39 保護者同伴のショッピング
「こんにちは、慧先輩」
「こんにちは、藤乃さん、山口さん……と、桂一先輩」
「やあ」
シンプルなシャツに身を包んだ兄が、軽く手を挙げる。どこから知ったのか、私が水着を買いに行くと聞いた兄は、どうしても行くと主張して聞かなかったのだ。
「ごめんなさい慧先輩、兄が」
「俺が言ったんだよ、桂一先輩に。後から、買いに行ったのが水着だとわかったら、面倒だと思ってさ」
「賢明な判断だよ。さ、行こう」
兄と慧の間に飛び散る火花が、一瞬、見えた気がした。兄は、慧が関わると、妙に警戒心を強くする。一度一緒に出かけて、いい人だということは、わかってくれているはずなのに。
今日は、駅前にある若者向けのショッピングモールに来ている。衣服を買うときには、デパートに行くか、家に呼ぶかなので、こんな風に歩いて、人のたくさんいる店に来るのは初めてだ。
「若い人がたくさんいて、賑やかですね」
「そういう店だからね」
扉で隔てられることもなく、広いフロアには、たくさんのテナントが並んでいる。色とりどりの衣服。店が変わると、服の色合いも変わる。いらっしゃいませ、という甲高い店員の声が飛び交っている。
「藤乃さん、本当にこんなところで、買っていいの?」
「構わないと思いますが……」
「多分だけど、藤乃さんが普段着ている服とは、全然違うと思うんだよね」
通路を、人を避けながら歩く。避けないといけないくらい、たくさんの人だ。兄とも慧とも、並んで歩くことは難しくて、互いに前後しながら、人と人の間を進んでいる。
店先にはいくつもの服が吊るされ、目立つ字体で金額が表示されている。
その金額は、確かに普段購入する服とは、桁が違う。通り過ぎ様に、軽く生地を撫でてみた。肌に引っかかるような感じは、あまり好きにはなれない。
「人前に出るときの服を買うのはさすがにまずいけど、水着くらいなら、いいと思うよ。僕も買おうかな」
私の答えに、兄が補足を加える。水着なんて、その日しか着ないようなものだ。多少生地が悪くても、デザインが良ければ、構わない。
「お兄様は、いつもプールに入るものね」
「夏は特にね。暑いのは、苦手だからさ」
「プールによく行かれるんですか」
慧の質問に、兄は首を振る。
「よく行くというか、家にあるんだよ」
「え、家に?」
「地下に、プールがあるんです。そんなに大きくはありませんが、夏にはそこで、涼むんです」
地下のプールは、天井から陽が入り、幻想的に見えるつくりになっている。もう少しすると、ひんやりした水が心地良い時期だ。私は夏にしか入らないけれど、両親や兄は、健康のためと言って普段からよく泳いでいる。
「へえ……すごいなあ。藤乃さんの家がどんな風か、全く、想像できない。豪邸なんだね」
「豪邸なんて、そんな」
「慧君もいつか、来られるといいね?」
語尾を上げた兄の言い方は、妙に挑発的だ。
「お兄様……その言い方は、ちょっと」
私が咎めても、兄は口角をきゅっと持ち上げた、挑戦的な顔を崩さない。
「いいんだよ、藤乃さん。俺も、いつかご両親にお会いすることがあれば、行けるだろうから」
「そんなの、いつでも」
いつでもいい。そう言いかけて、私は口をつぐんだ。
いつでもよくは、なかった。私の母は、慧のことを、女性だと思っているのだ。両親に会わせるとなると、まずその誤解を、解かなくてはならない。
「紹介出来ないでしょう、藤乃」
「……そうだったわ」
兄は、母の誤解を知っていて、敢えて内緒にしてくれている。私が常識を学ぶためには、慧に案内してもらうことが必要だと、わかってくれているのだ。
少なくとも、私が常識を学んで、慧や兄とも、疑問なく会話できるようになれば。誤解を解いて、慧を家に招くこともできる。
「ごめんなさい、慧先輩」
「大丈夫だよ。まだ今はそのときじゃないって、ことだと思うから」
「随分自信満々な言い方をするじゃないか。いつかは気持ちが変わるって、思っているみたいだ」
また兄が、慧に突っかかっていく。どうして兄は、慧のことを嫌っているわけでもないのに、こんな言い方をするんだろう。
「変わるというか……わかる、ですかね」
「わかる、ね……何にせよ、その答えは、藤乃が決めることだから」
「そうですね」
唐突に両者の会話が終わり、視線は私に集中する。
「その答え……?」
兄と慧の話は、私にはまだ、さっぱりわからない。
「……常識が、足りないみたいです」
「常識、というか……そうだね」
「藤乃は今まで、そんなこと、別に考えなくて良かったものな」
ふたりの言葉の核心にあるものが、私には、まだわからない。あまりのわからなさに苛立ちも覚えるけれど、それでも、わからないものはわからないのだった。
「あ、ここだね」
夏の近づくこの時期に、水着売り場が特設されているということで、このフロアを歩いていたのだ。視界が開け、色とりどりの水着が並ぶ空間に出る。
「こんなにたくさん……!」
倉庫のように、たくさんの水着が整然と並んでいる。それを見て回っている、たくさんの女性たち。ところどころに、水着を纏った、華やかなマネキンが見え隠れする。
「だろうと思っていたけど、女の子ばかりだね」
「そうですね。俺も、ひとりじゃ入れません」
兄と慧が、女性ばかりの売り場を見て、そんな言葉を交わしている。
「そっか……入りにくいなら、私、ひとりで行ってきましょうか? あ、山口と一緒に、もちろん」
「いや、藤乃が高等部らしい水着を選べるか心配だから、ついていくよ」
「ここまで来たから、俺も行くよ」
申し訳なさから出た提案は、即座に一蹴される。山口が口元に手を当て、げほん、と咳払いをした。手に隠れた口元が、笑っているように見えたのは、気のせいだろうか。
「藤乃は、どんなのがいいと思う?」
水着売り場に入り、狭い通路を、合計四人で歩き始める。私と兄と、慧と、山口。その様子は恐らく異様で、すれ違う女性たちが、じっと視線を向けてくる。申し訳ない。
「……うーん、学外活動ですから。それに、運動もするので、家族で出かけるときとは違って、授業で着るような……」
目の前の一画に、思い描いた水着を並べている場所を見つけ、指差す。黒や紺を基調とした、上下の繋がったデザイン。
「あれは競泳用だよ、藤乃」
「授業では、ああいうのを、身につけていたと思うんだけど」
「そうだけど、多分今回は、相応しくないと思う」
兄はきっぱりと、そう断言する。
「学外活動は、学園生活の一環だから……」
「藤乃。僕も、学外活動で磯遊びもしたことがあるから言うけど、絶対他のクラスメイトは、ああいう華やかなのを着てくるよ」
そして、熱弁。兄の指す先には、マネキンが着ている、ビキニ型の水着がある。
「えっ……あんなの、家族での旅行でも着ないじゃない」
下着と大差ない水着。普段の旅行だって、その上にパレオを来たり、シャツを羽織ったりしている。
「そうだね。藤乃は着なくてもいいと思うけど、周りの女の子は、あのくらいは平気で着てくるんじゃないかな」
「今回は、生徒会長なんかも参加するそうですから」
「そうらしいね。だから、尚更だ」
慧まで同調し、とにかく、競泳水着は却下された。
「それを踏まえて、何がいい?」
「ええと、じゃあ……あの辺り?」
いきなり聞かれても、すぐには答えられない。私は目についた棚を指さした。ピンクを基調とした水着が並んでいる区画には、女性たちも、集まっている。
「いや。藤乃はやっぱり、寒色が似合うと思うよ」
「濃い色が良さそうですね。濡れますから」
「そうだね」
私の提案はまたも兄に、一瞬で却下される。兄と慧は、ふたりで話しながら、紺色の水着がたくさん置かれている棚へ向かっている。もはや私は、後ろからついていくだけだ。
「これは……ちょっと、露出が過ぎるな」
「上からTシャツを着ますよね? これはどうですか」
懸命にひとつひとつ取り出しては吟味するふたりを横目に、私はなんとなく、並んでいる水着を眺めてみる。こんなにたくさんあると、何が良くて、何が良くないかわからない。
「これも悪くない」
「可愛いですね、それ」
また別のを取り出し、ふたりで品評する。
「……慧君、君はずいぶん、水着を選ぶのになれているね」
「桂一先輩こそ、女性の水着に詳しいですね。俺は、妹の買い物に付き合うことがありますから」
「僕は……女友達の買い物に、付き合うからね」
慧が、はっ、と乾いた笑いをもらす。
「なら、俺の方が健全ですね」
「君が高等部にいるからだろう。大学に入れば、そのくらい」
「ないですね。俺は藤乃さんひと筋ですから」
喧嘩をしているのかしていないのかわからない、ひやひやするやりとりが繰り広げられる。
「これか、これかな」
「あ……でもこれ、サイズがそれぞれ違いますよ」
「ああ、本当だ。藤乃、水着のサイズを教えてくれ」
「えっ?」
兄の質問に、びっくりする。
「それ、答えるの……?」
水着のサイズと言うが、兄が持っているのは、やはりビキニタイプのもの。そのサイズを答えるということは、つまり。
「レディに水着のサイズを聞くというのは、よろしくありませんね」
後ろに控えていた山口が、凛とした声で言う。
「あ……すまん」
おかげで兄が、気づいてくれた。私はほっとし、兄の持っているふたつの水着を受け取る。
「選んでくれて、ありがとう。試着してくるわ」
何しろ兄は、高等部の学外活動を、既に経験している。慧だって、1年高等部で生活して、行事の雰囲気は知っている。何も知らない私が選ぶより、場にあったものが選ばれるのは、間違いない。




