20 好きには、なれない
朝。登校してきた海斗は、黄色い歓声を浴びせる女生徒たちに涼しい視線を送りながら、教室へ向かう。早苗に会うと表情を変え、甘々な対応をする。他の人には見せない、緩んだ表情だ。
授業中。
無関心そうな横顔は、彫刻のように整っている。聞いていない風で、指名されれば、完璧以上の答えを返して見せる。
体育のときには、しなやかに筋肉を躍動させ、大活躍だ。肌を伝う汗が眩しい。濡れた顔を、シャツの裾で拭えば、腹筋が露わになる。近くにいた女生徒が口元を押さえ、顔を真っ赤にして見つめていた。
食事は早苗と、隣の会長と共に取っている。彼らの周囲にだけ、華やかな風が吹いている。箸で摘んだおかずを早苗に食べさせるのを横目に、私は車に戻って昼食を取った。
放課後には、いそいそと海斗は生徒会室へ向かう。生徒会室の窓から、そっと中を見たら、早苗と顔を寄せ合って何かしていた。ふたりきりというわけではなく、早苗の周りには会長や、他にも見目麗しい男性が控えていた。眩しいオーラが、室内から溢れてくるようだった。
そんな風にして、暫く私は、海斗のことを観察した。その間に、学外学習の計画は進み、第2回のテストも終わった。ちなみに2回めの結果は、なんと早苗が海斗を抜いて1位。また3位だった私と早苗の差は、さらに開いてしまった。
とにかく、その観察の目的は、彼の良いところをたくさん発見して、「好き」になるため。
もちろん勉強も頑張ったし、身嗜みも整えた。だけど、全ての行動の前提は、そこにあると思ったのだ。私が海斗を好きじゃないと、始まらない。
海斗の良いところは、たくさん見つかった。頭も良い。運動神経も良い。容姿も良い。人当たりは良くないが、早苗に見せる表情はとろけている。そんな顔で見られたいと、憧れる女生徒もいるだろう。
けれど私は、そんな海斗を見ても、これっぽっちも胸が高鳴らなかった。素敵だとは思う。凄いとも思う。親が認めるのも当然だと思う。彼が婚約者だなんて、名誉なことだ。だけど、本に書かれているような抑えきれないときめき、衝動なんていうものは、少しも湧いてこなかった。
ああ、私は、海斗のことを好きにはなれないんだ。
そう諦めがついたのは、もう数週間が経ったころだった。日差しは徐々にきつくなり、窓から見える緑は色鮮やかになった。学園では冷房が使われるようになり、制服は夏服に変わった。
「慧先輩」
「やあ、藤乃さん」
その間も私は欠かさず、図書室に通っていた。その日見た海斗の様子と、自分が思ったことを、私は彼に話すことで整理していた。
「結論が、出ました」
カウンターに入り、慧の隣に座った私は、彼にそう告げる。夏服の慧は、白いワイシャツがよく似合う。
「……そう」
慧は、いつでも変わらない。穏やかで、優しくて。時々、私の認めたくない事実を指摘してくるが、それは彼なりにいろいろ考えた結果だ。
「私、やっぱり、海斗様のことは、好きにはなれないみたいです」
確かめるように、言葉を紡ぐ。伝えるというよりは、自分の心に、刻むように。
「彼は、凄い人だけど……私は、どうしても」
海斗と結婚したら。そんなことも、想像した。結婚するとは、一生を添い遂げること。まだ私には想像つかないが、自分を蔑ろにして早苗を構っている海斗を見続けていると、結婚なんて無理だと思うようになった。海斗の顔を見る度に、早苗といちゃつく姿を思い出すのだろう。
そう思うと、どうしても、進んで結婚したいとは思えなかった。
「良かったぁ」
たっぷりの吐息と共に、慧がそう反応する。彼は、心底安堵したように、表情を緩めていた。
「俺は絶対、そうだと思ってたんだよね」
「……そう、ですよね」
慧の言動を聞いていれば、彼の考えはわかる。私は彼に流されないように、できるだけ客観的に、判断を下したつもりだ。
「ただ、どうしても、婚約は続けなきゃいけないって、思いがあって」
「そうだよね。藤乃さんはそのことを大切に思ってるっていうのも、わかるよ」
慧に肯定的な相槌を打ってもらえると、私は安心して、話をすることができる。
「お父さんの思いを、大事にしているんだね」
「……はい」
父の思いというか、私自身のためというか。父が私を、千堂家とのつながりとして見ている以上、どうしても私は、海斗の婚約から離れられないのだ。
「フラットに考えるために、父に確かめてみようと思うんです」
私は父に直接、それを聞いたことがない。ただ、海斗との婚約が結ばれた事実と、それを喜んでいる様子から、推測しているだけだ。
自分は海斗を好きではないという事実の次は、その事実を確かめたい。真に自分のためになる選択をするには、はっきりしたことを知らないと、始まらない。
「いいんじゃない?」
父に聞いてこなかったのは、本当に自分にそれだけの価値しかないと明言されたとき、きっと傷つくと思ったからだ。慧に促され、私は腹を決める。
悪役令嬢は、行動力なのだ。多少傷つくことがあったって、自分で動いて、情報を取っていかないといけない。
「お父様って、今日は何時に帰ってくるのかしら」
「……藤乃ちゃん、彼と話したいの?」
夕食のときに母に聞くと、母はなんだか、微妙な表情をした。
「……ええ」
どうしてそんな顔をするのかわからなくて視線を返すと、母は目を泳がせて思案してから、私の目を覗き込む。
「最近、避けていたでしょう? もう、いいの?」
「え? お父様を避けてなんて、いないわ」
父は忙しくて、最近会っていない。だけど別に、避けていたつもりなんてなかった。驚いた私に、母も驚いた顔をする。
「だって藤乃ちゃん、すぐに部屋に戻っちゃうじゃない。てっきり、避けてるんだと思って……」
「部屋で本を読んでいただけよ」
悪役令嬢のお話は、相変わらず読み漁り続けている。家族の前で読むのは気がひけるから、部屋で読んでいた。母が指しているのは、そのことだ。
「そうなの……?」
「そうよ」
「そう。……藤乃ちゃんが話したがってるって、伝えておくわね」
「お願い」
まさかそんな誤解を生んでいるなんて。申し訳ないことをした。
お風呂上がりに浴室を出ると、そこにいた侍女に、「旦那様がお帰りです」と告げられる。
「え? もう? 早いわね」
父の帰宅にしては、ずいぶん早い。そんなに早い理由は、居間に行ったらすぐわかった。
「藤乃……! 僕を避けていなかっていうのは、本当か?」
私を見た父は、ソファから立ち上がり、開口一番にそう言ったのだ。
「……ええ」
気圧されて僅かにのけぞりながら答えると、父はどさっと、脱力したようにソファに座り直す。
「なんだ。てっきり、僕たちは、婚約のことを気にしているのかと」
「婚約のこと?」
「あなた!」
私の疑問と母の咎める声が、重なる。
「いや……」
気まずそうに父が、母の顔をうかがう。
「もう言っちゃったんだから、話すしかないわ」
「そうだな……いや、藤乃の様子が気になって、な。千堂さんに、連絡したんだ」
それだけで私は、なんのことかわかった。
「海斗くんが何を言っているかも、聞いたよ」
「婚約破棄したいって話でしょう?」
「……そうだ」
父が千堂家から聞く話なんて、それしかない。こちらから質問するまでもなく、話題は、私も話したかったことに移った。
婚約破棄について、父はどう話すのか。きっと、困る、と言うのだろう。彼の考えを探りたくて、私は父に視線を送り、話を促す。
「海斗くんが、婚約破棄したいと言ってきた、と。どうやら他に好きな子がいる、なんて話しているそうだ。千堂さんとしては、息子がそんな気持ちでいるのに婚約を継続するのは、藤乃に失礼だ、と」
「……うん」
「それで僕たちは、藤乃がどう思うか、聞きたいと思っていたんだよ」
「そう。だけど藤乃ちゃんは、最近部屋にいることが多いでしょう? だからてっきり、その話はしたくないのかと思っていたわ」
私は首を横に振る。
たしかに少し前は、両親から婚約破棄の話題が出ることを恐れていた。親を通したら、それは海斗の気の迷いではなく、正式な申し出になってしまうから。
でも今は、両親の意思を、聞きたかった。
「お父様たちは、どう思うの?」
千堂家との縁を保ちたい。そう返ってくるだろうと予想して、質問する。
「藤乃の意思を尊重するよ。確かに海斗くんの態度は、不誠実だ。婚約破棄を望むなら、そうしたって全く構わない」
「え? どうして?」
「え?」
予想の遥か外にある反応に、素っ頓狂な声が出てしまった。
「私たちの婚約で、千堂家との縁が作れるから、良かったんでしょう?」
「え? 縁?」
「え?」
私が言うと、今度は父から、よく似た素っ頓狂な反応。
「……え?」
大量の疑問符が、部屋を支配する。私と両親は、顔を見合わせながら、互いにおかしな表情をしていた。
このあとのやりとりが、後々、大きな意味を持つことになる。だけどその時の私は、当然だけれど、そんなこと、何にも知らなかった。




