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14 慧の個人授業

「可愛らしい子たちだったね」

「お兄様も、顔を出してくれてよかったわ。皆、喜んでいたの」


 今日の夕食の席は、兄も一緒だった。当然話題は、勉強会のことになる。


「どんな子たちだったの?」

「うーん、みんな真面目そうないい子だったよ。特にほら、あの、特待生の……」

「早苗さん?」

「そうそう」


 早苗の話題に、どきりとする。家族はまだ、誰も、海斗が早苗のために婚約破棄を考えていることは知らないはずだ。


「あの子、面白いね。僕の顔を見るなり、『本当は普通の家に生まれたかったんですよね』なんて、言ってきたよ」

「そんなことを……ごめんなさい」


 初対面でいきなりそんなことを言うなんて、失礼極まりない。やっぱり早苗は、どこか変わっている。私が謝ると、兄は顔の前で手を左右に振った。


「いやいや、いいんだよ。お母様にも、たまに話すんだけどさ。外部の大学に通ってみると、僕の家は良くも悪くも特殊なんだなってことが、よくわかるから。そう思うことだって、まあ、ある」

「そうですか……」

「そう。だからまあ、言い当てられた、って感じかな」


 兄が笑うと、唇の間から、整った形の歯がのぞく。


「僕も、時間があったら、もう少し詳しく話してみたいと思ったよ。まあ、忙しいから、そういうわけにもいかないけどね」

「……そういえば、学園祭でお兄様に会いたかったって言ってたわ、早苗さん」

「学園祭で? 確かに後輩の様子を見に、行くとは思うけど……藤乃のお友達に会いに行く余裕、あるかなあ。忙しいだろう、学園祭って」


 そこから話題は、学園祭のことに移る。中等部の頃には、私も兄の様子を見るために、高等部の学園祭にも顔を出していた。懐かしい。兄のクラスが企画している出し物は、どれも見ていて、あるいは参加していて、楽しかった。

 ひとしきり話題に花が咲き、賑やかで楽しい夕食となった。

 母と二人では、こうはならない。兄の存在の大きさを噛み締めつつ、私はデザートとともに出された紅茶の、芳醇な香りを楽しむのだった。


「早苗さんって、本当に、ヒロインみたいだわ」


 夜。

 お風呂上がりにベッドに寝転がり、私は借りてきた本のページをめくっていた。

 本は、考えるために使うのではなく、ただ楽しむためだけに読む。

 金曜に交わした慧との会話でそう決めていたのだが、文字を追っている私の思考は、どうしても早苗のことに飛んでしまう。


 今日の勉強会で得た大きな収穫は、早苗の目的が何となく掴めたことだった。


 素敵な男性には好意を寄せられたい、と彼女は言っていた。ファンクラブに入って、遠巻きに見ているだけでは満足ができないと。

 だから彼女は、海斗の傍に寄り、あんなに親しくしている。海斗だけではない。生徒会長と親しいのも、隣のクラスの学級会長と親しいのも、同じことだろう。普通の女生徒が話しかけるのを臆してしまうような相手に、早苗は臆さず話しかけ、着実に親しい関係を築いている。


「……お兄様もだわ」


 兄だって、今日早苗と話して、「時間があったらもう少し詳しく話してみたい」と感想を言っていた。あんな短時間で自分に関心を向けるすべを、早苗は持っているのだ。


 女の子が憧れるような男性がいれば、手当たり次第に話しかけ、自分に好意を持たせたい。


 早苗の行動の目標の一つが、それであると仮定しても、問題はなさそうだ。

 だとするならば、彼女は本当に、ヒロイン。


「で、私が……」


 ページに描かれた、美麗なイラストをなぞる。私は間違いなく、「悪役令嬢」だ。海斗の婚約者であり、ヒロインの前に立ちはだかる悪女。早苗の思惑通りに事が進めば、海斗に婚約破棄される存在。現に今、私は海斗から、婚約破棄の意思を伝えられている。


 その思惑を邪魔するためには、どうしたらいい?


 物語を楽しみつつも、改めて私はヒロインの破滅パターンを見取りながら、次へ次へとページをめくっていくのだった。


「おはようございます」

「あ、おはようございます、藤乃さん!」


 教室に入った私に明るく声をかけてくれたのは、遥だった。


「土曜日は、ありがとうございました」

「こちらこそ。楽しかったです。またしましょうね」


 遥の隣にいる真理恵も、挨拶をくれた。

 早苗のそばにいる別の生徒も、「次は私も参加したいですわ」と乗ってくる。


「今、早苗さんに、昨日の勉強会についてお聞きしていたんですよ」


 遥が、そう口を滑らせる。昨日の勉強会とは、おそらく、日曜に行われた、海斗の家での早苗たちの勉強会。


「遥さん!」

「へえ、どうだったんです?」


 焦る真理恵を遮って、質問を投げかける。海斗と早苗の仲の良い様子を聞くのは嫌だが、状況を知らなければ、対策も立てられない。その点では、うっかり口を滑らせる遥の存在は、むしろありがたい。

 私が直接質問を投げかけたら、それはさすがに、周囲に気遣わせるだろう。


「私服の海斗様は、とっても素敵だったんですって」

「ああ、制服じゃないと、雰囲気が変わりますものね」

「……ふたりだったの。祐一くんが、急に来られなくなっちゃったから」


 早苗が、会話の合間にそんな言葉を投げ込んでくる。

 祐一くんというのは、多分、一緒に参加すると言っていた隣の学級会長だろう。となれば、ふたりというのは、必然。


「海斗様と、ふたりでしたの……?」

「そう。彼の部屋で、ふたり。どきどきしちゃった」


 確かに私が知りたかったのは、そういう、海斗と早苗の進展状況だ。


「でも、それがどういう意味か、藤乃さんにはわからないんだもんね」


 だとしても、早苗が勝ち誇ったように言った時、私の胸は、一気に重たくなった。

 部屋で、ふたり。男女が。

 そんなの、もう何があっても、おかしくない。

 そんなことの意味がわからない、私ではない。


「……藤乃さん」


 案じるような真理恵の声に、はっとした。こんなに、あからさまに落ち込んではいけない。


「……海斗様と親しくしてくださって、ありがとうございます」


 私に言えるのは、それだけだった。早苗は、「どうして、藤乃さんが?」と、きょとんとした。私と海斗の婚約のことを、周りの人から聞いていないのだろうか。それとも、とぼけているのか。

 早苗がわからなくて、私は「……いえ」と言葉を濁して、早苗の机を離れる。


「おはよう、早苗。昨日はありがとう」

「ううん、あたしも、すっごく素敵な時間だった」


 登校した海斗と交わされる言葉が、意味深なものに思える。

 耳を塞ぎたかった。私は情報は欲しかったけど、そんな生々しい男女っぽさを感じたかったわけではない。

 だけど、真理恵が心配そうにこちらを見ているから、そんなこともできなかった。


「今度は、俺の両親にも紹介したいな」

「ふふ。いいの?」


 まるで恋人同士のような会話が漏れ聞こえてくるのに、じっと耐える。

 どうして早苗は急に、こんなに挑発的になったのだろう?

 以前はもう少し、取り繕っていた気がするのだけれど。


「……はあ」


 せめてため息だけは、早苗に気づかれないように。

 私は窓の外を見て、小さく息を吐いた。


「……へえ、勉強会をしたんだ」

「そうなんです」


 月曜日。そつなく学校生活を終え、私は図書室に来ていた。日光に照らされて輝く埃。何ともいえない紙の匂い。慧のえくぼ。何も変わらない、居心地の良い場所。


「俺はいつも、ひとりで勉強しているからなあ。羨ましいよ、そういうの」

「羨ましいんですか?」

「まあ、少しはね。俺は、したいと思っても、できないからさ」


 以前、慧は特待生だからと、同級生に対して疎外感を感じていると話していた。

 彼を「庶民だから」と見下す人たちは、確かに彼を、わざわざ勉強会には誘わないだろう。


「別にいいんだけどね。授業で、わからないことはないし」


 さらりと言ってのける慧の横顔に、私はどこか、寂しそうな色を感じた。


「すごいんですね。私、教えてほしいくらいです」


 とっさに口をついて出たのは、それが理由だろう。

 私は本来、人を誘うことが、得意な方ではない。ところが、慧といると、頭に浮かんだ言葉が、すぐに口から出てしまう。

 その不思議さを思いつつ、慧の反応を伺う。彼は目を丸くして、面食らったような顔をした後で、ふっと頬にえくぼを浮かべた。


「前もそんなこと、言ってたね。俺でよければ、いくらでも教えるよ。人に教えるのは、良い復習になる」

「いいんですか? 嬉しい」

「嬉しい? 本当かなあ。俺、ごく普通の、庶民だよ」


 卑下して見せる慧の顔は、変わらず、笑っている。

 これは、彼なりの冗談だ。私は思わず、くすり、と笑う。


「もう。慧先輩は、すぐそうやって、自分を下げるようなことをおっしゃるんですから」

「事実だからね。藤乃さんは、俺から見れば、何もかも持ち合わせた完璧な人だよ」

「ええ……」


 あんまりストレートな褒め言葉に、私は笑いながら、眉をひそめた。


「持ち合わせていませんよ。肝心な婚約は破棄されそうになるし、私はあの子に勝つために、勉強だってしなくちゃいけないんですから」


 私の言葉に、慧は「ま、それもそうだね」と頷く。

 本当に、不思議な感覚だ。家ではひた隠しにしている婚約破棄の話を、慧を相手にしたら、冗談めかしてしまえるなんて。


 早苗の目的を、「たくさんの素敵な男性から好意を寄せられること」と仮定するならば、それは小説のヒロインたちが「攻略対象を攻略したい」と願っていることと重なる。しかも彼女が目指しているのは、逆ハーレムへの道のりだろう。

 休日に情報を整理し、私のやるべきことに、確信がもてた。


 早苗が海斗や他の男性たちと親しくなるのを、阻止すること。彼女を焦らせ、墓穴を掘らせること。いざその場になった時に、海斗の気持ちがきちんとこちらを向くよう、自分を高めておくこと。


 それが、私のやるべきことだ。

 たとえ海斗と早苗が、ふたりきりで部屋にこもる関係になっていたとしても、変わらない。


「1年生だと、今は何やってるんだっけ」

「えーと……」


 私は鞄を探り、苦手な数学の教科書を探し出す。


「逆からだと見にくいから、こっちにおいでよ」

「カウンターに入っていいんですか?」

「んー……まあ、いいでしょ。後期は藤乃さん、図書委員になったら? そうすれば、本当に何の問題もない」


 それもありかも。

 今は私は、何の委員にも所属していない。面倒だからだけど、慧と一緒に図書室を管理するというのは、なかなか魅力的な考えだ。


「この辺りをやってるんです」

「あー……」


 慧の隣に椅子を持ってきて、座る。カウンターは基本的にひとりで作業するように整えられているようで、椅子を二つ並べると、それだけでいっぱいだ。

 私は今日の授業で習った部分を開いて見せる。土曜日に兄に教わったから、これ以前の内容が復習できていたが、それでも授業は半分わかって半分わからないような感じだった。

 教科書を読んだだけで内容がわかるという早苗のすごさを、改めて感じる。


「ちょっと、ノート見せて」


 慧は私からノートを受け取り、そこに書かれた数式を眺める。兄と同じだ。兄もこうして、解法を確認し、問題点を見つけて教えてくれていた、


「藤乃さんはこう計算してるけど、ここはさ……」


 そうして、慧による放課後の個人授業の、幕が開いたのだった。

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