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30 兄の事情聴取

 霞が崎学園を舞台にした、例の乙女ゲーム。その紹介ページを読み耽っていると、部屋の扉が、ノックされる。

 携帯をベッドサイドに置き、私は、背筋をすっと伸ばした。こんな夜分に部屋を訪ねてくる人なんて、ひとりしかいない。


「どうぞ、お兄様」

「お邪魔するよ。……その部屋着、いいね。よく似合ってる」

「……ありがとうございます」


 湯上りの肌に心地よい、ふわふわした部屋着。パステルカラーのピンクと水色で構成された、可愛らしい、お気に入りだ。部屋を出るときには着替えているから、家族の目に触れることもあまりない。

 褒められるのは良かったけれど、兄の表情を窺う私は相変わらず、心中穏やかではなかった。彼のその笑顔は、顔に張り付いているようだったから。兄のこういう顔は、本心が読めなくて、恐ろしい。


「……慧先輩の、ことですよね?」


 そして私は、彼の苛立ちに心当たりがあった。

 慧とふたりで水族館に行く、と言った時と同じだ。兄は慧が男であることを知っている。認めるとか認めないとか、よくわからないが、慧とはそういう約束を交わしているという。

 慧の家に行くことは、認められない行為なのかもしれない。


「そう。よくわかったね」

「……まあ」

「家に行くなんて、ずいぶんな急展開じゃない? いったい、どういう経緯でそうなったの?」


 この質問は、予想していた。

 兄が来るまで、私はどんな風に答えたらいいか、いろいろとパターンを考えていた。しかしこの、目だけが笑っていない兄の笑顔を見ると、嘘をついても見透かされると思う。

 だから私は、差し障りのない範囲で、真実を伝えることを選んだ。


「ゲームを買ったの」

「え? ゲーム?」

「そう。どうしても、やってみたいものがあって」


 机の傍にある椅子に腰掛けた兄は、長い脚を組み、顎を触る。


「ゲームねえ……意外だな」

「でしょ? 家に届くのは恥ずかしいなと思っていたら、慧先輩が、自分の住所に送っていいよ、って言ってくださったの。ゲーム機は重くて、運べなさそうだったから」

「ああ……」


 兄の納得したような相槌を受けて、私は少しほっとしながら続ける。


「運べないなら、家でやってもいいよって慧先輩が言ってくれたから、お願いしたのよ」

「……なるほどね。藤乃から頼んだようなものなんだ」

「そうなの! 慧先輩には、迷惑をかけてしまっているの」


 誤解なく伝わったようだ。兄の強張った眉が、やや和らぐ。


「僕からも、謝っておこうかな。妹のわがままで迷惑をかけるわけだから、連絡してもいいよね?」

「まあ……慧先輩は、お兄様に怒られるって、心配していたから」


 はは、と乾いた兄の笑い。


「怒られる、かあ。藤乃はどう思う?」

「事情が分かったから、もう怒らないでしょ。だからお兄様と話したら、安心すると思うわ」

「そう」


 微笑む兄の表情は、かなり、自然に近い。違和感があるとすれば、口角が片側だけ上がっていて、なんだか皮肉っぽいぐらいだ。


「なら、僕からも連絡しておくよ。……ところでそのゲームって、どんな内容なの?」

「え……それは、ちょっと恥ずかしい内容なのよ」


 それは、事実だ。誰かに見られるのは恥ずかしい、恋愛ゲームなのだから。


「危ないやつじゃないよね?」

「危ないって、なに?」

「うーん……やましい、というか。何だろう、全年齢対象じゃないものかな」

「全年齢対象……?」


 どうだっただろう。商品のページを思い出そうとしたけれど、どんな表記だったか、浮かんでは来なかった。


「……いいよ藤乃、慧くんに聞くから」

「ごめんなさい」

「そこまでゲームには詳しくないもんね、藤乃は。大丈夫、僕がちゃんと、釘を刺しておくから」


 何の釘を刺すの?

 聞き返す間もなく、理解できないうちに、兄は立ち上がる。「おやすみ」と言って部屋を出る兄の、柔らかなシャツの背を見送った。


「おやすみなさい」


 返した挨拶が消えると同時に、ぱたりと、扉が閉じる。

 やっぱり、兄が慧について話すとき、慧が兄について話すときには、よくわからないことがある。

 もっと、常識を知らなくっちゃいけないんだわ。

 そう思いながら私は、シーツを引き被り、眠りについた。


 朝起きたら支度をして、学園に向かう。教室に入ると、早苗を囲む輪は、日に日に大きくなっている。


 早苗は、ゲームのヒロインだ。

 そう思って見ると、確かに彼女は、間違いなくヒロインなのだった。飛び抜けた容姿。ちょっと抜けたことをしても、許されてしまう愛嬌。何においても抜群の能力を誇り、何をしても活躍する。そしてどこかから滲み出て光り輝く、持ち前の魅力。

 同時に彼女の周りにいるとき、囲んでいる彼らが不自然なことにも気づいた。早苗が何をしても、何を言っても、笑顔でもてはやす。

 特に、彼女を好きであるはずの海斗を含む男性陣の様子には、強い違和感があった。他の男の人と親しく早苗が話していても、少し拗ねるくらいで、彼女の傍を離れはしない。彼らは学内でも人気者ばかりで、選ぼうと思えばいくらでも選べるはずなのに。早苗に固執する様は、さすがに、妙だった。


 そんな違和感も、彼女がゲームのヒロインであり、ここがゲームの舞台であるとしたら。そして、早苗がゲームの展開を熟知していて、上手に立ち回っているなら。納得できる話ではあった。


「早苗さんは、学外活動に、どなたかお呼びになるの?」


 結局、早苗と海斗が掛け合い、私たちのクラスの学外活動において、他クラスの生徒の参加を募ることも構わないということに決まった。


「あたしは、生徒会長が、来たいというから……。それに、隣の、あの会長でしょ。あとは……」


 早苗は指折り数えつつ、名前をどんどん挙げていく。


「素敵ですわ」

「どの方も素敵なお方ね」

「早苗さんのおかげで、私たちも、あんなに素敵な方々とお話しする機会を得られるのね」


 うっとりと目を細める女生徒が、ちらほら。早苗の挙げた名前は、どれも中学部時代、あるいは初等部の時代から、圧倒的な人望を誇る面々だ。

 そんな人気者たちも、早苗の前では骨抜きなのである。


 昨晩、ゲームの紹介画面を熟読した私は、彼女の挙げた名がいずれも攻略対象であることを知っている。もしかしたら学外活動は、何かを兼ねているのかもしれない。

 それを知るためにも、ゲームはちゃんとプレイしなくっちゃ。


「……と、いうことなんです」

「へえ。学外活動が、イベントを兼ねている、か」


 放課後。図書室を訪れた私は、思ったことを、慧に伝えた。カウンターに肘をつく慧は、眼鏡のフレームに触れ、軽く持ち上げて離す。


「なんだか本当に、お話みたいな話だね」

「そうなんです。現実離れしていると思うし、おかしな話なんですが……それにしては周囲の環境が、出来上がり過ぎていて」

「うん、わかるよ。別に疑ってないさ」


 慧の手元には、私も借りたことのある、可愛らしい女性が表紙の小説。


「慧先輩、それ……」

「うん。藤乃さんが考えていることを、ちゃんとわかってあげたくてさ。借りてみた。たしかこれ、読んでたよね?」

「……はい」


 知的な慧とその本は、いささかミスマッチだ。それでも私は、彼の気持ちが嬉しかった。そんな馬鹿な、と一蹴されてもおかしくないような話なのに、彼は真剣に受け止めてくれている。胸のあたりが、じわりと温かくなるのを感じた。

 慧は口元を押さえ、欠伸を噛み殺しているような表情をした。


「眠いや」


 くぐもった声で、ぽそりと呟く。


「寝不足ですか?」

「ん? まあ……ちょっとね」

「お勉強も、ほどほどにしなくちゃだめですよ」


 つい口をついて出たのは、山口の常套句。慧は頷き、目尻を指先で拭った。


「勉強じゃないよ。ちょっと、電話をしていたんだ」

「電話?」

「そう。桂一先輩とね」

「お兄様と? ああ……」


 そういえば兄は、慧に連絡を取るようなことを言っていた。それにしても、慧が寝不足になるくらい、遅くに電話するなんて。


「ごめんなさい、ご迷惑をおかけして」

「いや、別に迷惑じゃないよ。最後は盛り上がっちゃって、それで寝るのが遅くなったんだ」

「盛り上がったんですか」


 復唱する私に、頷く慧。水族館に行ったときも思ったけれど、兄と慧は、どうも気が合うらしい。


「いいですね、おふたりは、楽しそうで」


 返す言葉が、どことなく、拗ねたような調子になってしまった。


「楽しいのは、藤乃さんの話ができるからだよ。桂一先輩も、妹の話ばかり外でしていられないんだってさ。俺も、藤乃さんの話を、そんなにあちこちでできるわけではないから」


 慧は視線を、向こうに移す。図書室は今日も、私たちふたりだけだ。


「とりあえず、週末のことも了承を得られたんだ。俺も気兼ねなく、藤乃さんと楽しい時間を過ごせるよ」

「楽しみです、私も」

「うん」


 慧の横顔に、えくぼが生まれる。その向こうの、窓の外の空に浮かぶ雲は、鮮やかな橙色に染まっていた。

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