11 「ざまぁ」だけじゃ足りない
自室で、いつものように、借りた本を開く。
悪役令嬢として転生した女の人が、ゲーム世界から早々に離脱する。「亜人」と呼ばれて虐げられる獣人たちと、もふもふで幸せな生活を営む話であった。獣人たちは、主人公の料理の美味しさと強さに惹かれ、続々と集まってくる。
獣人たちの描写が、いちいち愛らしくて、心が和む。
悪役令嬢のお話では、主人公の魅力に惹かれ、本来の攻略対象や周囲の人々が集まってくる展開が多い。
悪役令嬢のそうした状況に焦ったヒロインが、その結果自作自演を巻き起こすのだ。
早苗を焦らせるためには、目標の阻害だけではなくて、私自身の魅力も必要なんじゃないの?
ふとそう思い至り、そして私は、背筋がぞっとした。
そうだ。
私自身が早苗に見合うほどの存在にならなければ、邪魔だけしたって、海斗の心はなびかない。
惨めな早苗を演出するだけではなくて、そのときに「婚約破棄なんてしたらもったいない」と思わせる私でいないといけないのでは。
でも私には、主人公たちのように人間離れした腕力も、知性も、美貌もない。「普通よりは上」かもしれないが、それは、早苗を上回るほどの魅力とは言えない。
早苗の魅力は、庶民でありながらも海斗に並び立つ知性と美貌、そして学級に馴染める明るさがあること。
私が仮に同じものを持ち合わせていても、それは当たり前にしかならない。そして私には、それすらもない。
早苗を貶めることばかり、考えていてはいけないのだわ。
私は、読み終えた小説のページを、もう一度めくり始める。今度は、ヒロインの魅力的な部分だけ、注目して拾い上げながら。
「寝不足ですか? お嬢様」
「ええ、まあね」
「お体には、お気をつけくださいね」
白髪混じりの山口の眉尻が、垂らされる。私は、肩をすくめて僅かに笑った。案じてくれる山口への感謝と、また夜更けまで本を読み漁ったことへの自戒を込めて。
真剣にヒロインの魅力を挙げていたら、時が過ぎるのを忘れてしまったのだ。私は、ポケットの中の手帳に触れる。そこには、昨日の成果が書かれている。
料理が美味しいこと。強いこと(武力的に)。それだけではない。逆境でも諦めないこと、悲しいときには落ち込み、嬉しいときには喜ぶ素直さ。その健気さと素直さが、読んでいる私にも、主人公に対する愛おしさを抱かせた。
それらが自分にも備わっているかと問われたら、自信をもって「はい」と答えることはできない。
こんな私では、たとえ海斗が早苗に幻滅したとしても、イコールで婚約破棄回避には繋がらないのかもしれない。
早苗を超える魅力を、つけなくっちゃ。
それから数日、授業中、私は先生の話に気持ちを向けながらも、合間合間に早苗を観察していた。
ぼんやりと先生の話を聞いている、その遠い目をした横顔の美しさ。休み時間になると華やかな笑顔を浮かべ、話しかけてくる人は誰とでも、にこやかに会話をする。普通の人なら臆してしまいそうな美男子相手でも、その調子は変わらない。
体育の時間には、しなやかな脚で駆け回り、活躍していた。音楽では、抜群の歌唱力を披露する。美的センスに優れ、美術ではその感性を発揮している。こんなに揃っているのに、その上、勉強もできるのである。
容姿端麗、文武両道。そんな、天に二物も三物も与えられたのが、早苗である。
観察すればするほど、私の気持ちは重くなっていった。こんな早苗を超えるなんて、無理なんじゃないか。致命的なミスをして惨めな姿を晒して、早苗の評価が下がったところで、彼女の能力が失われるわけではない。
どうやって、超えたらいいの?
図書室で慧と話す時間は、心穏やかでいられたものの、私のメモ帳に記録された「主人公の美点」は、膨大な量になっていった。
謙虚さ。優しさ。明るさ。打たれ強さ。信念。共感力。人を見る目。運の良さ。愛嬌。特別な知識。商才。思いやり。などなど。などなど。
自分が備えたものも中にはありそうだが、本を読むたびに増えていくリストは、こちらも手に負えないものになってしまった。
「今日はずいぶん深刻そうな顔して、本を読んでいたね」
「そう、ですか?」
金曜の放課後、図書室から出ようとすると、慧にそう話しかけられた。
増えていくリストに、険しい顔になっていたかもしれない。心当たりがあるので、返事がつい、ぎこちなくなってしまった。
「うん。何か、悩みでもあるの? 俺で良ければ、聞くけど」
「いえ……」
私は慧の側に向き直り、首をゆるゆると左右に振る。
「悩みというほどではないんです。ただ、自分の魅力を高めるには、どうしたらいいのかなあ、って……」
「どうして?」
「クラスの、特待生の子が……」
「ああ」
それだけで、慧は納得した声を上げた。
彼は唯一、私が婚約破棄されそうなこと、それは特待生として入学した早苗が原因だということを、知っている。
「藤乃さんは、魅力的だと思うよ」
「そんなことありません」
優しい慰めの言葉に、私はうなだれた。
その優しさが、今は胸に突き刺さる。
「藤乃さんは、自分には何が足りないと思うの?」
「何もかも、です。強くもないし、思いやりに溢れる訳でもないし、飛び抜けた運動神経も、頭脳もないし、料理もできない」
そう、本当に何もかも、だ。
挙げていると、気が滅入ってくる。つい俯く私の頭に、温かな重みがかかった。
「そんなに思いつめていたら、魅力が減ってしまうと思うよ」
「……ですけど」
「何もかも足りないなら、できることから少しずつ、積み重ねていくしかないと思う。考えたって、今できないことは、仕方ないよ」
重みが離れて、私は顔を上げた。丸くへこんだえくぼ。夕陽を反射する眼鏡の縁。その向こうの慧の目は、優しく光っている。
「前進するために行動している姿こそが、魅力的なんじゃない?」
悪役令嬢は、行動力。
最近、おまじないのように唱えていた言葉が、脳内に蘇った。
「……そう、ですね」
あまりに高い目標にめげていた心が、少し息を吹き返した。
「ああ、少し気楽になったでしょ」
「わかるんですか?」
「わかるよ。目元が、柔らかくなったから」
私のこめかみをほぐす仕草を見て、慧はくすりと、浅く息を吐いて笑う。
「週末は、そんなに思いつめずに、ゆっくり過ごすんだよ」
私は、鞄を押さえた。中には、週末だからと多目に借りた、3冊の本。いずれも、表紙の主人公の悪役令嬢が、できるだけ煌びやかに描かれているものを選んだ。あるべき姿を研究するつもりで、借りたもの。
「わかりました」
この本は、ただお話を楽しむために読もう。私はそう決め、頷いた。
「また来週、藤乃さん」
「はい、慧先輩」
週が明けたら、また会える。帰り際の何気ない挨拶の安心感に、ずっと緊張していた肩が、少し緩んだ。
「明日は、どんなお友達がいらっしゃるの?」
帰宅後の、母とふたりの夕食で、その話題になった。勉強会は、明日土曜日の、午前中から設定されている。
「クラスメイト。お母様が知ってるのは、初等部で同じクラスだった……」
「ああ、あの子。覚えているわ」
同級生を何人か挙げると、母は懐かしげに目を細める。
「あとは、特待生の子」
「特待生? へえ……」
最後に早苗を挙げる。母は表情を変えず、視線を遠くへ移した。
「桂一くんも、特待生の子と仲良くしてたわね」
「そうだっけ」
「そうよ。よく名前が出ていたでしょう、あの……」
母が出した名前に、私は「ああ」と声を上げる。兄が高等部にいたころ、よく聞いていた名前だ。
「その人、特待生だったんだね」
「そうよ。一緒にお勉強したり、出かけたり、仲良くしていたわよね。今も連絡を取っているそうよ、奨学金をもらって、国立大学に通っているんですって」
「ふうん……」
母は、溺愛する兄が特待生と仲良くしていることを、喜ばしそうに話す。
「お母様、そういうの気にしないんだね」
「そういうの?」
「特待生だから、庶民とか……そういうの」
頭に浮かんだのは、慧の卑屈な態度。私が口に出すと、母のこめかみが、ぴくりと強張った。
「藤乃ちゃんは、特待生なのに生意気だとか、そういう風に思うの?」
「思わないわ。ただ、仲良くなった特待生の人が、そう言われることがあるって話していたから」
これも、慧のことだ。
私が言うと、強張っていた母の表情は、柔らかな笑顔に戻る。
「そうなのね。私は、家柄よりも本人の品性だと、思っているのよ。桂一くんが仲良くしている特待生の子に、会ったことがあるけど、本当に良い子だったの」
爽やかで、物腰柔らかで、と続ける。
母のこの様子なら、私が慧と出かけることも、それほど問題視されないかもしれない。
ちょっと迷ったものの、試しに、打診してみることにした。
「あのね、お母様」
「なあに?」
「特待生の人って、お金が払えなくて学外活動に参加できなかったら、個別で体験活動をするんだって」
水族館に行くらしいのだけれど、興味があるから、私も行ってみたい。
そう伝えると、母は案外あっさりと、「いいわね」と相槌を打った。
「ちなみに、その方のお名前は?」
「慧先輩」
「ケイ先輩、って言うのね」
母は食後の紅茶を飲みながら、どうだったか感想を教えて、と続ける。
「お父様には?」
「そこまでの報告、しなくてもいいわ。私が言っておくから」
「ありがとう」
デザートは、あっさりした果物のプリン。紅茶によく合う。
「藤乃ちゃんにも、桂一くんみたいに、高等部ではいろいろな経験をしてほしいわ」
「お兄様みたいには……」
「生徒会長をしろとか、そんな話じゃないわ。交友関係を今までよりも広げて、したことのない経験をする、ってこと」
紅茶を飲み終え、母は満足げに息を吐く。私も、少し温くなった紅茶を飲み干した。
「できるだけ、そうしたいわ」
「いろいろ挑戦してみなさいね。……お風呂、入ってきたら?」
「そうする」
母に促され、私は浴室へ向かう。
こんなにあっさりと慧とのお出かけが了承されるのは、予想外だった。慧も心配していたし、もう少し難色を示されるかと思っていたのだけれど。
あとは、予定が決まったら山口に伝えて、付いてきてもらえばそれで良い。
水族館って、どんなところだったかしら。
体を洗い、湯船に浸かりながらのんびりと思い返す。幼い頃の、ぼんやりした思い出。今行けばまた別の感想を抱けると思うと、わくわくしてくる。
楽しいことを考えると、ここ最近のめげていた気持ちが、ふわっと消えていった。温かな湯の中に、鬱屈した心が溶けていく。
明日は、勉強会。
せっかく近くで早苗と勉強できるのだから、その勉強法を掴んで、少しでも彼女に近づこう。
早苗と少しでも親密になること、そして早苗の魅力に少しでも近づくこと。明日の目標をそこに定めながら、私はゆったりと、湯の中で足を伸ばした。