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36 カフェ体験

「行ってきます」

「行ってらっしゃい。暗くなる前に、帰るんだよ」


 兄に見送られて、私は家を出る。よく晴れた空。柔らかなカーディガン。薄緑のワンピース。週末がやってきた。慧と会いに、私は出かける。


「お嬢様は本当に、慧様と仲がよろしいのですね」

「そうかしら。……まあ、そうね。慧先輩は、優しいから」


 バックミラーに映る山口の目が、ひゅっと細められる。


「確かにお優しい方ですね」


 山口がアクセルを踏み、車は揺れもなく走り始める。向かう先は、今日も同じ。駅前の、繁華街である。駐車場に車を停め、山口と共に、待ち合わせのカフェの前へ向かった。


「おはよう、藤乃さん」

「おはようございます、慧先輩」

「それに……山口さんも」


 慧の挨拶に、山口は礼をして応える。このやりとりも、もう数度目だ。慧にも山口にも、妙な緊張感はない。


「……全然違いますね、この間のお店と」

「系統が違うからねえ」


 自動ドアを抜けると、ふわっとコーヒーの香りが漂う。落ち着いた色味の壁や床、穏やかなBGM。客層も落ち着いている。

 私はこちらの方が、落ち着くかもしれない。ファストフード店は、いささか、配色が派手すぎた。


「いらっしゃいませ。ご注文がお決まりでしたら、どうぞ」


 中へ入ると、緑のエプロンをかけた店員が、明るい笑顔で声をかけてきた。この笑顔は、先日の店と変わらない。


「俺は、コーヒーを。藤乃さん、何にする?」

「私は、……カプチーノで」


 残りの細々した注文は慧に任せ、私は店内を見回した。少し狭いかな、というくらいの空間を挟んで、たくさんの机が並んでいる。

 たくさんの人が、ここにもいる。私の来たことがない場所に通う人が、こんなにいるのだ。

 あちらのテーブルで女子高生が笑えば、そちらのテーブルでは真面目な顔した男性がノートパソコンとにらめっこ。ここにいるそれぞれの人の後ろに、それぞれの生活がある。そしてそれは、恐らく私の普段の暮らしとは、全然違うところにある。

 私の知る、世界は狭い。慧と出かけることで、もっと広げられる。


「はい、藤乃さん」


 慧から、カップを受け取る。温かな温度が、手のひらから伝わってくる。


「わ……かわいい。ハートですね」


 カプチーノのミルクの表面は、ハート型に見えるよう、デザインされていた。

 空席を探して移動する。窓際に座る私たちと、適当な席を見つけてさりげなく座る山口。席につくと山口の姿はあまり気にならなくて、やはり彼もこういう場には馴染んでいるのだな、と思う。

 場違いなのは、私ばかりだ。周りからちらりと向けられる視線は、私が浮いているからかもしれない。


「慧先輩は、ここにもよく来るんですよね」

「そう。勉強しに、だけどね。あの辺りに座ってるよ」


 慧が指すのは、ひとり掛けの席。そこへ座る慧の背中は、容易に想像がついて。


「……本当によく、勉強されているんですね」

「家で勉強できないだけだよ。藤乃さんも会ったでしょ、凛があんな感じだからさ」

「まあ……」


 まだ初等部の年齢の凛は、元気が良く、慧にもよく話しかけてきた。慧は慧で、近くにいたら、世話を焼いてしまうのだろう。


「それでも、凄いと思います。慧先輩は、実際に頑張りが、成績に繋がっていますし」


 彼が毎回のテストで1位を取っていることを、私は知っている。大勢いる学年の生徒の中で1位を取り続けることは、大変なことだ。


「それは、……まあ、特待生だからね」


 慧は、ふっ、と口元を緩める。


「後輩のためにも、成果は上げないと」

「後輩、ですか」

「そうだよ。あんなに設備の揃った学園に、勉強さえできれば、無料で通えるんだよ。そんなチャンスをもらえることなんて、なかなかないから、普通は」


 普通は。

 慧が普通という言葉を使うと、私は彼を、ぐっと遠くに感じる。彼の普通と私の普通が違うことを、痛感するからだ。


「何も考えずにそれを享受していた自分が、恥ずかしくなりました……」

「ええ? 藤乃さん、それは考えすぎだよ」


 慧が笑うと、頬がまるくくぼむ。変わらない笑顔が、慧は今のやりとりを、気にしていないことを示している。


「でも、慧先輩の話す普通と、私の普通が、あんまり違うので」

「それは、仕方ないよ。普通が違くても、お互い分かりあえば、いいんじゃないかな」


 真っ当な慧の台詞。私はまだちくりとする気持ちを抱えながらも、もう言い返す言葉はなくて、口を閉じた。

 分かり合うため。少なくとも私は、慧と兄が分かり合っているように、慧と分かり合うために、常識を学ぼうとしている。行動はしているものの、先はまだ、長いような気がする。


「あれ? 松見くん」

「あ……こんにちは」


 慧が、柔らかな声で挨拶する。声のした方へ視線を向けると、茶髪の女性が立っていた。


「……今日も、一緒なんだ。仲良いのね」

「仲が良いというか……まあ、そうですね」

「寂しいな。デートの邪魔は出来ないから、松見くんとは話せないじゃない」


 見知らぬ女性は、コーヒーカップを手に持ったまま、冗談めかした言い方をする。


「また、ひとりで来ているときにお願いします」

「最近、来ないじゃない」

「それは……俺も、いろいろとあるんですよ」


 親しげな会話。「全く」と言いながら、女性は自然な動作で慧の肩を軽く叩く。


「じゃあね」

「はい」


 私の頭を通り越して交わされる会話。この感じに、なんとなく、既視感がある。


「あの方は……」

「ああ、わからなかった? 藤乃さんはまだ2回目だもんね。店員さんだよ、先週の、ファストフード店の」

「……ああ」


 記憶と、先程の彼女の顔が結びつく。服装が違うからわからなかったけれど、言われてみれば確かに、店員さんはあんな顔をしていたかもしれない。


「よくお会いになるんですか?」

「そうだね。いつからだろう……今年の春くらいかな、なんだか、俺のよく行く店で会うんだ」


 遠い目をする、慧。その視線を追うと、少し向こうのテーブルに、先程の女性が座ったところだった。こちらの視線に気づいたらしく、にこっと微笑む。「スマイル」の顔だ。


「仲が良いのですね、あの方と」

「仲が良いっていうか……彼女、高等部の様子に興味があるみたいなんだよね」


 慧は私に視線を戻す。カプチーノは、ずいぶんぬるくなってしまった。ミルクのまったりした後味を感じつつ、僅かに首を傾げることで、理由を問う。


「霞ヶ崎学園の、大学の方に通っているらしいんだ、彼女は」

「そうなんですね」


 霞ヶ崎学園は、幼稚部から大学まで備えた、大きな学園だ。幼稚部からずっと持ち上がる人もいれば、兄のように、学外の大学に進学する人もいる。そして大学は複数の学科がある関係で、外部から受験して入学する人も多い。


「内部生の様子を見て、高等部に興味を持ったんだってさ。あれこれと、高等部の話を聞いてくれるんだよ」

「そう、なんですね」

「俺も、学園には知り合いがそういなかったから。話を聞いてもらえるのは、ありがたくてさ」


 なんだろう。

 彼女について淀みなく話す慧を見ていると、胸がちくちくする。さっき「互いの普通が違う」ことで痛んだのとは、少し違う感じだ。

 だけどそれが何でだかわからなくて、私はそっと、柔らかい布の上から胸元を押さえる。


「……どうしたの、藤乃さん?」

「あ、いえ……わかりません。ちょっと、胸が痛いような、苦しいような感じがして」


 慧は、眉尻を下げた。心配そうな表情。


「具合が悪いの?」

「いえ、そういうわけでは」

「……混んできたもんね。人の多さに、あてられたかな。そろそろ出ようか」


 周囲の空席は、時間の経過とともに、埋まりつつある。喧騒は来たときよりも大きく、室温も高くなったようだ。

 慧はテーブルの上のごみを手早くまとめ、立ち上がる。


「大丈夫? 行こう、藤乃さん」

「……えっと」


 差し出された手を、思わず見つめた。


「具合が悪いなら、手を貸すよって意味」

「……ありがとうございます」


 私はその手を取り、席を立った。別に具合が悪いわけではないから、ふらつくこともない。

 胸が苦しいのは、精神的なものだ。慧の普通が、自分の普通と違うということが、そんなにショックだったのだろうか。自分のことながら、違和感を感じて、密かに首を傾げた。


「もう、お出になりますか?」

「はい」


 山口と共に車に乗り込み、そして出発する。午後は先週同様、慧の家へ向かうのだ。手土産も、持っている。何ら問題はない。


「俺も、この春は、けっこうしんどかったんだ。せっかく1年かけて馴染んできたのに、クラスが変わって、またぎこちない関係に戻ってさ。だから、まあ、いろいろと愚痴っていただけなんだよね」


 慧は車に乗ってからも、ファストフード店の彼女の話をやめない。なんとなく声が上ずっているような、いつもより早口なような気がするのは、なぜだろう。


「だから藤乃さんが、心配するようなことじゃないんだよ」


 わからないけれど、ただただ、胸のちくちくは治らない。


「……はい」


 上の空な返事になってしまうのを、止められなかった。

 ちょっと妙な空気のまま、車は慧のアパート前へ停車する。ここからは、先週と同じ。山口はどこかへ待機しに行き、私と慧は、彼の家へ向かう。もう二度目になる通路を抜け、二度目になる扉を開ける。


「あ! お姉さん!」


 この顔を見るのも、二度目だ。

 慧に似た口元と、笑うとへこむえくぼ。違うのは、今回のお出迎えは、随分と歓迎的なこと。


「それ、お菓子? お菓子? うちが最初に、食べてもいい?」

「どうぞ」


 持参した袋を差し出すと、凛はそれを掲げ持つ。飛び上がらんばかりにして、居間に戻って行った。


「……この間頂いたお菓子を、随分気に入ってさ。ごめんね藤乃さん、品がなくて」

「いえ、可愛いです」


 あんな風に喜ばれるのなら、持ってきて良かったと思える。

 凛に続き、私と慧も、部屋の中へ入っていった。

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