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19 新たな選択肢

「やあ、藤乃さん」

「こんにちは、慧先輩」


 図書室に入ると、いつもと変わらない、静かな空気に迎えられる。私はほっとして、カウンターの脇に鞄を下ろした。ここにいるときだけは、海斗のことも、早苗のことも、それほど考えなくて済む。


「藤乃さん、髪切った?」

「え……」


 私の顔を見るなり、慧はそう言う。そんなこと、今日初めて言われたから、私は戸惑った。


「あれ、俺の勘違いかな」

「いえっ、切りました。よくわかりましたね、前髪整えただけなのに」


 私はいつもポニーテールにしているから、切ったところで、それほど大きな違いにはならない。現に今日、髪のことを指摘したのは、慧が初めてだ。私自身、昨日髪を切ったことなんて、既に記憶の彼方に去っていた。


「わかるよ。さっぱりしたね、前髪が短くなると、可愛い印象になる」


 何気なく微笑む慧の、丸くくぼむ頬。そんなに率直な言葉でほめられたら、なんだか照れくさい。私は曖昧に笑いながら、目を逸らした。


「気づいたの、慧先輩だけですよ」

「そう? 皆藤乃さんのこと、あんまり見てないのかな」


 慧はそんなことを言いながら、カウンターで作業をする。


「返却でしょ? ほら、本貸して」

「はい」


 鞄から、借りていた本を取り出す。もはや慣れ親しんだ、いつもの手続き。あんなに恥ずかしい言葉でほめられたのに、慧の顔は、いつもと何ら変わりはなかった。


「あ、水族館の本ですね」


 カウンターには、青を基調とした本が広げられている。いつも慧が読んでいるのと少し違うのは、それが、写真集ではなく情報誌であること。


「そう。そろそろ、ちゃんと準備しようと思ってさ」

「いいですね。……あ、私、ちゃんと親の許可を取りました」

「……へえ、そういうの、許可が下りるんだね、藤乃さんの家は」


 意外そうな慧の反応。私は胸を張って、頷いた。


「もちろんです。私が仲良しと出かけることを、親は喜んでくれますから」

「そう」

「はい。友達がいないので」


 ふっ、と慧の吹き出す音。


「友達がいないって、そんな、自信満々に」

「だから喜んでくれましたよ、慧先輩と出かけるって話したら」

「まあ、それならいいけど。おいで、一緒に見よう」


 勉強を教えてもらったときのように、カウンターに入り、慧の隣に座る。情報誌を覗き込んだ。洗剤の香りなのか、何か爽やかな甘い香りが漂う。

 慧の匂いだ。意識すると、妙にどきどきしてきた。


「ここに行こうかと思うんだよね」


 私の動揺をよそに、慧が眼鏡をくいっと調整し、誌面を覗き込む。開かれているページには、魚の泳ぐ水槽の写真が、大きく載せられていた。


「ほら、ここはマンタがいるんだよ」

「水のトンネルの上や下を、マンタが泳ぐんですか? すごいですね」


 慧が指し示すのは、悠然と泳ぐマンタの写真。羽を広げたような、ゆったりとした姿だ。


「藤乃さんは、苦手って言ってたけど……」

「苦手って言っても、もう子供じゃありませんから。大丈夫ですよ」

「なら良かった。一度、本物を見てみたかったんだよね」


 慧がページをめくると、ペンギンやアザラシ、イルカの写真も出てくる。


「それにここは、いろいろなショーも見られるらしい」

「楽しそうですね」

「せっかく行くなら、このくらい充実しているところがいいと思うんだ」


 私は、水族館の情報を確認する。ここから、車で3時間程度で着ける距離。少し遠いが、日帰りで行くことも可能だろう。


「当日はうちの車で行きますか?」

「いや……一応、公共交通機関で行くことにしてるんだ。それも含めての勉強かなあと思って。……まあ、あんまり意味ないんだけどさ」

「なら、そうしましょう」


 私が言うと、慧は「いいの?」とこちらを見る。


「え……構いませんよ」

「電車なんて、乗らなそうだよね、藤乃さん」


 たしかに普段は車で移動することが多いけれど、公共交通機関を使ってはいけないわけではない。新幹線にだって、乗ったことがある。


「普段は乗りませんが……ああ、でもその場合も、山口にお供は頼むと思います」

「もちろん、何かあったら困るから、それはわかってるよ」


 私と慧と、そこに山口が加わったら、どんな雰囲気になるのだろう。慧と山口が、互いにどう対応するのか想像して、私は頬を緩めた。ふたりとも私には見せない様子を、見せてくれるかもしれない。


「楽しみだね」

「そうですね」


 学園でのいろいろも忘れて、学外に出て、慧と魚を見て回る。そんなに心安らぐ時間を、もらってしまっていいのだろうか。

 不安になるほど、楽しみだ。


「藤乃さんの、クラスの計画の方は、どうなってるの?」

「ああ……それはですね」


 慧の質問で、教室でのやりとりが鮮やかに蘇った。早苗と海斗のやりとり、彼らが互いを好いていること、邪魔しようとしたけどうまくいかなかったこと。

 私が話したのは、進捗状況というよりは、単なる愚痴に近かった。それでも慧は、静かに耳を傾けてくれる。


「自然な、あるべき状態に戻すには、もうなりふりかまってはいられないのかなって、思ったり」

「自然な、あるべき状態?」

「はい」


 私と海斗の婚約が、当初結ばれた通りに、盤石であること。私はその状態に、戻したいのだ。

 私の返事を聞いて、慧は眼鏡の縁を触る。


「自然な状態っていうのは、好きな者同士が、くっついていることなんじゃないの? 彼と彼女が好きあっているなら、そっちがくっついている方が、自然かもしれない」

「それは……」


 私にはない発想だ。慧にそう言われてしまうと、私は何も言い返せなくて。ただ、俯いた。


「諦めろって、ことですか?」

「諦めるって、なにを?」

「婚約を、ですよ」


 それ以外に、何があるというのか。

 海斗との婚約がなければ、私は何のために生きているのかわからない。彼との婚約を否定することは、自分を否定することだ。

 マイナス思考に入っていこうとした私の意識に、「それもさ」と慧の穏やかな声が割り込んだ。


「藤乃さんが彼のことを好きじゃないなら、むしろ好都合なんじゃないの? 好きでも何でもない人と結婚するなんて、普通は、嫌だと思うものだよ」

「だけど私は、千堂家と我が家をつなぐために」


 そんなこと言われたって、実際私は、そのために生きてきたのだ。


「わかってるけど……それも、話してみたら、わかってくれるってことはないかな。普通の親なら、子供の方が、可愛いと思うけれど」


 普通、普通。

 慧の発する言葉が、私の胸に突き刺さる。


「普通、って」


 たしかに「普通」なら、好きな者同士が近づいて、婚約して、結婚に至るものなのかもしれない。けれど私には、自分の意思とは関係なく決められた婚約があって。その枠の中でできることを、精一杯やってきた。

 じわじわと溢れた悔しさというか、悲しさというか、そういう良くない感情が、震えた言葉に変わる。


「うん、普通だと思うよ、それが」


 このまま言ってはいけない。

 そう思ったのに、自制できなかった。


「慧先輩の普通と、私の普通は、違うんです」


 これ以上言ったら、せっかく築いた彼との関係は、台無しだ。


「慧先輩の普通は、庶民の普通、ですよね……! 私は、私は」


 言ってしまった。

 庶民だなんて、彼に言うのは、禁句なのに。

 彼は、私が対等に扱うから、私に価値を置いてくれていたのに。見下すような言葉が、口をついて出てしまった。


「落ち着いて、藤乃さん」


 肩に柔らかな重みが加わる。はっとして見た慧は、いつもの柔和な顔。そこに、怒りの色は少しもない。


「嫌な言い方をして、ごめんね。だけど俺は、君に自分の幸せを追ってほしいと思ったんだ」

「だから私は、海斗様との婚約を……」

「本当に、そこが藤乃さんの幸せなの? 俺は、ずっと疑問なんだよ。そんな彼と婚約して、結婚して、藤乃さんは幸せになれるのかな、って」


 結婚。

 そっか、婚約が続いたら、最後は海斗と結婚するのだ、私は。


「せっかく、目標に向けて努力できるのに。その目標を、婚約の維持に置いているのが、もったいないと思うんだ。別の方向に向ければ、もっと幸せになれそうなのに」


 私が婚約を維持しようとしていることが、間違っているの?

 足元がぐらぐらするようで、私の視界までぐらぐらしてきた。座っているのに目眩がして、額に手を当てる。


「彼を好きになろうと努力するなら、それもいいとは思うよ」

「……はい」


 私は、そうする気でいた。その点においても、私は早苗に負けているから。


「だけど、やっぱり好きじゃないって思ったら、その先に藤乃さんの幸せはあるのかってことを、考えてほしいな」

「……そうですね」


 私のスタンスを肯定してくれた慧の言葉が、すっと胸に入ってくる。もし、海斗を好きになれなかったら。そのときは。


 思いもつかなかった選択肢が、このとき私の中に、生まれたのだった。

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