47 早苗の浴衣
「そろそろ着替えるので、行きますね」
結局その後、のらりくらりと隣にいる樹の相手を、時間までしてしまった。彼といる間は余計なイベントにも巻き込まれなかったので、それはいい。ただ、樹と一緒にいたらいたで、面倒なことはある。
私は着替えのため、一旦立ち上がる。樹は私の動きを目で追い、軽く手を振った。
「タオルは、洗って返しますから」
「そう? ありがとう」
ジュースがついてしまったタオルは、バスに持ち込み、荷物にしまい込んだ。
「藤乃さんって、会長様ともお知り合いなのですね」
「羨ましいですわ」
これが、その面倒のひとつ。
あんな小高いところで樹と話し込んでいたから、目立ってしまったらしい。バスに戻ると、口々にそう話しかけられる。海斗もさることながら、生徒会長として活躍する樹の人望は段違いだ。
うっとりした顔つきの彼女たちを刺激しないよう、できるだけ感情を抑えて答える。
「兄がお世話になったものですから。兄の話をしていたんです」
「ああ、桂一様。会長同士ですものね」
あくまでも、さらりと。私は兄をだしにして、話を逸らした。
「藤乃さんの周りには、素敵なお方がたくさんいらっしゃるから」
「そんな……私なんて、まだまだです」
その言葉は、早苗にこそふさわしい。否定しつつ、私は浴衣を広げた。
着替えは、バスの中でするのだ。運転手が座席を回転させ、空間を作ってくれていた。それほど広くないので、一度に数人しか着替えられない。そこに、順番に入って着付けをすることになっている。
学園の女生徒なら、日本舞踊であるとか、茶道であるとか、何がしかの着付けを要する習い事をしている。浴衣くらい自力で着られるだろうということで、着付け師は頼んでいない。予算上の問題もある。
「藤乃さんの浴衣、素敵ですわね」
「藤色なのですね」
私は、薄い紫の浴衣を持参した。箱から取り出し、身にまとう。帯は、濃い色で、全体を引き締めることにした。
互いの浴衣を褒めあいながら、手早く浴衣を着つける。手の届きにくいところは、互いに手を貸し合って。後ろも待っているので、そう時間をかけられない。
「早苗さん、どうしましたの?」
一通り着替え終わって、バスを降りようかと思った時。早苗の様子が、目を引いた。
「どうって……困っているの」
バスの奥の方に、じっと立ち尽くしている。さっさと着替えればいいのに、服を脱ぎかけたまま、中途半端な状態だ。
その様子は、いささか、不自然であった。
「藤乃さん、私たちは、先に降りていますね」
「……ええ」
着付けを終えた級友は、バスを降りてしまう。暫くすれば、次の時間帯の女子たちが着替えに乗り込んでくる。
このままでは、彼女たちにも迷惑がかかる。早苗は、わかっているのだろうか。
「早く着ないと、次が来てしまいますよ」
「わかってるわよ、そんなの……でも」
早苗は、座席の上に置かれている薄桃色の浴衣を、ぐっと握る。
ああ、あれは、花火大会の前に購入できる浴衣の中では、一番ステータスを上げられるものだ。私はつい、そう考えてしまう。
こうして実物を見ると、あの浴衣は、早苗によく似合うだろうと思う。
「あたし、これ、着られないのよ」
「え? 着られない?」
それは、早苗の衣装のはずだ。
着られない、ということはないだろうに。
驚きのあまり、つい、質問を重ねてしまった。
「浴衣ですから、着られないなんて、よほど丈が違うんですね……」
「違うわ。着付けられないの!」
早苗の鋭い視線が、きっとこちらを向く。
「だからあたしは、着付けの人を頼もうって言ってたじゃない!」
「ああ……」
その剣幕に、私は早苗とのやりとりを思い出した。会長たちと打ち合わせしている最中、早苗は頑なに、着付け師を呼ぶことを主張していた。私たちは、「そんなの自分で着られる」と言って取り合わなかったのだけれど。
早苗は、特待生。入学前は勉強に力を入れていたであろう彼女が、茶道や華道を習っていなくても仕方がない。あのような習い事は、とかくお金がかかるのだ。
だから、着付けを知らなくても、仕方がない。
「……そう、言ってくださればよかったのに」
「言ってたつもりなんだけど」
そうだっただろうか。
記憶を辿ったけれど、もう、あのとき早苗がどう言っていたかなんて、覚えていない。
「私が手伝いますよ」
聞いてしまったのだから、手伝うしかない。私はそう、提案した。
「……いいの?」
「ええ。私は慣れていますから」
本当ならば、早苗とは関わらない方がいい。しかし、彼女の問題を知ってしまった以上、手伝わないわけにはいかない。「無視した」なんて、言わせるわけにはいかないのだ。
それに、早苗に協力しておけば、「悪役」の立場からより離れられるかもしれない。そんな下心を隠しつつ、朗らかに答え、私は襦袢を手に取った。
「ちょっときつめに引っ張りますね」
「う……」
「これは、こういうものですから。誰がやっても、このくらい苦しいですよ」
間違っても、早苗に危害を加えたと言われないように。迂闊なことをして、「悪役」に仕立て上げられては困る。
私は丁寧に説明をしながら、着付けを進めていった。
「あら、早苗さん……」
「あまり慣れていらっしゃらないということだったので、お手伝いしているのです」
そうこうしているうちに、次の時間帯の生徒が乗り込んでくる。ちょうど良い。私はくる人来る人に、現状を説明した。
「そう……ですか」
「お優しいのですね、藤乃さんは」
私と早苗の取り合わせなど、珍しくて仕方がないのだろう。皆、一度は驚いた顔をしてから、自分の着付けを始める。
これだけ見た人がいれば、早苗も安易に「私にいじめられた」などとは言えないはずだ。
「……終わりましたよ」
帯を締め、早苗から手を離す。
浴衣を着た早苗は、途端に上品さを増す。淑やかな雰囲気を放つ彼女に、私だけではなく、周囲の女生徒までもが見とれる。
「お似合いですわ」
「本当ですね」
感嘆のため息。
彼女は、本当に美しい。
だから、誰も早苗に、おおっぴらに文句を言えないのだ。男性をはべらせているのが気に食わなくても、この美貌には勝てない。
「……ありがとう」
早苗は体をひねり、自分の体の前後を確認する。記憶を呼び起こし、帯の結び方は、できるだけゲームのそれに近づけた。
お礼を述べるその表情は、やや、納得がいかない様子である。
「……着付けは、それでいいですか?」
「うん、大丈夫」
どこか問題があったのかと心配したけれど、そうではないらしい。
「いえ、困った時は、お互い様ですから」
私は安堵して、笑顔で返す。
早苗は、先にバスを降りた。私はその後に続いて、バスを降りる。
私たちの頭上は、もう深い紺色だ。海岸の広い空は、水平線に向かって、濃い橙色に変化している。日が沈むまで、間もない。
日没と共に、花火大会は始まるはずである。
「わあ。似合うね、早苗。かわいいよ」
「ありがとう、樹先輩!」
先ほどと同じ場所で待っていた樹は、早苗を見るなり、そう声をかける。
早苗は、屈託のない笑顔を返す。ぱっと花開くような、愛らしい表情。樹は心底嬉しそうに頬を綻ばせ、早苗に手を差し伸べる。早苗は自然にその手を取り、樹とともに砂浜へ戻っていく。
その間樹は、こちらを一瞥もしなかった。




