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22 過保護な彼

「お嬢様が写真集をお読みになるのは、珍しいですね」


 慧が勧めてくれた写真集は大判で、いつものブックカバーをかけることができなかった。とは言え、いつもの悪役令嬢小説とは違い、これは隠すようなものでもない。

 車内で何気なく開いていると、信号待ちの交差点で、山口に声をかけられる。


「これは、予習よ」

「予習、ですか」

「そう。私、今週末に出かけようと思うの。例の、慧先輩と」

「かしこまりました。予定を調整しておきます」


 淡々とした口調で、彼はそう請け負った。


 山口は、私と海斗の婚約の結末を、知っているのだろうか。私はふと、そんなことを考える。フロントガラス越しに外を注視する山口の目から、それを推察することはできない。


「電車で行くことになったのよ。構わないわよね?」

「電車、ですか……」


 滑らかな手つきで、ハンドルを回す。その丸い輪郭を指先でなぞりながら、山口は続けた。


「私は構いませんが、お車でなくてよろしいのですか?」

「それも勉強なんですって」

「そうですか……構いませんよ。お嬢様の、仰せの通りに致します」


 山口の了解を得たことに安堵して、私はまた、写真集に目を落とした。

 青い水の中に、白い光が射し込んでいる幻想的な光景。紺青の中をふわふわ漂うクラゲ。ゆったりと、人に寄り添って泳ぐイルカ。どの写真も、心和ませ、穏やかにさせるようなものだ。

 こんな光景を目の前に、実際に見たら、慧の言う通り、良い気分転換になるだろう。


 帰宅して、また登校して。

 仲睦まじい早苗と海斗にやきもきして、もう婚約者ではないからいいのだと自分に言い聞かせて、そうして神経をすり減らす。自分から婚約破棄を言いふらすわけにもいかなくて、周囲の案じる視線に、さらに心が擦り減る。図書室に行って癒されて。そんな風に過ごしていると、週末は、すぐにやってきた。

 私は朝から、身支度をしていた。目的の水族館は、遠くにある。日帰りで充分に見て回るために、朝早くから、出かけることになっていた。


「髪型は、どうなさいますか?」

「……いつも通りでいいわ」


 後頭部の高い位置で結った、ポニーテール。水色のワンピース。いつもの休日と、何ら変わりのない服装だ。

 やはり私は、出かけるためにわざわざめかしこもうという気分には、まだならないのだった。


 日焼け止めを塗って薄く粉をはたき、チークを塗る。さほど顔は変わらないが、血色は少しよくなる。

 化粧はあんまり好きじゃない。肌に違和感があるから。ただ、肌のために、このくらいの薄化粧はしなさいと母に叱られてから、ほんの少しだけするようにしている。


「今日は、ケイ先輩と、お出かけするんだったわね」

「そう。水族館に、学外活動に行ってくるわ」


 朝食の席に、フォークとナイフの擦れる僅かな音が響く。母に話を振られ、答えると、兄が皿から顔を上げた。


「学外活動? 藤乃のクラスは、スポーツ大会じゃなかったんだね」

「私のクラスは、スポーツ大会よ。慧先輩は、特待生なの。金銭的な問題でクラスの方には参加できないから、個別で行くんですって」

「ああ……」


 その説明だけで、兄は納得した顔をする。


「だから僕たちのクラスは、予算内に収めるようにしていたんだよね。やるなら皆でやらないと、意味がないからさ」

「私のクラスの方針もそうなんだけど、慧先輩のクラスは、そうじゃないらしいの。それで、同行させてもらうことにしたの」

「……ふうん、いいね」


 ゆるり、とコーヒーを口に運ぶ兄の仕草は、それだけで品がある。大学は外部に通っている兄だが、母の話によると、そこでも随分ともてているようだ。


「藤乃が仲の良い、その……慧先輩、って、何年なの?」

「2年生。私の、ひとつ上なの」

「あー……わかった。たぶん僕も、見たことがあるな」


 昨年度、兄が在籍していた頃は、慧はまだ1年生のはず。たくさんの人に囲まれて暮らしていた兄の目にも留まってしまう、それが慧の言っていた、「特待生は目立つ」ということなのだろう。


「で、藤乃はその先輩と、ふたりで行くの? 水族館に?」

「ふたりじゃないわ。山口も一緒よ」

「……」


 兄は、顎に手を添え、思案顔をする。そういう真顔も様になるのは、美男子の特権だ。家族ながら、ついしみじみと眺めてしまう。


「彼はああ見えて、藤乃に甘いからなあ……」

「どうしたの、桂一くん。山口が何か?」


 母が、不安げな顔で訊く。


「いや、違うよ。彼に何かあるわけじゃないんだけどさ」


 そう言いつつも、歯切れの悪い兄。いったい何が、兄に引っかかっているのか。私は気になって、首を傾げた。


「ただ、藤乃がその先輩と、ふたりって言うから。何かあったら、心配だなと思って」

「山口がいるから、大丈夫よ」

「それは、万が一の時に守ってくれる、って意味だろう。暴漢とか、そういうのからさ」


 もちろん、そうだ。山口は複数の武道に長けていて、何かあったら、必ず助けてくれる。親も、山口がいるからこそ、私が友人と出歩くことを許してくれるのだ。


「僕が言いたいのは、そういうことじゃなくて……」

「どういうこと?」

「なんというか……お母様は心配してないの、藤乃がその先輩と、ふたりで出かけることを」


 兄は、なぜだか詰問じみた調子で話す。微笑む母の眉尻が、困ったように垂れ下がる。私も、兄がどうして苛立っているのかわからない。


「心配しないわよ、山口もいるし……藤乃ちゃんに仲良しが増えるのは嬉しいわ」

「ふたりで出かけるのに? いくら婚約者がいなくなったからって、そんな、いきなり……」


 そこで漸く、私は兄が何を気にしているのかわかった。要するに彼は、私が男性とふたりで出かけることを気にしているのだ。いくら婚約が破棄される運びになったとしても、不用意だ、と。

 たしかに今日の外出を、「男性とふたり」ということに焦点を当てて考えたら、そうなるかもしれない。


「大丈夫よ、お兄様。遊びに行くんじゃなくて、学びに行くんだから」

「それは、ただの建前だろう?」

「桂一くん、その言い方は失礼よ」


 母に咎められ、兄は一瞬、口をつぐむ。母は穏やかに微笑みながら、しかし咎めるように、言葉を続けた。


「女の子ふたりで行くなんて、心配なのはわかるけれど。だから藤乃ちゃんも、山口を連れて行くんでしょ」


 ん?

 私と兄は思わず、視線を交わす。


 ケイという名は、男女どちらでもあり得る。母は勝手に、慧のことを、女生徒だと思っているのだ。


 ああ、だからふたりで出かけると言っても、了承されたんだわ。


 納得すると同時に、私はひやっとした。兄が、慧は男性だと伝えてしまえば、「やっぱり行くのは駄目」と言われるかもしれない。もう出かけるのは今日なのに、今更そんなことになったら、慧に申し訳ない。

 怪訝そうに口を開きかけた兄にかぶせ、先に言い放った。


「そうなの! そろそろ時間だから、もう出なくちゃ」


 口を挟めないよう、間をおかずに、すぐに席を立つ。

 母が視線を上げ、ゆるりと片手を振った。


「朝早いのね。いってらっしゃい」

「うん、行ってきます」


 兄の視線を振り切るように、そのまま食堂を出る。まだ約束の時間には早いけれど、余計な追及を避けるために、さっさと出かけてしまおう。


「待って藤乃、僕も同行するよ」

「え、桂一くん」

「『女の子』ふたりじゃ、心配だから」


 私の後を、母の制止を振り切った兄が追ってくる。「女の子」を殊更に強調するあたり、兄はやはり、私の嘘に気付いているのだ。


「いいでしょう、藤乃」


 兄の麗しい微笑みは、このときばかりは、本心を隠す仮面のように見えて。


「……はい」


 数拍の間を置いて、その静かな迫力に負けた私は、仕方なく、了承の意を伝えるのであった。

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