2 海斗と早苗
山口が開けてくれた扉をくぐって、座席に腰掛ける。学園の座席と違って、ふかふかとしたクッションは、必然的に、眠気を誘う。
私はゆったりと背もたれにもたれ、欠伸を噛み殺した。それでも目尻に滲む涙を、ポケットから取り出したハンカチで拭う。
「寝不足ですか?」
「ええ……少しね」
「お勉強も、ほどほどになさってくださいね」
バックミラーに、案じる山口の顔が映る。
「ありがとう」
私がしていたのは、学園の勉強じゃないんだけどね。
その言葉は、心の中にしまった。私が昨晩、遅くまでしていたのは、「ざまぁ」に関する情報収集。インターネットの海の中には、たくさんの情報が転がっていた。
ポケットにしまったメモ帳に、軽く触れる。そこには、いくつものタイトルが記されている。どれも、「ヒロインざまぁ」が爽快だと、感想が書かれていたもの。つい夜更けまで、読みふけってしまったのだ。
興味を引く感想はたくさんあったが、やはり実際のお話を読んでみないと、参考にはならない。
メモしたタイトルの本を、今日は図書室で、探してみるつもりでいた。
『霞ヶ崎学園高等部』黒地の校門の柱に、金の字が彫り抜かれている。
正門の正面に、車がつける。私は、鞄を手に取り、車から降りた。ここが、私の通う、学園である。幼稚部、初等部、中等部、そして大学も近くに併設された、ちょっとした学園都市となっている。
「行ってくるわ」
「行ってらっしゃいませ、お嬢様」
振り向くと、山口は目を細め、人差し指と中指を絡めて胸元に掲げる。私も同じサインを出して、改めて、校舎に向かった。勉強道具が詰まった鞄が、少し軽くなったように感じる。
まだ幼い頃に山口が教えてくれた、「幸運を祈る」のサイン。何があったかはもう覚えていないが、当時通学を渋っていた私は、山口のそのサインに励まされて、登校する気になったものだ。
正門を抜けると、登校した生徒たちを、大きな噴水が出迎える。挨拶活動をする風紀委員の脇を通り過ぎ、昇降口へ入る。
1年A組の下駄箱から、上靴を取り出す。履き替えて、教室を目指した。
「おはようございます」
明るい声。挨拶をしたのは、私ではない。既に席についていた私は、頬杖をつき、窓の外を眺める。
教室に入るときに、挨拶をしなくなったのは、いつからだろう。挨拶しても、ぼそりとした返事しかないし、そこから何の発展もない。無駄だと思ってやめたのは、もう何週間も前のことだ。
「おはようございます、早苗さん」
「おはようございます」
対して、早苗は登校するなり、他の女生徒から話しかけられている。
「素敵な髪型ですわね」
緩く編み込んだ髪を褒められ、華やかな笑顔を浮かべる。私は横目で、そのやりとりを観察した。
「恥ずかしいわ。自分で結んだのよ」
「私も、今度侍女に頼もうかしら。素敵ですもの」
「本当ね、素敵ですわ」
ひとり、またひとりと、早苗の側に女生徒が寄る。席についた早苗は、相手が名家の子女であっても、立ち上がることもしない。
生意気だと、思わないのかしら。
私は内心、毒づいた。
何しろ、早苗は一般庶民の子なのだ。その賢さを買われ、特待生として、高等部から特別に入学を許された存在。その高い能力は確かに賞賛するべきである。それでも、あくまでも彼女は、庶民の子だ。
……思わないから、皆ああして、寄っているのだ。庶民であることを覆すほどの魅力が、彼女にはある。私にも、そのくらいのことはわかる。
「へえ、可愛い髪型だな」
「千堂くん!」
早苗の背後から現れた海斗が、その緩く巻かれた毛先を摘まみ上げる。
「やめてよ、恥ずかしい」
「いいだろう、褒めてやってるんだから」
髪を押さえて、頬を膨らませる早苗。あざとい上目遣いに、海斗は、頭をぽんと撫でる。
きゃあ、と周囲の女生徒が歓声を上げた。海斗の打ち砕けた態度を間近で見て、興奮しているのだ。
くだらない。
海斗の戯れよ。大したこと、ないんだから。
彼は、私の髪を、あんな風に触ってくれたことはない。あんな、悪戯をしてくれたこともない。そもそも向こうから話しかけてくれることなんて、最近では、全然ない。
私はその全てに、目を瞑った。
親を介していないから、婚約破棄は、まだ成立していない。まだ私は、海斗の婚約者だ。こんな瑣末なことに目くじらを立てているなんて、婚約者としての、余裕に欠ける。
「君たちも、早苗のように身だしなみに気を配れば、素敵な出会いがあるだろうな」
「それって、海斗様みたいに、ですか?」
「さあ。少なくとも、中等部と同じ髪型なんて、今更面白くないね」
私は、努めて彼らから視線を逸らす。
くすくすと聞こえる笑い声は、誰に向けられたものでもないと、自分に言い聞かせた。
後れ髪の出ないように、きっちり結ったポニーテール。中等部では、長髪はひとつに結わく決まりになっていた。
高等部に入った途端、皆、それぞれに髪型を変え始めた。私も一度だけ、髪型を変えたことがある。でも、すぐにやめてしまった。普段と違う髪型は、落ち着かなかったのだ。
「海斗。お前には婚約者がいるだろ。早苗とばっかり話してないで、挨拶しに行けよ」
「余計なお世話だ」
新たな美男子が現れて、海斗を促す。あれは確か、隣の組の学級会長だっただろうか。海斗を押しのけて早苗に話しかける姿を見て、女生徒たちが、また色めく。
男をあんなに侍らせて、はしたない。
昨日読んだ小説の「ヒロイン」に、男たちに囲まれた早苗が重なる。「ヒロイン」が目指していたのは、手頃な男性を全て侍らせる、「逆ハーレム」ルート。ところが主人公が先手を打ったため、肝心の婚約者の心を射止めることはできなかった。
最後は、気を引くために、自作自演の小狡い手を使っていたことが明かされ、その立場が地に落ちる。
そうよ。
あんなに男を侍らせているんだから。何か小狡い手を使っているに、違いないわ。
早苗だって、それぞれの男に、色目を使っているのかもしれない。その尻尾を掴めば、海斗だって、彼女に幻滅するだろう。
「……なあ」
大きな手が、机の上に、どんと置かれる。
「藤乃」
「はいっ」
名前を呼ばれて、話しかけられていることに気づいた。
私の目の前には、海斗の顔がある。端正な顔立ちだ。整った目、筋の通った鼻。喋ると覗く歯も、美しく並んでいる。
眉間に皺を寄せる険しい表情すら、絵になる。
彼から話しかけてくるなんて、本当に珍しい。
腰を浮かしかけた私は、海斗の鋭い視線に晒されて、改めて座る。様子がおかしい。さっきまであんなに機嫌良く、早苗と話をしていたのに。
「早苗を睨むなよ。妬いてるのはわかるが、君の出る幕じゃない」
「え……?」
「とぼけるな。怖がってるんだよ、早苗は」
海斗の肩越しに、早苗の顔が見える。口元に手を当て、か弱そうに、眉尻を垂らしている。
「に……」
「言ったからな、僕は。それだけだ」
睨んでいたつもりなんて、ないのに。
その言葉が出る前に、もう海斗は私に背を向けていた。口から手を離した早苗が、顔を綻ばせる。海斗は、その頭を、また撫でる。色めく女子たち。私との緊迫感のあるやりとりなんて、まるで初めからなかったように、浮かれた光景が続く。
やっぱり私は、「悪役令嬢」なんだわ。
何も悪いことをしていないのに、汚名を着せられる。理不尽で、不当な扱いを受ける。
今の私が、まさにそうだ。確かに早苗に悪意は抱いたが、それを顔にも態度にも出していない。なのにああして、海斗に凄まれる。
このまま、悪役に甘んじていたくはない。
予鈴が鳴り、早苗の周囲の人々は、解散する。教室の前の扉から、担任の先生が入ってくる。
出席確認に、今日の予定の把握。メモを取って一日の流れを確かめながら、私の心の半分は、自分の身の振り方に飛んでいた。
「早苗ざまぁ」をして、彼女の立場が地に落ちたら。私が代わりに、あの輪の中心に居られるはず。
早苗と違って、多くは望まない。海斗が側にいれば、他の男子生徒は、必要ない。
もっと真剣に、研究しなくっちゃ。
そのためには、本を読まないと。私は、前のページに戻り、メモ帳に並んだタイトルを眺める。今日の放課後もまた、図書室に向かうつもりだ。