16 両親のなれそめ
好きって、どういうことなんだろう。
婚約破棄された悪役令嬢が、颯爽と現れた隣国の王子様に、べたべたに溺愛される物語。ストーリーの展開を追いながら、私はずっと考えていた。
好きにもきっと、種類がある。単純に「人として好き」という場合と、恋愛感情として好きである場合。
婚約者なのだから、私が海斗に抱くべきは、後者の「好き」という感情であるはずだ。つまりは、恋愛感情。
「藤乃さん、そろそろ」
「あ、……はい」
慧が声をかけに来たのは、そろそろ閉館が近づいているから。私は読みさしの本に藤色の栞を挟み、席を立つ。
「俺も、ちょっと頭を冷やしたよ。さっきはごめん、本当に、気遣いが足りない言動だった」
「いえ、私こそ、失態を晒して……」
「あんなに人のことで頭に血が上ったの、初めてだよ。藤乃さんだって一生懸命なんだから、言っちゃいけないと思ったんだけど、つい、さ」
慧と並んで、カウンターへ向かう。横を見ると、整った鼻筋が、夕日に照らされてシルエットのように見える。
「……よっぽど好きなんだろうね。俺、藤乃さんのこと」
こちらを向いた慧の顔も、逆光でよくわからない。
さっき慧は私に、海斗のことを人として好きか、と聞いた。
彼の言っている好きとは、そういうことだろう。まさかこんな私に、恋愛感情を持つはずもないし。
「嬉しいです。私も先輩のことは、好きです」
だから私も、素直にそう返した。
婚約者である海斗のことは、人として好きだとすら言い切れず、他人である慧のことは、好きだと言えるなんて。我ながらおかしな話だ。だけど事実だから、仕方がない。
早苗ばかり見ている海斗とは違って、慧は私のことを、ちゃんと見てくれる。その真摯な態度に、人として、好感がもてる。
「……そっか。ありがとう」
きらりと、橙色の光が、眼鏡の縁に反射して輝く。
「また明日、藤乃さん」
「はい、慧先輩。また明日」
変わらない挨拶が、どんなやりとりがあったとしても、また会えることを示している。そんな些細なやりとりが、この図書室を、私の居場所にしてくれる。
「おや、お嬢様……」
「目にゴミが入っちゃって、ずっと泣いてたのよ」
「……左様ですか」
いくら間を置いたとはいえ、目の赤さは隠せない。私はそう言い訳をし、いつものように、後部座席に腰掛けた。
「今度、山口に、お願いしたいことがあるの」
「何でございましょう?」
「お友達と出かける許可を、お母様に頂いたから。ついてきてほしくって」
それは、慧との約束。
学外学習に代えて行く水族館に、一緒に行くというものだった。
「構いませんよ」
「ありがとう」
「最近、お嬢様にお友達が増えたようで。差し出がましいようですが、私と致しましても、嬉しい限りでございます」
私は苦笑いした。友達が増えて嬉しいと、山口に言われてしまうなんて。
たしかに今までの私には、友達と呼べる友達はいなかった。今だって、いるかと言ったら、遥や真理恵を友人に入れるかどうかは、ちょっと迷うのだけれど。
「……女性の方ですか?」
「ううん、男の人。慧先輩っていうのよ」
「そうですか」
山口は相変わらず、柔和な表情を浮かべている。車は揺れもなく滑り出し、窓の外の光景は、刻々と変わっていく。
「日が長くなってきたわね」
この時間になっても、外はまだ明るい。そんなところから、季節の移り変わりを感じる。
車は家に着き、私はすぐに浴室へ向かった。さっさとお風呂に入ってしまえば、泣いた痕もわからなくなる。だから、夕食のとき、私は既にお風呂上がりだった。
「もう、お風呂に入ったのね」
「うん、時間があったから」
まだ薄らと湿気の残る私の髪を見て、母は言った。今日も母は、上品な格好をしている。
「……お母様は、お父様のこと、好きなの?」
食事を取りながら、ふと気になって、そう問いかけた。カチャン、と軽い音がする。母が、使っていたナイフを取り落としていた。
「やだ、どうしたの藤乃ちゃん、急に」
「いや……お母様ってお父様のこと、好きなのかなって思って。その、恋愛的な意味で」
好きっていうのが、どういう感情なのか。
本もいいが、それを知るには、人に聞くのも良いと思ったのだ。両親は実際、結婚に至っているわけだから、大きなヒントになりうる。
「好きよ、もちろん」
「どうして、好きになったの?」
「うーん……彼は、私が働いていた会社に勤めていたのね。彼、今もすごいけど、若い頃から優秀だったのよ」
父の、若かりし頃の写真を思い浮かべる。上質そうなスーツをぱりっと着こなした姿は、たしかに、優秀そうだった。
「はじめは、尊敬だったわ。ただ、いろいろあって距離が縮んで、そのうち恋愛感情を抱いて……って感じかしら」
「恋愛感情って、どうしたら抱くの?」
「どうしたら、って……好きになるのに、方法なんてないわ」
母は目尻を垂らし、困ったように笑む。
「そうよね……ありがとう」
母は昔は、普通の会社で働いていた。父もそこで働いていて、出会った。ふたりが結婚に至るまでには、当然、恋愛感情が存在する。
私と海斗のように、先に結婚が決まっていたら。そこには恋愛感情がない場合だって、大いにあるだろう。
私が海斗のことを好きでなくたって、おかしくはない。母の話は、むしろそんな確信を深めさせた。
難しいことを考えていたら、難しい顔になっていた。母が、僅かに首を傾げた。私と同じ真っ直ぐな黒髪が、さらりと流れる。
「千堂さんの息子さんと、何かあったの?」
「……ううん、何も」
ちょっと、どきっとした。母は、何かを知っているわけではなく、ただ案じてくれただけだ。
そんなこと聞かれたって、正直に言えるわけがない。私は努めて笑顔を作り、「気になっただけ」と付け加えた。
「ご馳走様でした」
今日のデザートは、甘酸っぱいソースのかかった、桃色の可愛らしいムースであった。紅茶との味わいを存分に楽しんでから、席を立つ。
食堂を出て、部屋に向かう。もうお風呂には入ったから、そのままベッドに転がって、本を開く。そして物語の続きに。
悪役令嬢を救った、隣国の王子。彼が彼女を助けに入ったのは、婚約破棄という切羽詰まった状況に陥ってさえ、冷静でいた令嬢(彼女が冷静だったのは、転生したからだ)の態度に心打たれたからだという。その芯の強さに、いてもたってもいられなかった、と。
はじめは戸惑っていた令嬢も、丁重に扱われ、彼のさまざまな面を見ているうちに、心惹かれていく。極め付けは王子が危うい目に遭った場面で、令嬢は気持ちを抑えきれず、周囲の反対を押し切って助けにいく。
気持ちを抑えられない、というのがポイントなんだわ。
私は読みながら、そう結論付けた。理性ではどうにもならない、感情が優先されてしまう。それが、「恋愛感情」の一面なのだろう。
だとするならば、やはり私に、海斗に対する恋愛感情はなさそうだ。彼を目の前にして、「感情が抑えきれない」なんて思ったことがない。苛立ちとか、悲しみとかは感じたことがあるものの、そうした負の感情は彼の前ではできるだけ押し隠してきた。
むしろ。
今日、慧と話していたときの方が、よほど感情が抑えきれなかった。止めようと思った涙が、滂沱と出てきたもの。
なら、私は慧のことが好きだと言えるの?
いやいや。私の婚約者は、海斗だ。そんなことは、あってはいけない。おそらく、ただの研究不足だ。私は明日も別の本を借りることに決め、少し勉強してから、シーツをかぶった。
自分を磨くことだって、忘れてはいけない。
私の目標は、あくまでも、海斗との婚約を継続すること。そうして、千堂家との関係をきちんと繋げば、父からも変わらぬ評価を得られる。
「藤乃……?」
扉の向こうから、父の声が聞こえた気がした。だけどその頃には、私の意識は、ほとんど夢の中に沈んでいた。




