32 慧の家
「参りましょう」
山口も合流して、階段を下りる。
「あれ、帰るの、松見くん。今日は早いね」
途中で、先ほどの茶髪の店員とすれ違った。慧の顔見知りの人だ。慧はちらりと私を見てから、「このあとも用事があるので」と答える。
「彼女さん?」
「はい、いえ、まあ……どうでしょう」
山口をちらりと見ながら、歯切れ悪く慧が答える。「スマイル」を頼んだときと同じ笑顔で、彼女は「そう」と受けた。
「またね、松見くん」
「はい」
この、自分の上を飛び越えて交わされる会話の感じは、なんとなく覚えがある。早苗と海斗の会話が、そうだった。慧と兄の会話も、時折、そんな感じがある。
そしてその会話は、大体私には、理解できない。発される言葉の裏側にある思惑というか、常識というか、含みというか。それを上手く察せないことがあるのだ。
ちょっとファストフード店に行ってみたくらいじゃ、まだまだ足りないのね。
納得しながら店を出る私の背を、「ありがとうございましたー!」と威勢の良い声が追った。
「どうぞ、お乗りください」
「お邪魔します」
「ありがとう、山口」
山口が回してきた車に乗り込む。車は、音もなく滑り出した。慧の住所は、既に山口に伝えてある。
「本当に、いいのかな。藤乃さんを、俺の家なんかに連れて行って」
「迷惑ですよね……すみません、ありがとうございます」
「いや、迷惑じゃないけど……たぶん、驚くと思うんだ。藤乃さんが想像するより、はるかに、貧相だろうから」
慧は、山口が用意した温かい紅茶を飲む。車内は空調が効いて、やや肌寒いくらい。温かい紅茶が、ちょうど良い。
「そんなこと、関係ないですよ」
今日の紅茶は、爽やかなローズの香り。
私がそう言っても、慧は、微妙な表情を浮かべたままだった。
車は広い道路から脇道へ入り、くねくねとした細道を曲がりながら進む。マンションが一軒家に変わり、小さなアパートが散見される。
「慧様のお宅は、この辺りですね」
「はい。ありがとうございます、山口さん」
柔らかくブレーキが踏まれ、あるアパートの前で、車は停まる。
「ここなんだけど、藤乃さん、本当に構わない?」
「……ええ。すみません、やっぱり、迷惑でしたね」
あまりにも慧が申し訳なさそうに言うので、こちらの方が、申し訳なくなる。別に、彼に心理的な負担をかけたいわけではないのに。
「いや、藤乃さんが来てくれるのは、嬉しいんだよ」
「私も、お友達の家にお邪魔するなんて、本当に久々で嬉しいです」
「そう……?」
慧は、車のガラス越しに、自宅を見つめた。昼間の陽射しが、彼のレンズに反射する。
「私は、この辺りで待機しておりますので。お帰りになる頃、ご連絡ください」
「一緒に中には来ないの?」
「はい。お招きされたのは、お嬢様ですから」
山口は運転席を離れ、戸を開ける。
「どうぞ、お降りください」
「ありがとう」
「……本当に、藤乃さんは、こういう道には似つかわしくないね」
車を降りた私を、慧は眩しそうにして見る。
「お恥ずかしいです」
「褒めてるんだよ」
慧は車から一歩離れ、こちらを見る。
「行こうか、藤乃さん」
「はい」
アパートの入り口を潜り抜け、階段で上に上がる。狭い通路の壁に、同じ扉がずらりと並んでいる。
そのうちのひとつに慧は手をかけ、鍵を開けた。
「どうぞ。……ただいま、メグ」
扉が開くと、中から、木のような匂いが流れ出てくる。そして、にゃーん、と甲高い声。扉を開けた慧は、足元に擦りつく黒猫の頭を撫でた。
「お邪魔します……」
「藤乃さん、これは飼い猫の、メグだよ」
猫の丸い、ガラス玉のような目がきらりとこちらを見つめる。耳がぴくり、と動いた。玄関に上がるため、一歩踏み込む。すると猫は、一瞬ふくらみ、ぴゃっと逃げた。
「あ……」
「ごめんね藤乃さん、知らない人には、慣れてないんだ」
家具の向こうで、はみ出た尻尾だけが揺れている。
「可愛いですね」
「藤乃さんは、動物は苦手じゃないの?」
「好きですよ。祖父母の家で飼っているゴールデン・レトリーバーに会うのが、いつも楽しみで」
私も幼い頃に犬を飼いたいと駄々をこねたが、父が動物アレルギーだからと、断られてしまった。家に動物がいるというのには、憧れがある。
「それなら、よかった」
慧は靴を脱ぎ、部屋に上がる。玄関には、慧の靴だけでなく、小さめの靴も転がっている。
「ああもう、凛はまた、靴を放り出して」
「妹さんですか?」
「そう。いつも言っているんだけど、靴を揃えてくれないんだよね」
小言を言いつつ、ピンク色の可愛らしい運動靴を、かかとを揃えて並べる。私も靴を脱ぎ、部屋に上がった。
妹がいるって、どんな感じなんだろう。
私には兄しかいないから、それを想像すると、新鮮な気持ちがする。
「慧先輩、これ、ちょっとしたものですが」
「え?」
「皆さんでどうぞ」
私は、母が持たせてくれた菓子の袋を、差し出す。淡いパステルカラーの袋。母が懇意にしている洋菓子屋のものだ。
「え……もらえないよ、そんな」
「いえ、そのために持ってきたので、貰ってください」
暫しの押し問答の末、慧はその袋を受け取る。中をちらりと見て、小さくため息をついた。
「こんな、豪華なもの……ごめんね、ありがとう」
「お兄、誰か来てるの?」
ぱたぱた、と裸足の足音とともに、そう声がかかる。奥の部屋から出てきたのは、少女。見れば、口元が、慧とよく似ている。
「こんにちは」
小さい慧みたいで、可愛い。思わず、頬が緩んだ。そのまま挨拶すると、さっきの猫みたいに、少女は警戒の眼差しを向ける。
「……だれ?」
「藤乃さんだよ。学園の後輩が来るって、言っただろ。藤乃さん、この子が凛。妹だよ」
「凛ちゃん、ですね」
凛は、ふいっ、とそっぽを向く。
「……うち、知らないもん、この人。名前呼ばれるの、やだ」
「え……ごめんなさい」
「ごめん、藤乃さん。どうしたの、凛? 何かあった?」
「ないっ!」
軽く屈んで視線を合わせる慧の問いかけも、きつい口調ではねのける。凛は、どたどたと激しい足音を立てて、部屋へ戻っていった。
「どうしたんだろう……凛はあんまり、人見知りはしない子なんだけど。驚いたのかな。ごめんね、藤乃さん」
「構いません。慧先輩に似ていて、可愛らしい妹さんですね」
「そうかな。身内だとわからないや」
先ほど凛が入っていった扉を開ける。室内は、いくつかの部屋に分かれているようだ。凛の姿はなく、キッチンも備え付けられた居間には、座卓とテレビが置かれている。
座卓の中央には、大きな段ボールが、でん、とある。
「これって……」
「こないだ注文したゲーム機だよ。午前中届くから、受け取ってもらうように、凛に頼んだんだ」
「そうだったんですね」
段ボールに貼られたガムテープを、べりべりと剥がす。封を開けると、ネットで見たのと同じパッケージが出てくる。
「やっぱり、霞ヶ崎学園ですね。どう見ても」
「本当だね。それにこれ、生徒会長じゃない?」
学園を背景に、居並ぶ美男子たち。そのひとりを指して、慧は言う。たしかにそれは、生徒なら誰でも見たことがある、生徒会長によく似ている。
「とりあえず、セッティングしよう。俺がやっていい?」
「はい。お任せします」
座卓を囲むように、テレビの見える位置に座る。座布団は花柄で、可愛らしいもの。こんな風にぺったりと床に座り込んだことは、あまりないかもしれない。
慧といると、知らないことを、たくさん知れる。
そのありがたさを噛み締めているうちに、着々と、準備が進んでいくのだった。




