25 新しい目標
「俺と桂一先輩には、共通の知り合いがいてさ。その知り合いのおかげで、桂一先輩も特待生には、偏見がないらしくて。だから藤乃さんが寝た後も、普通に会話が盛り上がったんだ」
私は頷いた。ぼんやりとしながら聞いていたふたりの会話は、かなり打ち解けていた。
「それでさ、藤乃さんの寝顔が、可愛かったんだよ」
「……え?」
「藤乃さんの寝顔が、可愛かったんだ」
二度、繰り返される唐突な褒め言葉。
慧の顔を見ると、レンズ越しに、思ったよりも真面目な目つきをしている。
彼は、真面目に話しているんだ。冗談じゃないとわかって、顔が熱くなる。
「……やっぱり藤乃さんって、すぐ顔が赤くなるよね」
「うう」
恥ずかしくって俯く私に、追い討ち。
「可愛いよ」
「……もう、なんなんですか、慧先輩。今日はおかしいですよ」
可愛い、可愛いと何度も言われている。彼はそんな軟派な人でもなかろうに、おかしい。その度に私は、気恥ずかしい思いをしている。そのことを知ってか知らずか、慧は楽しげにえくぼを作る。
「遠慮が要らなくなったからだよ」
「遠慮?」
「まあ、聞いてよ。……あ、すごいね、口が大きい」
目の前を横切った魚は、口を大きく開けていた。彼らの胴体の幅よりも大きい口だ。あんぐりと口を開けると、この魚は、口を閉じていたときとは全く違う間抜けな顔になる。
「とにかく俺は、つい見ちゃったんだよ。藤乃さんのこと。制服じゃないのも新鮮だったし、本当に無防備な寝顔だったから、目が離せなくって」
「……はい」
「まあ、そんなに見てたら、桂一先輩も気付くよね。それで、聞かれたんだ」
どうやら、この辺りから本題らしい。
「何を聞かれたんですか?」
「藤乃さんのことを好きなのか、って」
「はあ……」
「もちろん、好きですって答えたよ」
慧は前も、私のことを人として好きだと言ってくれていたから。そうですよね、と相槌を打つと、慧は眉尻を下げて笑う。
「うん、藤乃さんはたぶんわかってないんだけどさ」
「わかってますよ、慧先輩が、私のこと好きだって思ってくれていることは」
慧は後頭部に手を当てる。ぐしゃ、と、そのさらさらの髪が乱された。
「うーん、たぶん藤乃さんが思っているのとは、違うんだけど……まあ、いいや。それでいろいろ相談しているうちに、藤乃さんも俺のことを好きなら、認めてやるって話になったわけ」
「認める……? お兄様が?」
話がいきなり飛ぶので、その流れがつかめない。首を傾げていても、話は先へ進む。
「それで今日桂一先輩は、藤乃さんの気持ちを、観察していたんだよ。藤乃さんは、俺のことを好きなのか」
「好きですよ、私」
「ありがとう、嬉しいよ。とにかく俺と桂一先輩の間に、そういう約束が取り交わされたことは、藤乃さんにも伝えておこうと思ってさ」
「ありがとうございます」
言わないとフェアじゃないから、と付け足す慧。残念ながら言われても何の話かよくわからないのだけど、とにかく、彼の配慮に私は礼を言った。
「二人きりにしてもらえたってことは、まあ、認めてもらえたってことなんだろうね」
「はあ」
「でも俺は、急かす気はないよ。藤乃さんには、自分の幸せを、きちんと見つけてほしいと思っているから」
その話なら、わかる。
海斗との婚約が破棄された今、自分自身の幸せを追ってくれ、ということ。慧はそういう助言を、以前からしてくれている。
「もし藤乃さんが、誰かを恋愛的な意味で好きだと思ったら、俺に教えてね」
「はい、もちろんです」
慧は私の悩みを、よくわかってくれている。もちろん、そういうことがあったら、相談するだろう。力強く頷くと、慧からも頷きが返ってきた。
「ほら、藤乃さん、マンタだよ」
ゆらり。
大きな影が、頭上で揺れた。見ると、大きく左右にヒレを広げたマンタが、ゆったりと羽ばたいている。すう、と、滑るように、トンネルの周りを移動して行った。
「お腹の側は、笑っているみたいに見えますね」
白い腹側には、顔みたいに、口などが配置されていた。そのことを言うと、慧はくすり、と笑う。
「怖くはなかった?」
「怖くは……なかったです。そういえば」
マンタは苦手なはずだったのだけれど。
慧といると、恐怖心は、どこかに隠れてしまったようだった。
「写真を撮ろうか」
慧がカメラを取り出し、自分の手でこちらにレンズを向ける。証拠写真だ。私は、慧に近づく。
「もう少し寄らないと、入らないかも」
慧は私の肩に軽く触れ、引き寄せる。彼の短い毛先が、私の頬をくすぐった。甘く、爽やかな香り。どき、とせまくなる胸。
機械音がして、水色を背景にした私と慧の笑顔が、記録される。
「さあ、出よう。あんまり、桂一先輩を待たせても悪いし」
「でも、お兄様は他を見てるって」
「たぶん、もう待っていると思うよ」
歩き始め、青のトンネルを通り抜ける。出口に行くと、慧の言う通り、兄が立っていた。片足に体重をかけ、ポケットに片手を突っ込んだアンニュイな姿勢だ。通り過ぎる女性たちが、控えめに、熱い視線を投げかけている。
「藤乃さんって、桂一先輩に似てるよね」
「そうですか?」
「そうだよ。顔の雰囲気もそうだし、持っている輝きというか、そういうのも似ている」
そんなこと、初めて言われた。
兄はこちらに気づき、ポケットから出した手を軽く挙げる。そういえば、山口はどこにいるんだろう。見回すと、兄から少し離れた、フロアとトンネルの境目に、山口は立っていた。
「ありがとうございました、桂一先輩」
兄の前に立ち、慧がそう感謝を述べる。待たせてしまって、申し訳ない。私も軽く、頭を下げる。
「無理を言ってついてきたのは、僕の方だからね。せっかくの機会だったのに、邪魔して悪かった」
「いえ……今日、桂一先輩とお話しできたことは、俺に取ってはありがたいことでした」
慧と桂一が握手を交わすのを、私は眺める。
水族館は、楽しかった。楽しかったのは、間違いない。慧と行けば、水族館も好きになれるんじゃないかという私の期待は正しくて、また他の水族館にも、行きたいという気分になっている。
だけどなんとなく、釈然としない。
「慧様のお話は、おわかりになりましたか?」
前を行く慧と兄の後を歩いていると、山口が、そっと話しかけてきた。彼は、私たちの警護のためについてきているのだから、私と慧のそばにいて、話も聞いていたのだろう。
構わない。
山口の言葉に、私は首をゆるゆると横に振る。
「よくわからなかったわ」
慧と兄の約束、とか。兄が慧を認めるとか、認めないとか。慧は私に疎外感を与えないように、兄とのやりとりを明かしてくれたのだとは思うものの、その内容も今ひとつわからなかった。
「桂一先輩の大学は、どうですか? 俺、学内に特待生で進むか、学外に奨学金で行くか、迷っていて」
「どうだろう……僕は、学内に進学してないから。よければ、大学祭においでよ」
兄と慧が打ち解けている、理由がわからない。その置いてけぼり感が、たぶん、私を苛立たせているのだ。
外に出ると、陽射しはずいぶんと傾いていた。
「予定より、遅くなったね」
私はポケットから取り出し、今日のスケジュールをメモした紙を確認する。出発するべき時間より、1時間ほどオーバーしていた。
「帰る頃には、真っ暗だ」
「そうですね。慧先輩は、おひとりで帰るの、危なくありませんか?」
暗い中をひとりで歩くなんて、もってのほか。そう言い聞かせられている私は、慧の帰路を案じる。
「え? ……ああ、大丈夫だよ。いつもひとりだからさ」
「そっか、そうですよね」
ふとしたところでも、慧と自分の常識の違いを感じる。不意に、「慧の普通と自分の普通は違う」と言い放ってしまった、あの瞬間が頭の中で再生された。
私は電車に乗ったこともなければ、夜道をひとりで歩いたこともない。兄は友人も多いから、電車などには多少慣れている様子であったが、私は全くだ。
だから、兄と慧の間で通じる話を、私は理解できないのだろうか。
自分の仮定が正しいように思われて、私は帰りの車内で、他の乗客を観察した。よく見れば私と彼らは、全然違う。そもそも、山口みたいにピシッとスーツを着た素敵な壮年男性をお供につけている若者なんて、ひとりもいない。
置いてけぼり感から脱するためには、もっと、慧の普通を知らないといけないのか。
慧と兄のよくわからない会話を聞きながら、私は新たな目的を見つけ、邁進することに決めたのだった。




