21 決定的な展開
「縁ってなんだい、藤乃」
「だから、千堂家との、縁よ。そのための婚約なんじゃないの?」
「婚約が……?」
父は、ぽかんと口を開ける。
「そんなこと、考えてたのか?」
「そんなことって……だって、そうでしょ?」
どうも、会話が噛み合わない。
私の主張に、父と母が交わす視線は、本当に混乱に満ちている。
「藤乃ちゃんが小さい頃、海斗くんと結婚の約束をしたの、覚えてる?」
「……なに、それ?」
「千堂さんと僕たちは、小さい頃の約束を形にしてあげようと思って……何しろふたりは、小学生に上がってからも、仲が良かったから」
確かに幼い頃は、海斗と仲良くしていた気もする。海斗だけでなくて、兄たちも含めて遊んでいた、ような。
「藤乃ちゃんは、家のための婚約だと、思っていたの?」
「……思ってたわ」
「私たちはただ、昔からの約束だから、って……幼馴染同士で婚約なんて、素敵じゃない?」
「そんな……」
小さい頃の約束なんて、覚えていない。覚えていないほどの幼児期の約束が、今まで果たされていたなんて。
もっと意味の深いものだと思っていた海斗との婚約が、ただ、それだけのものだったなんて。
「だけど……婚約破棄になったら、どうなるの?」
「どうにもならないよ。千堂さんとの関係も、そう大きくは変わらないし……大体、僕たちは千堂さんの取引先だよ。向こうだって、僕たちが必要なんだから」
「え、だって、なら私は、何のために」
何のために、婚約破棄を回避しようとしていたの?
それしか自分の存在意義がないと思っていたから。
婚約が、家のためになると思っていたから。
それをこうもあっさり否定されて……昼間感じた足元のぐらつきを、また感じる。頭が痛くなりそうだ。
「おかしいわ、そんなの」
「藤乃には、婚約したとき、最初に意図を伝えたから……理解していると思っていたよ」
「婚約したのなんて、初等部の頃じゃない」
あんな、十歳にも満たない時代のことなんて、もう覚えていない。
「ごめんなさい藤乃ちゃん、まさかあなたが、そんな風に思っていたなんて、知らなくて」
「ううん……私も、言っていなかったから」
どうせ私の婚約は、家のためなんでしょ。
そんな言い方は、したことがなかった。確かに、言われたこともなかったけれど、そういうことは暗黙の了解で、口に出すのは野暮なんだって。
「だから、藤乃が望むなら、婚約破棄を受けたって構わないよ」
「ふたりも、大人になるのだもの。自分たちの意思で相手を決めたって、いいと思うわ。その……お互いに気持ちがないなら、ね」
「気持ちなんて……」
海斗のことは、好きにはなれない。
私はこの数週間の観察を通して、そう結論付けたばかりだ。
「彼のことは……好きにはなれないと、思ったの。私のことなんか放っておいて、早苗さんばっかり構うんだから。婚約者、なのに」
「なかなか目に余る様子だっていうのは、聞いているよ。藤乃の同級生もずいぶん心配しているって、他の親御さんから聞いたからね」
「だから、藤乃ちゃんと話したかったのよ。どう思っているか、知りたくって。……教えてくれてよかったわ、彼に気持ちがあるわけでは、ないのね」
訳知り顔の両親に、苛立ちが募る。
だけど私はその怒りを、ぐっと押さえつけた。ここで怒ったところで、両親の罪悪感を煽るだけだ。今までの日々は、何にも変わらない。
ただ項垂れ、そのまま頷く。母が、視界の端で胸を撫で下ろした。
「なら、婚約破棄の方向で、進めるわね」
「……うん」
「藤乃は、誰と結婚したって、いいんだからな。家のつながりなんて、わざわざ結婚で繋がなくたって、いくらでも方法はあるんだから」
父のフォローは、胸を重くするばかりだ。
「藤乃の幸せを、一番に考えるんだ」
「そうよ。藤乃ちゃんが幸せなのが、私たちの喜びなんだから」
普通の親なら、子供の方が可愛いんだよ。
慧の言葉が、頭の中でこだまする。
そのことを、こんな形で実感することになるなんて。
私自身の、幸せ。
海斗とのしがらみも、何もかも失って、私はまっさらな状態で、そのふんわりした目標に立ち向かわなければならなくなった。
私の幸せなんて、わからない。
私の人生は海斗との婚約のためにあるだけで、そんな、自分の幸せなんてもの、考える必要もないと思っていた。
「……私、もう寝るわ」
「そう。おやすみなさい、藤乃ちゃん」
「おやすみ、藤乃」
できるだけ何気なく、部屋を出るように努めた。しかし、私を見送る両親の心配そうな顔から推測するに、それは失敗したらしい。
もう、なんでもいい。
私は四肢をベッドに投げ出す。本を読む気にもならなかった。枕に頬を乗せ、目を閉じる。
窓から射す日差しに、目が覚める。夏が近づいてくると、やたらと早起きになってしまう。日の出が早いからだ。
シャワーを浴び、侍女に髪を結ってもらう。
「髪型は、どうされますか?」
「……昔と同じでいいわ。普通のポニーテールにして」
最近では、ちょっとしたアレンジを加えることも多かったのだけど、今日はそんな気分にもならなかった。
学園へ行けば、海斗の様子は、いつもと変わらない。昨日の今日だから、まだそこまで話が行っていないのかもしれない。
この人との婚約は、もうなくなるんだわ。
海斗を見ながら、そう考える。悲しくもないし、寂しくもない。大きな喪失感だけが、胸にぽっかりと穴を開けていた。私の行動目標は、彼との婚約だったから。
地面を踏んでも、踏んだ気がしない。字を読んでも、読んだ気がしない。私がそんなふわふわした状態にあっても、クラスの様子は、何ら変わりはなかった。
海斗との婚約が破棄されることなんて、他の人にとっては、大した問題ではないんだわ。
考えれば考えるほど、気持ちが重たくなってくる。
そのために私は、全精力を注いでいたのに。
「……こんにちは」
「やあ、藤乃さん」
そんな、歩いているんだか止まっているんだかわからない状態でも、図書室にはたどり着くことができた。今なら目を瞑っていても、教室から図書室まで歩けるかもしれない。
慧はいつものようにカウンターにいて、変わらぬ笑顔を見せる。変わらないえくぼ。ここに来ると私は、本当に、ほっとすることができる。
一歩踏み込むと、絨毯が僅かに沈むのを感じた。
「返却するよね。本、貸して」
「いえ……今日は、まだ読み終わっていないので」
そういえば、本を返さないのは、初めてだ。慧の怪訝そうな顔を見て、私はそう思い至る。
「珍しいね、家で読んでこなかったんだ」
「はい……いろいろあって」
「いろいろって、昨日の話の続き?」
慧は、私が婚約について父に確かめると決意したことも、知っている。私は頷いた。
「酷いんですよ。私の、私と海斗様の婚約は、ただ幼い頃の約束を叶えるためだった、って……!」
ぐっと握り込んだ掌に、爪がきつめに刺さる。その痛みも感じない。慧の前で口にしたら、あのとき押さえつけた苛立ちが、ふつふつと煮えてきてしまった。
「どういうこと?」
「だから、家と家をつなぐ意味なんて、これっぽっちも、なかったんです!」
慧に怒ったって、意味がないのに。
そのまま私は、昨日両親から伝えられたことを、語気荒く、息つく間もなく話した。慧の反応なんて、目に入らなかった。全て言い終えて、はっとする。
「あ……ごめんなさい、私……」
どうして私は彼を前にすると、言葉がどんどん出てきてしまうのか。普段は抑えられるものも、抑えられない。今更我に返ったって、仕方がないのに。
「うん? いいよ」
慧は、カウンターに両手を置いたまま、にこやかにしている。
「それって、ご両親には、伝えたの?」
「いえ、それは……」
「藤乃さんって、親にも言えないようなこと、俺に話してくれてるんだね」
その柔らかな頬に、丸くくぼみができる。慧のえくぼを見ると、私は安心する。今だって、握りしめていた拳が、やっと緩んだ。
「嬉しいよ」
感情のはけ口にしてしまっていることを、なぜこうも肯定的に受け取れるのか。こちらが恥ずかしくなってしまう。耳がカッと熱くなるのがわかった。
「慧先輩って、どうしてそんなに、心が広いんですか」
「心は広くないよ」
「でも、私のどうしようもない話を、そんな風に聞いてくれるなんて」
慧は顔の前で、否定するようにその手を動かした。細くて長い指が揺れる。
「どうしようもないなんて、とんでもない。俺は嬉しい報告だなあと思って、聞いていたよ」
「嬉しい? どうして慧先輩が、嬉しいんですか?」
「え? 嬉しいよ」
組んだ手の上に、顎を乗せる慧。口元を和らげ、嬉しいという言葉は、嘘ではなさそうで。
「これで藤乃さんは、婚約なんて気にしないで、自分のことを考えられるようになったわけでしょ」
「……そう、です、ね」
「俺は早く、藤乃さんがその問題から解放されてほしいと思っていたからね」
慧がそう考えていたことは、わかっている。その反応に違和感があるのは、私が、気持ちをそう簡単には切り替えられないから。
「水族館に行くの、今週末にしようか」
黙っている私に、慧が提案する。
「良い気分転換になりそうじゃない?」
「たしかに、そうですね」
考えたってどうにもならないことは、他のことをして紛らわしたほうが良い。慧の言う事は、もっともだ。
こうして慧との学外学習は、今週末に決まった。