23 四人の学外活動
「おはようございます、お嬢様……に、桂一様」
玄関ホールに出ると、既に身支度を整えた山口が背筋を伸ばして立っていた。いつもの、ぱりっとしたスーツ。休日の早朝であっても、山口の装いは、抜かりない。私の後ろに兄の姿を認めると、目を僅かに見開いた。
「山口、今日は僕もついていくから」
「……左様でございますか」
山口は詮索もしないし、余計な意見も言わない。頷くと、「もう行かれますか?」と付け足す。
「ずいぶん、お時間には早いようですが」
「落ち着かないから、もう出発しようと思って」
「かしこまりました」
山口とともに、私と兄は、外へ出る。ここから、待ち合わせている最寄りの駅までは車で行って、そのあと合流する予定だった。
後部座席に、兄とふたりで乗り込む。
「妹のわがままに付き合わせて、山口には申し訳ないことをしたね」
「わがままだなんて。私は、こういうときのために、雇われているものですから」
山口に話しかける兄の、和やかなムード。しかしそれは未だ、胸中にあるものを隠す和やかさのように見え、私は内心どきどきしながら、水色のスカートの裾を掴む。
兄は怒るときこそ、優しくなる。幼い頃、兄の大切にしていた模型を、私がいじって落としてしまったとき。ひびの入ったそれを丁寧に修復しながら、兄はこんな風に、笑顔を浮かべていた。
口では「気にしないで」と言い、微笑んでいるので、幼い私は許されたと思って、安心して話しかけた。するとそのままの優しい表情で、なぜ勝手に触ったのか、いかに大切なものだったのか、小さいからといって許されることではない、二度と兄のものを触らないように、と厳しく叱られたのだ。
だから兄は、こんなときに穏やかにしている時ほど、恐ろしい。
「……ね、藤乃」
「はいっ!」
いきなり話しかけられ、背筋がひゅっと伸びた。私の反応に、兄がくす、と笑いをこぼす。
「聞いてた?」
「え、と……」
「山口と僕と藤乃なんて、初めての組み合わせかもね、って話していたんだ」
「ああ……」
家族での旅行などに山口が同行することはあったが、こうして私と兄と三人になるということは、初めてかもしれない。
「たしかに、そうね」
「新鮮でいいね、こういうのも」
兄の声音は、あくまでも柔らかく、穏やか。
「ねえ藤乃、それで、その先輩の話だけど」
そのままの優しい声で、いきなり話題が変わる。
「どうして藤乃は、お母様に女の人だって嘘をついたの?」
「う、嘘をついたわけではないの」
「ならどうして、お母様は女の人だと思っていたんだろうね」
兄が膝に手をかけ、こちらに上体を少し寄せる。無意識的に、私は自分の上半身を、その分だけ離れる方向に寄せた。
「私はただ、慧先輩と出かけると伝えたから、男だってこともわかっていると思って」
「その時点では、藤乃は一応、まだ海斗と婚約関係にあったわけでしょう? あっさり了承されて、おかしいと思わなかったの?」
「それほどは……山口にも付いてきてもらうから、いいかな、って」
自分でも、言い訳じみた話し方になっている自覚はある。兄ははあ、とわざとらしく溜息をついた。呆れたようなその仕草に、私は胸がせまくなった感覚に陥る。
浅い呼吸しかできない。静かに苛立っている兄は、やはり、恐ろしい。
「それに、それに、勉強に行くわけですから」
「それ自体を、咎めているわけではないよ。だけどさ、水族館でしょう? 男女ふたりで行くなんて、それは『デート』だよ、藤乃」
デート?
それは、兄の思い違いだ。会話の間があいて、私はぱちぱち、と幾度か瞬きをする。
「え……違います、あくまでも私たちは、学外活動をしに」
「そう見えるよ、という話なんだよ」
腕を組み、兄が座席に深く座り直した。体が離れ、私は少し、ほっとした気持ちになる。
「その慧先輩と藤乃は、どういうつながりなの?」
「それはね、お兄様……」
私が話している間は、兄に責められることはない。そんな安堵感から、私は、話し始める。
私は、海斗から婚約破棄を申し渡され、図書室に逃げ込んで、慧と出会ったところから。兄に伝えたのは、かいつまんだ、ほんの一部分。慧との図書室でのやりとりは、無闇に人に教えたいものではなかった。
それでも、話しながら、なつかしい気持ちになる。慧のおかげで、私にとって、図書室が居場所になった。慧と私は、立場は違うものの、互いに他者に対しての卑屈な思いを抱いていた。私は早苗に、慧は周囲の裕福な生徒たちに。互いを認め合ったり、慧が私のために怒ってくれたりして、そうして、徐々に親しくなった。
「……それで、水族館に行くことになったの」
「なるほどね、なら彼は、藤乃の婚約破棄の件を知っていたわけだ」
「ええ」
それどころか、婚約破棄の件を、慧しか知らない時期もあった。私は頷く。
「藤乃は彼に相談に乗ってもらって、ずいぶん助かったんだね」
「ええ。教室では肩身が狭くても、図書室ではほっとしていられたの。彼は私の頑張りを認めてくれたし、私のために怒ってくれるし……」
ここぞとばかりに、慧のしてくれたことを伝える。何か誤解していそうな兄に、慧が良い人であることを、アピールしなければならない。
「今日、水族館に行くことになったのも、私が海斗様との婚約破棄が決まって、戸惑っていたからで」
「そう。……いい人なんだね」
「そうなの!」
少なくとも、慧への悪いイメージは、払拭できただろうか。私も、椅子に深く座り直す。ふかふかした座面に、背中ごと埋もれた。
「そろそろ着きますよ」
そうこうしているうちに、待ち合わせの駅へ着いた。我が家で契約している駐車場に停めてもらい、私たち三人は、駅へ降り立つ。
「どこで待ち合わせているの?」
「駅の、改札の外なの。だから、この辺りにくるはずなんだけど、まだ、早いから……」
エレベーターで改札まで上がり、辺りを見回す。休日の午前は、駅を行き交う人も、皆楽しげだ。大きな荷物を持った、旅行に行くような雰囲気の人たち。賑やかな家族連れ。手を繋いだ男女。当然中には、仕事に行くような雰囲気の、きりっとしたサラリーマンもいる。
きょろきょろしていると、改札前の柱の陰で、ゆらりと人影が動く。
「あ、慧先輩!」
顔を出したのは、慧であった。私たちを見て、戸惑った顔をする。当然だ。いるはずのない兄が、一緒に来ているのだから。
「おはようございます」
「おはよう、藤乃さん。と、山口さん? それと……えーと、小松原先輩」
駆け寄ると、慧が、僅かに微笑む。頬が強張っているのか、いつものへこみが見えない。
私は、慧の前で立ち止まった。制服を着ていない彼を見るのは、初めてだ。淡い水色のワイシャツ。腕まくりした袖から、男性的な腕が覗く。黒いチノパン。高級そうではないが、清潔感がある。シンプルで、柔らかそうな生地が、慧の雰囲気によく合っている。
「……藤乃、紹介してよ」
「あっ」
つい、見入ってしまっていた。私は慌てて片手を持ち上げ、山口と兄を紹介する。
「えっと、慧先輩。こちらが、私の兄です。私たちを心配して、その……ついてきてくれて。で、こちらが、運転手の山口です」
「よろしくお願いいたします、慧様」
「突然ごめんね。よろしく、慧くん?」
口々に挨拶を交わし、慧が頭を軽く下げる。笑顔の兄は、目だけが、探るような光をたたえている。
「いえ、小松原先輩とお会いできるなんて、光栄です」
「桂一、でいいよ。藤乃も小松原、だからね」
「桂一先輩ですね」
目尻を垂らし、目を細める慧の頬は、まだ平らかだ。
「それにしても、藤乃さん達、随分早かったね」
「はい、慧先輩こそ……まだ、集合より、ずっと前なのに」
「藤乃さんを、待たせたくなかったから。良かった、早く来ておいて」
慧はさらりと言い、首を回して、券売機の方を見る。
「とりあえず、切符を買いましょう。自分の分は自分で、という約束になっているのですが、お二人も大丈夫ですか?」
「山口の分は、こちらが出すわ」
「僕はもちろん、自分で払うよ」
四人連れ立って、券売機へ向かう。
「あれ? えっと、どこを押せば……」
慧が切符を買い、兄も買った。私は山口と自分の分を、まとめて買おうとする。
券売機は、脇にたくさんボタンがあって、画面にも複数の数字が表示されている。
「……あ、ここがふたり分? だわ」
脇に並んだボタンの中に、ふたりの人のイラストが描かれたものを見つける。押すと、表示されている数字が少し高くなった。
「藤乃さん、それは大人と子供がひとりずつ、ってことだよ」
「え?」
「大人ふたりだったら、表示が倍になるはずでしょう」
慧が画面を覗き込み、教えてくれる。顔が近づく。甘くて、爽やかな香り。慧の匂いに、なんだか、どきっと心臓が跳ねた。
「ここが、大人ふたり」
「あ、倍になったわ」
「それで……」
「どれ、藤乃。見せて」
私と慧の間に、兄が手をねじ込んできた。慧がすっと離れ、さっきまで彼がいた場所に、兄が顔を差し込む。柑橘系のさっぱりした匂い。慧の匂いとは、全然違う。
「藤乃は、こういうのも、もしかして初めてなんだね」
「切符なんて、自分で買わないから……」
「そう……普通の電車に乗るのも、藤乃には、いい経験かもしれないね」
出てきた切符は、新幹線の切符よりも遥かに小さいもの。それを1枚、山口に手渡す。
「ありがとうございます」
受け取った切符を、山口は胸元から出した入れ物にすっと挟む。
「お待たせして、ごめんなさい、慧先輩」
「大丈夫。桂一先輩は、藤乃さんに優しいんだね」
「そうですね、優しいです」
兄を見ると、相変わらずの穏やかな微笑み。その笑顔の奥で何を考えているのか読めないところが、兄の怖さではあるが、優しいのは確かだ。
切符が揃ったので、改札に向かって歩く。慧と、並んだ私を先頭に、兄と山口が続く。
「慧先輩も、優しいですけど」
切符を改札に通すと、吸い込まれた切符が、向こう側で出てくる。私はそれを取ると、山口に渡そうとして……やっぱり、自分でカード入れにしまった。こうしたことも、自分ですることが、今日は大切な気がした。
「そんなこと言ったら、桂一先輩に怒られちゃうよ」
「え? どうしてです?」
聞き返すと、慧は片眉を軽く動かし、口角を引き上げた。丸い頬の中央に、柔らかなへこみが現れる。
あ、えくぼ。
いつもの慧の笑みが見られて、私は嬉しくなった。
「さあ、行きましょう。5番線です」
兄と山口も改札を抜け、私たちに追いつく。慧が先導し、階段でホームまで下りた。
「これに乗るの……?」
「藤乃、どうした? 何か、問題でも」
「いえ……なんだか、新幹線とは全然違うから」
窓も大きいし、座席は壁沿いに並べられて、向かい合わせになっている。車内を見渡した私は、見慣れない光景に、困惑していた。
「藤乃って、新幹線にしか、乗ったことないのか? 在来線は?」
「在来線……?」
「ああ……そうか、まだ高等部の1年生だものな」
兄の言わんとしていることがわからず、私は首を傾げる。頭の後ろで、結い上げたポニーテールが揺れるのを感じた。
「もっと前方に行きましょう」
慣れた様子で誘導する慧に従って、車内を移動する。乗客はまばらで、思い思いの場所に座り、自由に話している。
どうしてこんなに、座席が長いのかしら。
側面に並べるより、新幹線のように、同じ向きに並べた方がたくさん座れそうなのに。
疑問に思いながら歩いていると、車両を移動した先の座席配置は、全然違っていた。
「まあ……」
四人がけの座席が、向かい合わせになっている。そこでは、家族連れが数組座り、賑やかに過ごしていた。
私たちは、席に座る。奥の座席に、窓際の私の隣は、空席。山口は、私たちの傍の通路に立っている。
「慧くんは、僕の隣においでよ」
「そうですね」
促されて、向かいに座る兄の隣に、慧が腰掛けた。
「窓が広いわ、外がよく見える」
新幹線と違って、窓が大きく、広い。向かいのホームで電車を待つ人の様子が、よくわかる。じっと見ていると、電車を待ちながら携帯を見ている男性が、ふと顔を上げて、目が合ってしまう。私はさっと、視線を逸らした。
「藤乃さんたちは、こうした普通の電車にお乗りになることは、あまりないんですね」
「いや……そうだね、中等部まではあまりないかもしれない。僕はよく友人と出かけていたから、乗る機会もあったけど……たしかに藤乃は、あまり出かけないもんね」
昔から友達がたくさんいて、休日は遊びに出かけていた兄。彼と違って、私は、共に遊ぶ友人なんていない。
「お兄様は、こういう電車に乗るの?」
「乗るよ。一般常識だから、藤乃も、知っておかないといけないね」
兄は、窓際からこちら側に張り出した小さな物置に、肘をかける。そうして、自分の左側にいる慧を見た。
「僕も、藤乃がここまで何も知らないなんて、思ってなかったよ。君が誘ってくれて、良かったかもしれない。ありがとう」
「……いえ。そう言っていただけるなら、良かったです」
慧は、兄に微笑み返す。慧は、座っていても背筋が伸びていて、ちゃんとしている。
がたん、と電車が揺れ。
「まあ、ゆっくり走っているわ」
新幹線とは違い、外の景色をじっくり眺められる速さで、電車が次の駅に向かう。
「……良かったね、藤乃」
「楽しそうで何よりです」
こうして、四人の学外活動が、幕を開けた。