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13 早苗と桂一

「どうぞ」

「やあ。こんにちは、皆さん。藤乃と仲良くしてくれてありがとう」

「桂一様……!」


 悲鳴に近い歓声をあげたのは、遥である。その瞳をきらっきらに輝かせ、口元を押さえている。

 兄は、そのまま部屋に入ってきた。手には、菓子の乗った盆を持っている。


「差し入れだよ。藤乃、皆さんと食べて」

「ありがとう、お兄様。これは……」

「昨日、大学の帰りに買ってきたんだ。甘いものなら、皆さん喜ぶと思ってさ」


 カラフルな包みにくるまれた、ころんと小ぶりなお菓子。おそらく、チョコレートであろう。私が立ち上がり、受け取って机の上に置くまでの間、遥の熱い眼差しが兄に注がれ続けていた。

 兄は、学園にいた頃から人たらしだった。遥は兄のファンなのだな、と理解しながら、他のふたりの反応も確認する。


「嬉しいです。藤乃さんのお兄様は、内面もすばらしいのですね」


 感動で声も出ない遥に代わり、落ち着いたトーンで真理恵が兄に言う。彼女も、表情はどこか上気している。

 海斗と仲の良い早苗と、わざわざ付き合っているふたりである。兄のような美男子には、やはり弱いのだ。


「……」


 そして早苗はというと、場に似つかわしくない神妙な顔をしていた。思わずじっと見つめてしまうと、私の視線に気づいたのか、ふっと視線を逸らした。


「藤乃」

「……あ、はいっ」


 早苗の顔つきに気を取られていた私は、兄の呼びかけに、ぱっとそちらへ視線を戻す。

 彼女が何を思って、兄を前にあんな顔をしたのか。それはわからないが、今追及しても、答えは返ってこないだろう。

 まずは、親しくなること。それが、山口の教えだ。


「今、どこを勉強してるの?」

「えーと……ここ」


 教科書の一部を指し示すと、兄はページを覗き込み、「ああ」と声を上げる。


「懐かしいな」


 普段の優しい声に、輪をかけて優しい声。兄は目を細め、そのまま前後数ページを確認する。


「この辺り、難しいでしょう? 僕でよかったら、教えようか」


 どうなんだろう。

 答えに迷い、3人の顔を見比べる。

 熱い視線を向ける遥、同様に瞳に期待感を輝かせている真理恵、視線を宙に泳がせている早苗。

 私は遥と真理恵の視線の圧力に従い、首を縦に振った。


「お兄様の迷惑でないなら、嬉しいわ」


 兄は私たちの開いているページを順繰りに覗き、丁寧な解説を加えていく。


「お邪魔したね。じゃあ、失礼するよ」


 そして、部屋を出て行く。

 兄がいなくなった後には、なんとも言えない甘やかな雰囲気が、室内に充満している。


「素敵でしたわあ……」


 その大元が、遥である。「うっとり」という形容詞が似合う顔つきで、両手は頬に当て、ほうっと息を吐く。


「……ちょっと期待してましたけど、まさか本当に、桂一様に会えるなんて、嬉しいですわ。ありがとうございます」


 真理恵はそう話し、兄が触れていた教科書のページを、指先でなぞる。


「ねえ、早苗さん。あの方が、私たちが話していた、桂一様でしたのよ」


 真理恵が、早苗に話を振る。

 兄が現れた瞬間でこそ変な感じだった早苗も、勉強を教え始めてからは、違和感なく振る舞っていた。

 彼女は真理恵の言葉かけに、微笑んで頷く。


「ふたりが素敵だって言ってたわけが、わかったわ」

「そうでしょう?」


 なぜが自慢気に、真理恵が応える。

 兄の登場によって、先ほどまで部屋を覆っていた気まずい雰囲気も、緩和された。本当にありがたい。


「……ただ、学園祭で会いたかったけど」

「学園祭で?」

「ううん、こっちの話。気にしないで」


 早苗は、その意味深な呟きを、自ら流した。

 学園祭は、秋に行われる。全学で同時期に行うので、その時期は本当に、あの一帯がお祭りのようになる。

 兄に学園祭で会いたかったとは、どういうことだろうか。学外の大学に進んだ兄も、後輩たちに会うため、学園祭に来るとは思うが……。

 不思議に思って見ていると、早苗と目が合う。


「藤乃さんは、私の言いたいこと、わかるでしょう?」

「え……?」


 わけがわからない。

 戸惑いつつ、返す言葉を探していると、早苗は「やっぱ嘘」と発言を撤回した。

 彼女の不可解な言動に、私と真理恵は、顔を見合わせる。


「今の」

「桂一様は、学園祭にも、いらっしゃるのかしら」


 真理恵が何やら言いかけたところに、遥の甘い声が割り込んでくる。相変わらず、緩んだ表情。


「……来ると思いますわ」

「今日で認識していただけたし、その時も話せるかしら……ありがとうございますわ、藤乃さん! 私、初等部の頃から、ずっと桂一様のファンでしたの!」


 身を乗り出して私の手を取り、ぎゅっと握った遥は、ぱっと手を離してまた座る。


「初等部の頃から、なのですね」

「そうですわ。私がまだ、入学したばかりの頃のこと。階段で転んで泣いていた私に、そっと手を差し伸べてくださったのが、桂一様で。起き上がってお顔を拝見した途端、胸が苦しくなりましたの」


 遥の手が、胸元をぐっと掴む。薄手の白いブラウスが、そこだけくしゃっと歪んだ。


「それから、ずっと、私は桂一様を想っているのです」

「良かったですね、遥さん。桂一様と、お話ができて」


 遥が、真理恵の言葉に力強く頷いた。


「そんなにお好きなら……また、家に来ます?」

「えっ!」


 遥は顔を上げ、その後、堪えるように俯いた。


「いえっ……そうですわね、次は冬くらいに」

「冬? そんな先でよろしいの?」

「ええ。私は、桂一様を拝見できるだけで、幸せですの。今日はこんなに近くでお話できて、とっても幸せでしたけれど……それ以上を望むなんて、身の丈に合いませんわ」


 存外、きっぱりと、遥は言い切った。


「身の丈に合わない?」

「ファンにはファンの、振る舞いがあるのです」


 真理恵が、補足の説明を加える。


「ファンクラブの会員は、必要以上に、お相手に接近してはいけないのですわ。自分と似たような者を侍らせている姿なんて、見たくありませんから、お互いに」

「そう。私たちは、お姿を拝見するだけで、良いのです。近くにいる会員と、その良さを共有できますから」


 遥と真理恵の語るファンクラブの内実は、なかなか興味深いものであった。


「そういえば兄にも、ファンクラブがあるんでしたね」

「ある、どころじゃありませんわ。ご卒業後も、最大のファンクラブのひとつですわよ」

「へえ……」


 私は今まで、ファンクラブに入りたいと思うほど、想いを寄せる男性はいなかった。

 兄は兄だし、海斗は婚約者だ。兄の、あるいは婚約者のファンクラブに入るなんてことは、それ自体、おかしな話である。

 それ以外の男性に、特に興味はなかった。


「早苗さんも、お誘いしているのですけど、ね」


 遥と真理恵の視線が向くと、頬杖をついて話を聞いていた早苗は、ふっと笑った。


「あたしは、素敵な男性には、好意を寄せられたいもの」


 微妙な笑顔を浮かべて、ふたりは視線をこちらに戻す。


 好意を、寄せられたいんだ。


 一瞬間を置いて、私は今、彼女が自分の目的を話したことに気づいた。

 素敵な男性には、好意を寄せられたい。そのために、海斗をはじめとした男性たちと、親しくしているのだ。ファンクラブに誘われても入らないのは、それでは満足いかないから。


「そう、ですか」

「私たちとしては、海斗様のファンクラブのことも考えて、節度を持っていただきたいと常々お伝えしているのですが」


 遥がぽろっと言い、真理恵がまた、まずい、という顔をする。


「だから、遥さん」

「おふたりは、海斗様のファンクラブには属していませんの?」


 私は、海斗の婚約者。真理恵がそのことで遥を注意すると、また先ほどの気まずい雰囲気に逆戻りしてしまう。兄はもう来ないだろうし、救いはない。

 私は真理恵の言葉にかぶせて、そう問いを投げた。


「ええ。私は、桂一様ひとすじですもの」


 遥は、間髪入れずに答え。


「真理恵さんは、海斗様のファンクラブの、学年代表をしていらっしゃいますわ」

「学年代表……?」

「ただ、同じクラスになったからです」


 真理恵の言葉には、謙遜のニュアンスが含まれている。ファンクラブの世界も、なかなか奥深いようだ。


「あら、もうこんな時間ですわ」


 時計を見れば、短針は随分と進んでいる。兄が来たこともあって、時間は思いの外、あっという間に進んでしまった。


「そろそろ、……あ、早苗さんの車を頼まないといけませんわね」


 皆を送り出そうとして、私は気づいた。侍女に頼み、タクシーを手配してもらうことにした。


「お住いの場所なんかを伝えなければなりませんから、ちょっと彼女に、ついて行ってくださる?」

「わかった」


 侍女の後を追って、早苗はついて行った。こちらで聞いて手配してもいいし、なんなら来てから頼んでも良い。ただ、彼女の住んでいる場所は、きっと私たちの住んでいる場所とは区域が違うだろう。真理恵や遥の前で、あえて言わせなくてもいいと思ったのだ。

 部屋には、遥と真理恵が残る。


「おふたりも、お気になさらず、帰り支度をして構いませんわ」

「……あの、藤乃さん」


 テーブルの上の茶器に手を伸ばしていた私は、思い切ったような声色を聞いて、顔を上げる。真理恵の表情が、わずかながら、強張っていた。


「差し出がましいことを申し上げるようですが」

「何かしら」

「……私たち海斗様ファンクラブは、藤乃さんと海斗様がこのまま睦まじくおられることを、望んでおります」


 真理恵の白い手が、その服の裾をきゅっと握っている。


「早苗さんは、悪い方ではないのですが……海斗様との距離と、取り違えているように思っておりますの」

「……そう、ですわね」


 私だって、特待生のくせに、庶民のくせにと思っているところはある。早苗のそばにいる彼女にも、そう思う節があったのならば、私の思いは婚約者だからではなく、より一般的なものだったのだ。


「今は私や他のファンが、海斗様と早苗さんのそばにそれとなく立ち会って、二人きりにならないよう、気をつけておりますわ」

「そうだったのね」

「ええ。……もちろん、早苗さんも素敵な方ですから。それだけ、というわけではありませんけれど」


 真理恵の思惑がつかめて、私は納得した。

 彼女の言いたいことは、つまり。


「私たちは、藤乃さんに、協力いたしますからね」


 そういうことだ。

 彼女たちにしてみれば、海斗のそばにいるのが私であれば、納得感があるのだろう。曲がりなりにも、小松原家の娘である。それに、親同士が決めた、れっきとした婚約者だから。


「ありがとう。そう言ってもらえると、心強いですわ」


 そう伝えると、真理恵の表情が、ようやくふわっと和らいだ。


「真理恵さん、今日は早苗さんが席を外したらそのことをお伝えしなきゃって、ずっと緊張なさっていたの」


 遥が苦笑しながら、真理恵の背に手を添える。真理恵は、恥ずかしそうにはにかんだ。


「そんなの、いつでも声をかけてくださればいいのに」

「いえ……藤乃さんも、私たちにとっては、憧れの存在ですから」

「そんな、過分ですわ」


 憧れられるような存在ではない。ところが真理恵は、ぶんぶんと、勢いよく首を左右に振る。


「藤乃さんのファンクラブだってあるの、ご存じないんですか?」

「私の……?」

「そうですよ!」


 遥が食い気味に、横から入ってくる。


「私は小松原兄妹推し……あっ」

「遥さん……」


 また口を滑らせた遥を、可哀想なものを見るような目で真理恵が見ている。

 うん、わかった。

 ファンクラブの奥は深い。私はそこに、みだりに首を突っ込まない方が良さそうだ。


「ありがとうございます。そろそろ行きましょうか」


 これ以上、知らなくていいことを知ってしまう前に、私は話を切り上げた。

 藤乃の海斗への態度が目に余ると思っているのは、自分だけではない。それだけで、充分だ。

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