24 兄と慧
がたん、ごとん。
電車の揺れは大きく、規則正しい。窓から見える景色には、どんどん緑が増えていく。時折電車が止まり、まばらに人が乗り降りし、また滑り出す。
外を眺めたり、慧や兄、山口と時折言葉を交わしたり。そんな風に過ごしていると、時間はどんどん過ぎ、目的地に近づいていく。
「僕の友達、知ってる? 僕の代の、特待生の、さ」
「存じてます。良い方ですよね。俺も入学当初、お世話になりました」
「そうそう。僕も何かと、相談に乗ってもらってさ。1番の友人かもしれない」
兄と慧は、共通の知人の話題で盛り上がっていた。兄が高等部の頃から仲良くしている、特待生の友人。その人が、慧とも親しくしていたらしい。ふたりの間に漂っていた、ぴりっとした雰囲気は消え、笑いながら話す慧の頬には、丸いえくぼが浮かんでいる。
「お嬢様、眠そうですね」
ふたりの会話を聞いていると、頭がぐらぐらしてくる。私を見て、山口がそっと、声をかけてきた。
「うん……どうしてかしら……」
「電車の規則正しい揺れが、眠気を誘うのかもしれませんね」
一定のリズムで、揺れる座席。そんなこと言われると、ますます、眠くなってくる。
「着いたら、起こして差し上げますよ」
「ん? 藤乃、眠いの?」
「朝、早かったから、眠いのかな。俺も起こすよ、寝てていいよ」
男三人に口々に促され、私はもう、眠るしかなくなる。目を閉じると、電車の走行音も、兄と慧の会話も、膜の向こうから聞こえてくるような、ぼんやりとしたものに変わった。
「藤乃、次だよ」
「ん……」
肩を軽く揺り動かされ、目が覚めた。甘やかな気分で、私は目蓋を上げる。なんだか、すごく良い夢を見ていた気がする。
頭を動かすと、顔から、軽いものがはらりと落ちる。香る、柑橘の匂い。見れば、顔にかぶせられた薄手のハンカチが、膝に落ちていた。兄のハンカチである。
「かけてくれてたの? ありがとう」
「ん? 藤乃が、あんまり無防備に寝ていたからね」
「目の毒だったよ」
私はハンカチを手にとり、兄に返す。
目の毒だなんて。どちらの意味かわからないが、よほどひどい顔を晒していたのだろう。一気に、眠気がさめる。
「……ごめんなさい」
耳が熱くなるのを感じた。くす、と笑う声がして見ると、慧がおかしそうに口元を歪めている。兄もだ。こうして見ると、兄と慧は、どこか似ている。清潔感のある服装の印象も似ているし、表情の作り方も。
「そういう意味じゃないんだけどね」
「可愛い寝顔だったよ、藤乃さん」
「かわ……!」
慧ににこやかに言われ、顔にカッと熱が集まる。
「慧くん」
「ああ、申し訳ないです」
咎める声色の兄の顔は、あの仮面のような笑顔ではなく、自然な笑みだ。謝る慧の口調も、どこか軽い。
寝ていたのでわからないが、どうやらふたりは、打ち解けることができたようだ。
「何の話をしていたの?」
気になって聞くと、おかしそうな顔のまま、ふたりは視線を交わす。
「まあ、いろいろとね」
「藤乃さんは、いいよ、気にしなくて」
いったいどうしたら、この短時間で、こんなに距離が縮まるんだろう。
答えを求めて山口を見る。私の視線を避けるように目をずらし、山口は、綺麗な灰色の髪に軽く触れる。私に聞かれたら、山口は答えないといけない。だからこれは、聞いてくれるな、という意味の仕草だ。
「……そう」
仲間外れにされてしまった、わずかな疎外感を覚えつつ。まあ仕方ないか、と私は思った。どうなることかと思ったが、兄と慧が意気投合したのなら、それはそれで構わない。
電車は、水族館の名前を冠した駅に停まる。私たちと一緒に、幾組かの家族も降りる。水族館に来たのだろう。両親に手を繋がれた小さな男の子のリュックには、イルカのキーホルダーが揺れていた。
「僕たちも、行こうか」
私の両脇に、兄と慧が並ぶ。背の高いふたりに挟まれて、ひとりだけ背の低い私はまるで、あの子供のようだ。
「藤乃さん」
階段に差し掛かると、慧に手を差し出される。その手の意味がわからなくて、私は慧の柔らかそうな手のひらを見つめた。
「階段を上がるとき、手を貸そうかって、意味だよ」
「ええ、ありがと……」
「藤乃、心配なら僕が手を引くよ」
慧の手を取ろうと差し出した手を、兄がさっと掴む。よくわからないまま、私は兄と手を繋ぎ、階段を上ることになった。これでは本当に、小さな子供だ。
「慧くん、調子に乗らないことだよ」
「桂一先輩こそ、過保護が過ぎると、嫌われますよ」
慧と兄の目が合い、その視線の真ん中で、見えない火花が散った。
打ち解けた、というか……ライバル関係と表現した方が、ふさわしいかもしれない。慧が、なぜか挑戦的な笑みを浮かべている。
「ふたりとも、お嬢様が大切なのですよ」
背後にすっと寄ってきた山口が、小声で囁く。それはまあ、大切に思われているというのは、なんとなく、わかるのだけど。
「山口、余計なことを言わないように」
「おっと、失礼いたしました、桂一様」
置いてけぼりの私をよそに、三人して、目配せと笑いを交わす。
「なんだか、やな感じだわ。話がわからない」
「藤乃は、寝てたからね。気にしないことだよ」
兄の温かな手が、なだめるように、私の頭に乗る。
「……気にしないわ」
どことなくもやもやした気持ちを抱えつつ、改札を出て、駅舎を出る。駅前は、すぐに水族館だ。大きな看板の両脇に、イルカとアザラシの模型が置かれている。愛嬌のある笑顔を浮かべた、可愛い模型だ。
「記念写真を撮らなくっちゃ」
「証拠を残さないと、いけないんでしたね」
慧の呟きに、私は応える。これはあくまでも、学外活動。慧が後日、実際に水族館を訪れて活動したことを証明するため、写真を撮らなければならないのだった。
「私が撮りますよ」
慧が、山口にカメラを手渡す。山口が構えるカメラの前で、私と慧、兄の三人が立つ。背景には、水族館の字の入った看板。
「撮りますよ」
合図とともに、カシャ、と小さく機械音がした。山口がカメラの画面を確認し、慧に返す。
「ありがとうございます」
チケット売り場でチケットを買い、水族館に入る。館内は広く、お客さんが多い割には、圧迫感を感じなかった。
「わあ……!」
水槽に、たくさんの魚が泳いでいる光景。ガラスの向こうには、なんとも涼しそうに、ヒレを靡かせて色とりどりの魚が通り過ぎてゆく。
「写真で見るのとは、全然違うわ」
予習と称して、水族館の写真はずいぶん確認していた。それでも実際に見ると、素直に、感動する。
ふわふわゆらゆらと揺れる、くらげの水槽。銀色の鱗を光らせた小魚が群泳する、見応えのある水槽。時には海亀が、時にはペンギンが。
「水族館なんて、久しぶりに来たなあ」
見学して回っているとき、兄がぽつりと呟いた。
「案外、楽しいんだね。ついてきてよかったよ」
本当だ。
興味半分で慧の学外活動についてきたわけだが、水族館というものは、存外面白いものだった。
次々と現れる青い水槽の中で、いろいろな色の、さまざまな形の、それぞれの由来を持つ魚が見られる。
「これ、本当に海藻みたいですね。私、好きかも」
小さな水槽の中で、タツノオトシゴの一種だという、海藻のような魚が泳いでいる。目を凝らさないと見えない薄くて小さなヒレを必死に動かし、ふわーっと上がったり、下がったりしている。水槽を覗き込む私の横に、慧が顔を寄せる。
「藤乃さん、この魚が好きなの?」
「はい。なんかこの必死さが、可愛くって」
「へえ、いいね……あっ」
コツン、と軽い音がする。慧が眼鏡を押さえて、はにかんだ。水槽との目測を誤って、ぶつかってしまったらしい。
「大丈夫ですか?」
「うん? 平気」
特に問題なさそうな慧に安心して、次の水槽に視線を向ける。
「あれ、お兄様、そんなところから見えるんですか?」
「ん? 気にしないで、藤乃」
兄は少し離れたところから、山口と並んで、こちらを見ている。妙に慈愛に満ちた表情だけれど、いったい、どうしたというのだろう。
「次行こう、藤乃さん」
「……はい」
イルカのショーもあり、アシカのショーもあり。時折兄の観察するような視線に困惑しつつも、スケジュールを確認しながら見て回っていると、時間は飛ぶように過ぎていく。
「あ、ここが水中トンネルね」
歩いていると、館内が薄暗い辺りに差し掛かる。照明は暗く、その分、水が青く光ったように見える。そしてその中で、魚の影が揺れる。
「幻想的な光景だわ」
「……藤乃、ふたりで先に行っていいよ」
「え? お兄様は?」
青い水のトンネル。これが、雑誌でも大きく取り上げられていた、この水族館の見所のひとつだ。
その入り口で、兄は立ち止まる。軽く手を振られ、先を促された。
「僕は、他を見たいからさ」
「……そう?」
ここまでずっと、一緒に見て回っていたのに。
「行こう、藤乃さん」
いいのかな、と躊躇う間に、軽く肘が引かれる。柔和な表情の慧が、掴んだ手を私の肘から手のひらに移動させ、そのままトンネル内に誘おうとする。
「……良かったのかしら」
「……はあ、気疲れした」
私の声と、慧の溜息が重なった。
「え?」
人混みにまぎれて、兄の姿はもう見えない。
「気疲れ……」
「そう。俺と桂一先輩のやりとりを見て、藤乃さん、違和感があったでしょう?」
「まあ……ありました」
控えめに言って。
二人して、妙な火花を散らしていたし。兄は試すようだったし、慧は挑戦的だった。
「桂一先輩は内緒って言ってたけど、藤乃さんに隠すのは失礼だと思うから、俺は言うね」
「何を……」
「藤乃さんが寝てた時に、話したんだよ、俺たち」
足元も、水の中。そこを、平たいエイが、すーっと通り過ぎていく。
そんな不思議な光景の中で、慧の種明かしが始まる。




