツ大会、霞ヶ湾をクルーズ、オリジナル花火大会の企画、でよろしいでしょうか。この選択肢について、意見はありますか」
何人もの人が意見を述べ、まとまった3つの案。どれも、それなりの理由があり、やりたいと思う人がいるものだった。
私は、教室を見回す。わくわくした顔、何も考えていないような顔。中には少し、調子の悪そうな顔をしている人もいる。
何に決まったっていい。
そう思っていたが、クラスメイトの暗い顔を見て、少し気が変わった。兄の言葉を、思い出したのだ。
兄のクラスの学外活動は、クラス全員で自転車をレンタルし、岬をぐるりとサイクリングすることに決まっていた。
自転車なんて、乗りたければいつでも乗れる。せっかくのイベントなんだから、もっと華やかなことをすればいいのに。私は兄に、そう言った。実際、他のクラスでは、それこそ船を貸し切ったクルーズや花火大会の企画を行ったと聞いたから。
そのとき兄は私を、「想像力を持ちなさい」とたしなめた。曰く、同じクラスにいても、経済力はさまざま。家庭自体の経済力にも差があれば、保護者の財布の紐の固さにも差がある。皆が皆、求めるだけお金を出してもらえるわけではない。
学外活動は、一定の予算以上は、各自で負担することになっている。そうなれば困る生徒もいるのだから、予算内で収めた方が皆のためだ、と。
このクラスにも、いろいろな人がいる。顔色の悪い人が、単に本当の体調不良だったり、興味がないだけだったりすれば良いが、お金の心配をしている人もいるかもしれない。
私は手を挙げ、会長の指名を受けて立ち上がる。
「どの案も素敵なので、けちをつけたい訳ではありません。スポーツ大会だって、クルーズだって、花火だって、楽しいと思います。ただ、私個人としては、予算を大幅に上回る企画は、よろしくないのではないかと考えています」
お金の話を出した途端、いくつかの顔がこちらを向いた。やはり心配していた人もいたのだと、口が滑らかになる。
そこからは、兄の受け売り。クラスには多様な立場の人がいるから、皆が不安なく取り組める方が良いのではないか、と説明した。
話を終えて席に座ると、頭がくらっとした。話しすぎたらしい。こういう、人前で話すことには向いていないのだ。疲労感と、言い切ったという達成感。
話して良かった。
こめかみを軽くほぐしながらも、私は、比較的爽やかな気持ちでいた。
お金の力に任せて豪勢な企画を練ることは、大人になればいくらでもできる。今しかない学びというものが、きっとある。
口に出すことで、兄があのとき言っていたことを、身にしみて理解した。
「他に、ありますか」
その問いに、手を挙げたのは、海斗である。皆の顔が、一気に彼を向く。
視線を集めても、動じた様子もなく、表情が一切変わらない。それが彼の、すごいところだ。
「確かに、予算内で収める努力は、必要だと思う。高等部では、特待生もクラスにいるわけだから」
早苗のことを言っているのだ。学費免除の特待生も、予算外の活動は、自費になると思われる。
彼女のための言動だとわかって、胸が圧迫されるような感じがした。
「ひとつの、提案として。僕の家のクルーザーで良ければ、出すことはできる。ただでとは言わないが、通常よりは、安く出せるだろう。家族で使うものなので、時期等はこちらの都合に合わせてもらうことになるが、参考にしてくれ」
なるほど。確かに、誰かのクルーザーを使えば、金銭的な負担も減る。そういう手もあるかと納得していると、同様に頷いている人も複数いた。
多数決ではないけれど意思確認を、という前置きで、それぞれの項目に挙手を募られる。
「浜辺でスポーツ大会、が希望の人」
私は、これに挙手をする。海斗はああ言っていたが、特別な手段を使わずとも、予算的な問題がなさそうな活動だからだ。ぱっと見でも半数以上の生徒が、手を挙げている。
「霞ヶ湾をクルーズ、は」
こちらも、それなりの人数が手を挙げる。海斗と早苗も、手を挙げていた。というか海斗は、早苗が手を挙げるのを見て、やや遅れて挙げていた。
それに気づいて、私はまた、ため息をつきたくなる。
「オリジナル花火大会の企画は?」
こちらは、まばらに。
ひと通り数を確認すると、会長たちは時計を確認した。
「そろそろ時間になるので、とりあえずスポーツ大会かクルーズ、どちらかということでよろしいですか?」
「予算的な部分も調べて、詳しくして、次回また皆さんに提案します」
ホームルームが終わり、放課後になる。皆帰り支度をして、各々教室を出て行った。
鞄に荷物を詰めていると、早苗たちの賑やかな声が、嫌でも耳に飛び込んでくる。
「ねえ、皆も、クルーズしたいでしょう?」
「私は、スポーツ大会に手を挙げましたわ」
「私も」
「えっ、どうして?」
女子との会話の中で、早苗が驚きの声を上げている。女子たちは、顔を見合わせて、品の良い笑いを浮かべた。
「こういう言い方は申し訳ないけれど、私、海斗様のお家のクルーザーには、乗ったことがありますもの」
「そうですわよね、中等部の頃にも、初等部の頃にも」
そういえば、そうだった。
私もその頃を、懐かしく思い出す。
海斗の父は気前の良い人だ。都合がつくときには、同級生を船に招いてくれることがある。私も海斗と同じクラスの時に、招かれて、皆でクルーザーに乗せてもらった。
「それよりは、いっそスポーツ大会の方が、皆との親睦も深められて、良いと思いましたの」
「きっとクルーザーなら、また乗れる機会がありますわ。ねえ、海斗様」
「……まあ、そうだな。僕の父は、子供の同級生を船上パーティに招待するのが、趣味のひとつらしいから」
私が考えていたのと似たようなことを、海斗も答える。うんうん、と頷く女生徒たち。その中で早苗が、「でも!」と場違いに声を張り上げた。
「あたしはまだ、乗ったことがないのよ!」
それは、そうだろう。
早苗は、入学したばかり。誘われるとしたら、これからだ。
「……早苗さんなら、頼めば乗せていただけるんじゃないかしら?」
「ああ、そうですわ」
私も内心、頷く。早苗に、海斗はずいぶん思いを寄せている。そのくらいのこと、するだろう。
あまりだらだらと残っていたら、怪しまれる。私は荷物をまとめ、鞄を手に持った。
「そうだな。もし本当に乗りたいなら、父に頼んでみるよ」
請け合う海斗。そうよね、そう言うわよね。
私はちりちり焦げ付くような胸を押さえながら、教室の扉をくぐる。
「ありがとう、でも……あたし、学外活動でクルーザーに乗りたいの」
「どうして?」
「……どうして、も」
どうして早苗は、そんなに学外活動のクルーザーにこだわるんだろう。海斗が自分のために船を用意してくれるなら、その方が嬉しいのに。
会話は暫く聞こえていたものの、私が離れるにつれて、聞き取れなくなって行く。
不思議だわ。
早苗の、ちょっと不可解な言動を反芻しながら、私の足は、当然のように図書室を目指していた。