10 慧の学外活動
「……へえ、学外活動の内容が、決まったんだね」
「そうなんです」
借りた本の返却作業を見つつ、図書室のカウンター越しに慧と話す。
「何をするの?」
「浜辺まで行って、スポーツ大会を」
「ああ、それはいいね。予算外で徴収されるものも、なさそうだし」
滑らかに作業をする慧の手つきは、相変わらず、無駄がなくて美しい。
「予算内に収めよう、というのが、私のクラスの雰囲気だったので。クラスには、いろいろな経済状況の人がいますから」
「へえ……ずいぶん、配慮のあるクラスなんだね」
慧の相槌は、なんとなく、いつもよりそっけない。
「慧先輩のクラスは、何をするんですか?」
私のクラスの話には、興味がないのだろうか。まあ、関係ないものね。
そう思って、彼の方に話を振る。
「さあ。今年は何だったかな。話し合ってたけど、俺はあんまり聞いてないんだ。どうせ、行けないから」
「行けない……?」
作業のために、慧は俯いている。前髪が顔にかかって、その表情は伺えない。その声は、淡々としていた。
「去年もそうだったし、今年も予算外の徴収があると思うんだよね。そうすると、俺は行けないんだ。払えないから」
「ああ……」
そういえば、慧も特待生なのだった。
「……残念ですね」
「そうでもないよ。実際、お金を払えない俺の方が悪いわけだし」
残念だとすら思えない慧の心持ちに、切なさを覚える。だけど、私が何を言ったとしても、彼にお金がないことは変わらない。
「……他にもそういう人、いるんじゃないんですか?」
だから私は、慧自身から、話を逸らした。実際、特待生でなくたって、自由に使えるお金のない人はいるかもしれない。私の問いかけに、慧は「さあ」と気のない答え方をする。
「知らない。俺は、自分が行けないってことしか、知らないから」
「そう、ですよね」
ああ。
こんな話を振ったことが、申し訳ない。申し訳なく思うことすら、失礼なのかもしれない。続く言葉に迷って、視線を泳がせる。すると慧が、「ねえ」と言った。
見ると、慧の頬には、うっすらとえくぼが浮かんでいる。
「学外活動に行かなかった人が、何をするか、知ってる?」
「行かなかった人が……?」
「そう。学外活動は年間計画に入ってるから、何もしない訳にはいかないんだよね。だから、行けない人は、学級での活動に、代わることをするんだよ」
そんな話、初めて聞いた。
会長からも、そんな説明はなかった。ぽかんとする私を見て、ふっと息を吐いて慧が笑う。
「知らなかったよね。俺も去年、金銭的に行くのが無理だと伝えて初めて、先生から言われたから」
「何をするんですか?」
「自由。自分で興味のある活動を体験して、レポートを書けばいい」
慧の目が、きらっと、悪戯っぽく光る。
「しかも、ひとりぶんの予算は分配してもらえるから、その中で行けば、余計なお金はかからない」
「楽しそうですね、それも」
クラスの皆で相談して行くべきところを決め、企画し、実施する。それも楽しいが、予算内で自分の好きなように体験を組むのも、それはそれで楽しそうである。
「そうなんだよ」
実際、慧もどことなく楽しげだ。
「昨年は、どこへ行かれたんですか?」
「動物園」
「どうぶつえん……?」
思わず復唱してしまったのは、あまりにも意外だったから。動物園なんて、最後に行ったのは、初等部の頃だ。それも、低学年。
幼かった私は、当時は大きなキリンやゾウに大喜びしていたけれど、今同じように喜べるとは思えない。
「動物に興味がおありなんですか?」
「当時ね。動物を撮った写真集をよく見てたんだ。せっかくだから、本物を見に行こうと思って」
「へえ……」
いまひとつ共感しきれず、曖昧な相槌を打つ。
「楽しかったよ。動物園なんて子供の頃以来行ったことないだろ? それを、写真撮りながら、ゆっくり見て回ってさ」
「楽しいんですね」
「クジャクが羽を広げる瞬間、見る? ちょうど、タイミングよく動画が撮れたんだ」
慧が携帯を取り出したので、その画面を覗き込む。画面の中で、鮮やかな羽を、見事に円形に広げる孔雀の姿。
「え! すごい音」
バチバチという、骨と骨が擦れるような音を聞いて、驚いた。
羽を広げた孔雀は、その色柄を見せつけるように、ゆったりと回っている。
「面白くない?」
「面白いです、たしかに」
「でしょ? それを、適当に写真撮って、テーマに合わせてレポート書いたら、ただで行けるんだ」
慧の口ぶりは、卑屈ではなく、本当にそれが「得だ」と感じているようだった。
「電車で2時間くらい行くと、関丘動物園っていうのがあるの、知ってる?」
「聞いたことあります。最近有名になりましたよね」
関丘動物園の名前は、聞いたことがある。動物の展示が工夫されているということで、最近話題だ。初等部の下級生は、社会科見学の行き先が、そこに変更になったらしい。
「そこに行ったんだ。往復と入園料、それに昼食とかを含んで、ちょうど1万」
「おお……」
その間も、車窓の風景、昼食のプレート、動物の姿と、慧の持つ携帯に映し出される写真は変わっていく。それを見ながら彼の話を聞いていると、たしかに楽しそうだ、という気がしてくる。
「今年はどこへ行くつもりなんですか?」
「水族館かな。最近は、海の写真をよく見ているから」
カウンターの近くにある、返却図書用の棚には、今日も青い表紙の写真集が置かれている。表紙はくらげ。この間のものとは、また違う本である。
「いいですね。私も行ってみたいです」
水族館だって、記憶にあるのは、幼い頃に行ったこと。動物園同様、今行けば新たな発見があるのだろう。
そう思って口にすると、慧は「そう?」と反応した。
「行きたいなら、一緒に行ってもいいよ」
「いいんですか?」
「まあ、お金は自分で出してもらわないといけないけどね」
それはそうだ。
私の分の予算は、学級での活動に使われる。
慧には失礼かもしれないが、私は、自分でひとり分の料金が出せないほど、困ってはいない。
「そうですよね」
私が応えると、慧はえくぼを作った。
「一緒に行ってくれる人がいたら、証拠写真も撮れるから、ちょうどいいや」
「証拠写真?」
「俺が行ったって証明するために、自分が入った写真を撮るんだよ、一応。動物園に行った時は他のお客さんに頼んだんだけど、ひとりで写真を撮ってもらうなんて、なかなか恥ずかしくてさ」
肩をすくめる仕草は、本当に恥ずかしそうだ。はにかむ慧につられて、私も笑う。
慧みたいな人が、知らない人に頼んでひとりで写真を撮ってもらっている姿は、確かになんとなく、違和感があっておもしろい。
「ご迷惑でないなら」
「全然。俺こそ、本当にいいのかな。藤乃さんみたいなお嬢様を、連れ歩いて」
私は、確信を持って首を縦に振る。
「そういうときは山口が付いてくるので、大丈夫ですよ」
「山口?」
「私の運転手兼、お目付役というところでしょうか」
出先で何かあってはいけないから、学外での活動や個人的な遊びに、警備を連れてくる友人はそれなりにいる。私の場合、余程危険な場面でもない限りは、その役回りは基本的に山口が担ってくれる。
実のところ彼は複数の武道を習得しており、警備としての経歴も長い。ただの上品なロマンスグレーでは、ないのだ。
「へえ……すごいね」
「だから大丈夫です」
「そっか……うーん、俺と二人ってことは、いいの? まあ、なんか……いろいろあるみたいだけれど、藤乃さんには、婚約者がいるんでしょ?」
「え?」
慧の言っていることが、一瞬わからなくて、戸惑った。婚約者がいることと、水族館に学習に行くことと、何の関係があるのか。
「どうしてです? 何かあるんですか?」
「一応、俺は男だからさ。まずいんじゃない、運転手の人? が付いてくるとしても、二人で出かけるっていうのは」
「ああ……」
確かに学習ではなく遊びと捉えれば、いささか問題があるかもしれない。私と慧にその意識がなくても、周りの目もある。
海斗にだって、妙な誤解をされたら、婚約破棄の口実を与えることになりかねない。それは、良くない。
「なら、一応、両親に相談してみますね」
「その方がいいと思う」
「だけど、とりあえずは頭数に入れておいていただけると」
親の反対で行けないかもしれないと思うと、尚更、水族館への興味が増した。私が念を押せば、慧は「もちろん」と受ける。
「藤乃さんが、そんなに水族館に興味をもつとは思わなかったよ」
「そうですね……慧先輩が、楽しそうに話すから」
水族館なんて興味がなかった。学外活動に行けない特待生が、別のことをするなんて知らなかった。
わざわざそれに参加してみようと思ったのは、慧が本当に、楽しそうだったからだ。
「それに慧先輩と行ったら、水族館も好きになるかもしれません」
「どういうこと?」
「私が図書室を好きになったのも、先輩のおかげですもの」
何も傷つけるもののない、図書室という空間。それ自体を好きになれたのは、慧がわざわざ話しかけ、優しく教え、嫌な顔せず受け容れてくれたから。
そう考えて、自分自身で、はっとした。
ついていきたいのは、図書室に次いで、水族館も居場所になるかもしれないからだ。
慧と行く水族館は、優しい青に包まれ、ゆったり泳ぐ魚たちと共に、穏やかな時を過ごせる場所に違いない。
頭の中に幻想的な光景が広がる。
「そうか、嬉しいよ」
西陽の中で、微笑む慧の眼鏡のフレームが、きらりと光る。
「話し込んじゃったね。本、借りておいで」
「はい」
カウンターを離れると、慧はまた、視線を手元に落とす。私は、書架の間を縫って目的の場所を探す。
最近では、参考になるというだけではなく、お話の内容を普通に楽しむようになってきた。表紙を見比べ、可愛い女の子ともふもふの動物が描かれたものを手に取る。
暫く読んでいたら時間になったので、貸出手続きをして、図書室を出た。
「また、明日」
慧のいつもの挨拶を、嬉しく思いながら。