15 慧の苛立ち
「……と、まあ、こんなところかな」
「慧先輩、教えるのうまいですね」
授業では難解だった部分が、すっと頭に入ってきて、私は驚いた。
思わず褒めると、慧ははにかむ。
「自分なりに工夫して勉強しているから、多少はね」
「いや……私、びっくりしました。すごくよくわかって」
「そりゃ良かった。それで彼の気持ちが、取り戻せるといいね」
「……はい」
自分でもはっきりとわかるくらい、声のトーンが落ちた。
「……まだ、足りませんけど。もっと頑張らなきゃ」
「俺、見てみたいな、藤乃さんの婚約者、って人」
「どうしてです?」
慧は、片肘をついて、私を見ている。その距離が、思ったよりも近い。
「納得できないから。藤乃さんみたいな人がこうして頑張っているのに、足りないなんて」
「それは、私じゃ彼女には敵わないから」
「それもだよ。どうして婚約者の立場なのに、藤乃さんがそんなこと思わなくちゃいけないんだろうね」
慧の指摘はもっともで、私は返す言葉がなかった。
私だって、その理不尽さをずっと感じている。どうして海斗は平気で、私を捨てて、早苗になびくことができるのか。私には、そんなこと、絶対にできないのに。
「どうして藤乃さんが、それで良しとしているのかも、疑問だよ」
「……え」
「失礼でしょう、婚約者なのに、他の女性と親しくするなんて。そんなの、普通だったら、藤乃さんが怒って婚約破棄しようとしても、おかしくはないのに」
そう言われてみれば、そうなのだ。
海斗との婚約が破棄されたって何の問題もないのなら、私だってそうしたい。
だけど。
「父にとって、私の価値は、彼との婚約にあるので」
「……お父さん?」
「そうです。藤乃の藤の、花言葉は歓迎。私が歓迎されたのは、初めての女の子で、家と家を取り持つことができるからなんです」
千堂家との間を取り持つことに、価値があるのだ。
だから、こちらから海斗に背を向けることなんて、できない。
「藤乃さんのお父さんが、そう言っているの?」
「いえ、はっきりとは……ただ、父は海斗様との婚約を、本当に喜んでいるんです。それは、千堂家と繋がれるからで」
「……そっか」
慧が、カウンターに視線を落とす。そうすると、光が眼鏡のレンズに反射して、彼の表情はわからなくなる。
「藤乃さんって、その婚約者の人が好きで、頑張っているわけじゃないんだ」
「……すき、ですよ」
「どういうところが?」
「えっと……ちゃんとした家柄だし、見た目も素敵だし、お勉強もできるから、皆の憧れで……」
私の言葉は、尻すぼみになる。海斗のどこが好きかなんて、考えたこともなかった。
「まあ、そういう外面的なことはわかったけど。藤乃さんが、人として、好きなところってないの?」
「……」
人として。
私は慧の質問に、即答できなかった。
婚約者を差し置いて他の女にうつつを抜かし、さらには婚約破棄をしてしまおうなんて人の。一方的にこちらを敵視し、早苗に害をなしたと決めつけてくる人の。そんな人のどこを、人として好きだと答えれば良いのか。
「……答えられないんだね」
「考えれば、言えます」
「考えないと言えないなんて、ないのと同じだよ。藤乃さんはこんなに、頑張ろうとしているのに。その相手のことでしょ?」
私は、下唇を噛む。慧の厳しい物言いに、何も反論できない。
「俺、藤乃さんが可哀想に見えてきたよ」
「……かわいそう、ですか」
「うん。家のために、好きだと言えない相手と婚約してて、さ。自分の価値がそこにしかないと思っているから、その婚約に必死にしがみついている」
慧の言葉が、ぐさぐさと胸に突き刺さってくる。
どうして彼は今日、こんなにも苛立っているのだろう。私が傷つくようなことを、言うなんてこと、今までなかったのに。
「……俺は、藤乃さんは、それ以外にも価値のある人だと思うのに」
慧が何か言ったけれど、私は、それに反応できなかった。熱いものがこみ上げてきて、それを堪えようとしたら、言葉が何も出なかった。
「そうは、思わない?」
「えっ?」
何を言われたかわからなかったから、いきなり質問されて、戸惑った。思わず口から声が出て、それと同時に、目頭に濡れた感触を覚える。
「あっ……」
視界に映る慧の顔が、いきなりぼやける。決壊した涙は、もう抑えられなかった。私は呆然としたまま、涙が鼻の脇をつたい、顎に落ちていくのを感じていた。
「……藤乃さん」
「ごめん、なさい、いきなり、泣いて」
「ごめん。言いすぎたね」
ハンカチを取ろうとして、ポケットを探す。うまく手が動かなくてもたついていたら、頬に、柔らかい布が触れた。それを取り、私は目元を拭う。慧が、ハンカチを貸してくれたのだとわかった。
布の柔らかさに、ほっとする。洗剤の香り。私はその甘く爽やかな香りをゆっくりと吸い込み、息を吐いた。
「……落ち着いた?」
「はい。取り乱して、すみませんでした」
「ううん、俺こそ。藤乃さんだって悩んでいるだろうに、配慮がなかったよ」
レンズ越しの慧の瞳には、いつもの優しい光が戻っていた。最後に目頭を拭うと、もう涙は出てこなかった。
「……かわいそう、って言葉が、胸にきたんです」
言われた瞬間の感情を思い出すと、声が潤んだ。私はそれを、ぐっとこらえる。
「私は、哀れに思われるくらい、それしか価値がないんだと思ってしまって」
吐き捨てるように、無理やり息を押し出した。
慧の言葉で、私は改めて、その現実を突きつけられてしまった。
婚約破棄したいなら、勝手にすればいい。自分勝手な彼らにそう言ってやれればいいのに、それができずに、ただ甘んじている自分。
「……俺は、藤乃さんの価値は、他にもあると思うよ」
「ありません」
「俺にとっては、あるよ。藤乃さんには、意味がないかもしれないけどさ。この学園の中で、先生以外に俺を見下さず、蔑まず、対等に話してくれるのは君だけだよ。俺にとって君は、唯一の、心を許せる存在なんだ」
まっすぐ見つめてくる慧の視線に耐えられなくて、私は視線を逸らした。
彼の言葉は、眩しすぎる。あまりにも、理想的すぎる。
「そんな藤乃さんが、理不尽な立場に置かれているのが、許せなかったんだ。……ただ、それだけで」
そんなこと言われてしまったら、私は。
「ああちょっと、泣かないでよ」
「大丈夫です、これは……嬉しくて」
私の代わりに、こんなに憤ってくれるなんて。
どうしようもなく胸が締め付けられて、私は今度こそ、泣き止むことができなかった。
「……すみませんでした」
私の背には、慧のあたたかな手のひらが添えられている。上下に優しくさすられているうちに、徐々に嗚咽が収まり、私は震える声で、彼に謝罪を述べた。
「大丈夫。藤乃さんも俺に、心を許してくれてるんだなって思ったよ。そんな、すごい泣き顔まで見せて」
「すごい泣き顔……?!」
ポケットから手鏡をさっと取り出し、顔を確認する。目元は真っ赤で、ふやけている。涙のせいで、頬が赤い。ぼろぼろの顔をしている。
「ああ、ひどい顔……」
「泣き顔も綺麗だよ、藤乃さんは」
「どこがですか」
あんまりな冗談に睨みつけると、慧は頬にえくぼを作った。
「ほんとだって」
その笑顔と、丸みのある頬のくぼみを見ると、なんだか気が抜けてしまう。
「……こんな顔して帰ったら、心配されちゃいます」
「そこに水道があるから、冷たい水で顔洗って、目を冷やすといいよ」
「本当だ、水道があるんですね」
慧の示す出入り口には、確かに、水道が備え付けられている。こんなところに、水場があるなんて。今まで何度も通っているけど、全然気がつかなかった。
「どうして、図書室に水道があるんですか?」
「本を触るときは、手を洗って綺麗にしようね、ってことらしいよ」
「へえ……」
おかげで私は廊下に出ることなく、顔が洗える。蛇口をひねり、水を出す。両手に水を受けて、顔に当てた。ぱしゃぱしゃ。何度か顔に水を掛けると、目元の熱が引いていく感じがする。
「……ああ、だいぶ、ましだわ」
鏡に映った顔を確認すると、目の縁はまだ赤いが、だいぶ目元がしゃっきりしていた。これなら、なんとか誤魔化せるかもしれない。
「もう少し本を読んで、落ち着いてから帰ります」
「そうだね、それがいい」
私は慧のいるカウンターを離れ、歩き慣れた書架の間を歩く。目的の棚は、いつもと同じ。
私って、本当に海斗のこと、好きじゃないのかな。
落ち着いた頭で考えると、そのことが何よりも、引っかかった。
こんなに必死に、彼との婚約にしがみついているのに。慧にあっさりと「好きでもない人と婚約している」と言われる程度には、私は海斗に対して、好意を抱いていないように見えるらしい。
というか、好きって、何?
そんな疑問を抱いた私が手に取ったのは、必然、表紙で女性と男性が絡み合っている、溺愛っぽい雰囲気の本だった。




