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46 厄介な彼

「それ、濡れたままだと風邪引くでしょ」

「これは、水着の生地でできているので。すぐに乾くんですよ」


 オレンジジュースを吸ったシャツは、色こそ橙色になってしまったが、冷たさはもうほとんどない。速乾性のある生地なのだ。


「へえ。でもそれ、染みがあってカッコ悪いし。上だけ着替えたら?」


 触れると、生地は既にさらりとした感触になっている。シャツを暫く、興味深そうに眺めた後、樹にそう助言された。


「いえ、やめておきます。もうすぐ着替えですし」


 食事をとって休憩したら、浴衣に着替えることになっている。ここで上だけ着替えるのは、いささか、手間が多い。


「そう? だけどさ……いや、いいや」


 樹が視線を揺らし、言いかけた言葉を飲み込む。


「なんですか?」


 そう濁されると、かえって気になる。質問を返すと、樹は「あー……」と言葉を濁しながら、髪を触る。


「いや。俺のタオル貸しとくから、肩からかけときな」

「……こうですか?」

「そう。そうすれば隠れるから、いいよ」


 タオルを肩からかけると、柔らかな生地が腕に触れる。ミントのような爽やかな匂い。潮風と相まって、なんだか、清々しい気持ちになる。


「……早苗さんが、待ってますよ」


 私は再度、樹を促してみた。

 早苗を中心とする集団は、先ほどと同じ場所に輪を作っている。さすがに彼女も、再度オレンジジュースに挑戦しようとは思わなかったらしい。何度もジュースを被ったらおかしいから、その判断は、ありがたい。

 さっさと樹もあちらに行って、早苗とのイベントを進行すればいいのに。そう思ったのだけれど、樹は「やだ」と言う。


「どうして嫌なんです? 樹先輩は、早苗さんのこと、好きですよね?」


 彼はよく朝っぱらから教室に来ては、早苗に話しかけている。放課後だって、何かと理由をつけて生徒会室に呼び出していることを、私は知っている。彼が早苗に想いを寄せていることなど、周知の事実だ。


「まあ、好きなんだけどさー……今日も、俺は早苗に会うために、ここまで来たわけ」


 樹も、その思いを認める。

 そうだろう。早苗がどの程度彼とのストーリーを進行しているのかはわからないが、あの様子を見るに、うまく好感度を上げているはずだ。


「これもさっき、早苗から貰ったし」


 ポケットから取り出したストラップを、ゆらゆらと揺らす。日光に照らされて、きらきらと不規則に光を反射して、綺麗だ。手作りだろうか。


「お揃いなんだって」

「そうですか」


 嬉しそうに笑顔を作った樹は、それをポケットに戻す。


「なんかこれ貰ったら、気が済んじゃった」

「そうなんですね」

「うん。不思議なんだよね。朝とかも、早苗に会いたくて会いたくてたまらない日もあるのに、一緒に出かけた後なんか、妙に関心が薄れるんだ」


 そんな言い方していいのか、とこちらが心配になるほどに、樹はあけすけに語る。


「正直、自分でも、変だと思うんだ」

「それが、恋ってものなんじゃないんですか……?」


 恋がわからない私が、樹に、そんなことを言っている状況も、そもそも変だ。

 樹はうーん、と唸り、「これは違う気がする」と答える。


「わかるかなあ、何か特別な出来事があると、その後急に関心がなくなるんだ。それでまた、何かのきっかけで、妙に心が惹かれるんだよ」


 特別な出来事とは、イベント的なことだろう。

 頭の中で言い換え、あれ、と思った。

 ひとつのイベントが終わって、次のイベントが始まるまでの間、早苗への関心が薄れるという話を、彼はしているのではないだろうか。イベントが始まると、それを達成するために、心が惹かれるという話を。

 ゲームの強制力、という言葉が、再度頭をよぎる。巻き込まれているのは、攻略対象の男性たちも、同じかもしれない。


「好きなのは、好きなんだけどさ」


 ひとつひとつのイベントごとに、好感度が上がっているのは確かだ。

 そのうち彼らは、好感度がマックスになり、そんな違和感も感じずに早苗の虜になるのだろう。


「なら、いいんじゃないですか」


 私は、自分がゲームの強制力から逃れることだけで、精一杯だ。他の人にまで、ましてや攻略対象にまでは、構っていられない。彼らがストーリーに飲み込まれてしまうのは、もはや、必然。


「まあね」


 樹だって、早苗に好意は寄せているのだ。だからそう、大きな問題があるわけでもなかろう。


「とにかく今は、そんなにあの中に混ざりたいわけじゃないんだ。久しぶりに話そうよ、藤乃ちゃん」

「あ……私、学外活動の企画役なので」

「知ってるよ。俺、生徒会長だよ? これからの流れは把握してるし、藤乃ちゃんが着替えるまで暇なのも知ってる」


 厄介な台詞を吐き、樹は歯を見せて笑った。その悪戯っぽい笑顔は、見る人が見れば、それだけで心を撃ち抜かれるだろう。現に私の同級生にも、樹に思いを寄せる人はたくさんいた。そして、昔からの知り合いという理由で、彼に稀に絡まれる私は、何かと迷惑を被ってきたのだ。

 紹介して、とか。どうして仲が良いの、とか。婚約者がいるくせに近寄るな、とか。

 まあ、恋に溺れる女子というものは、時に身勝手で残酷なのである。


「話すと言われても……樹先輩とお話しするのが久しぶりすぎて、何を話したらいいのかわかりませんね」

「俺はね、藤乃ちゃんに打診したいことが、ひとつあるよ」


 その言い回しに、嫌な予感しかしない。

 樹が私に打診することなんて、だいたい、限られているのだ。


「なんです?」

「次期生徒会役員に、ならない?」


 ほら、と思う。


「嫌です」


 即座に断ると、樹は「なんでよ」と口を尖らせた。そんな風に拗ねて見せても、私の心は変わらない。


「藤乃ちゃんは、お兄さんも生徒会長なんだから、仕事もよく知ってるでしょ」

「だからですよ。私は、兄みたいにはできません」


 中等部の頃にも、私は同様の言葉で、生徒会に誘われたのだ。


「適任だと思うんだけどなあ」

「そんなことありません」


 私はそうした目立つ役回りを、引き受ける気はない。


「それに、私は後期は、図書委員になるんですから」

「図書委員に? どうして?」

「最近、図書室によく行くんです」

「図書室?」


 なんでまた、と樹は瞬きを繰り返す。


「居心地が良いからです」

「へえ……あ、じゃあ彼も知ってる? 図書室によくいる、特待生」

「え……慧先輩ですか?」


 樹は頷く。まさか、彼から慧のことが話題になるなんて。


「次の図書委員長は彼かなあって、勝手に思っているからさ」

「え……図書委員長、ですか」

「そうだよ。不思議じゃないでしょう、あれだけ図書室にいるんだから」


 図書室の管理を責任を持ってする、という点では、確かに慧ほどの適任はいないだろう。しかし、学園における委員長とは、それ以上の意味を持つのだ。委員長は、生徒会役員の一員。選ばれるために選挙を行うし、生徒会のメンバーとして、特異な視線を向けられる。


「声をかけるのは、これからだけどね」


 いきなりそんなことを言われたら、慧は戸惑うだろう。


「そう、ですか」


 戸惑ったあと、どんな反応をするのかは、予想がつかない。私は可もなく不可もないような相槌を打ち、視線を早苗達に向けた。


「早苗さんが、待ってますよ」

「しつこいよ、藤乃ちゃん」


 しつこいのは、どちらだというのか。

 私は座った姿勢のまま、膝に顎を置き、深くため息をついた。

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