1 婚約破棄宣言
「どうしてあの女は、あたしの思い通りに動かないの? ゲームの脇役なんだから、脇役らしく、振る舞っていればいいのに」
教室では見せない憎々しげな表情で、そう吐き捨てる美少女。その横顔を盗み見て、私は、息を呑む。
今の発言で、彼女がどういう立場に置かれた人なのか、察してしまった。もしかして、あの人は。
……私がそれに気づくのは、もう少し後の話。物語の始まりは、その数ヶ月前まで遡る。
***
「君との婚約は、破棄させてもらうよ。悪いけど」
その宣告は、私の心臓を、深く深く、貫き通した。
何も言えない私を置いて、婚約者の千堂海斗は、教室を出て行く。
「海斗様、どうしてです……?」
ひとり残された教室で、私の呟きが、宙に浮き、そして消える。
西陽で橙色に染まる教室は、どうしようもなく、空虚なものに見える。
「千堂くん、何のお話?」
「早苗には、関係ないよ。気にしないで」
廊下から、海斗と早苗の、楽しげな会話が聞こえてくる。優しい、海斗の声。今しがた、婚約破棄を宣告した冷たい声の持ち主と、同じだとは思えない。
婚約破棄。
その言葉が、重く、私の心にのしかかる。
本気なのだろうか。
戯れにしては、高等部に入学してからの海斗の態度は、目に余る。婚約者であるはずの私をないがしろにして、早苗とばかり、行動を共にしている。中等部にいた頃は、これほどあからさまに、拒絶されることはなかった。
「本気、なのね……」
海斗は、嘘なんてつかない。そんな軽薄な人間ではない。
だからこそその言葉には、高い信憑性があって。
「婚約、破棄、だなんて」
私の胸を、重く重く、その言葉が押しつぶす。
高等部1年生、ゴールデンウィークの連休明け。私、小松原藤乃を待っていたのは、五月病なんて目ではない、辛い現実だった。
泣き場所を、探していたのだと思う。
教室でも、廊下でも、誰か来るかもしれない。泣いている姿を見られるのも、理由を問われるのも、嫌だった。
誰にも知られない場所で、海斗の発した言葉の重みを、きちんと受け止めたかった。
「図書室……」
気づいたら、図書室の前に立っていた。
入学して以来、初めて来たかもしれない。
本なんて借りなくても、自分の読みたい本があれば、全て買ってもらえるから。勉強するなら、自室の方が集中できる。
裕福な子女の多いこの学園では、同じ理由で、利用者は少ないのだろう。
ガラス戸の向こうには、人影がない。私はふらりと中へ入った。
立ち込める独特の、紙と埃の匂い。
絨毯敷きの床は、歩いても、足音が立たない。
どこかに本を読んでいる人がいるようで、ページをめくる音がする。私は、その音が聞こえないところまで行きたくて、書架と書架の間を進んだ。
頭上まで続く、書架。そこへいっぱいに積まれた、本。色とりどりの背表紙の上に、さまざまなフォントのタイトルが踊る。その膨大な情報量に紛れ、泣きたい気持ちが、なんとなく誤魔化されていく。
「……これ」
目に付いたのは、『悪役令嬢は、婚約破棄を回避したい』というタイトル。手に取ってしまったのは、悔しいけれど、それが自分の願いに合っていたから。
表紙には、アニメ調のイラストが描かれている。ポップな題名。ページを捲ると、つやつやした紙質で、美麗なイラストのキャラクター紹介から始まる。あまり、この手の本は、読んだことがない。
それはきっと、現実逃避だった。
しかし、ページを繰るうちに、私は物語に、どんどん引き込まれていった。
主人公は、目覚めたら、異世界の貴族令嬢になっていた。そして、成長するうちに、気づくのだ。自分はこのままでは、婚約者に婚約破棄され、没落する運命だと。
物語ではそれは、「悪役令嬢」と表記される。「ヒロイン」に婚約者を取られた上に、非道な目に遭う憐れな女性。
その「悪役令嬢」を自分と、「婚約者」を海斗と、そして「ヒロイン」を早苗と重ねてしまうのも、無理はない。
悪役令嬢は、持ち合わせた知識を駆使して、ヒロインの思惑を打ち砕く。焦ったヒロインは、令嬢からの嫌がらせを自作自演する。
主人公の隣に婚約者が立ち、貶めようとしたヒロインを糾弾する。それは、本来のストーリーとは、真逆の展開。主人公は、機転と努力によって、ハッピーエンドを勝ち取るのだ。
私は、お行儀悪くも床に座り、書架にもたれて読みふけっていた。最後のシーンでは、胸のすくような思いがした。浅はかな考えで男たちを手玉に取ろうとした「ヒロイン」が、かえって惨めな目に遭う。その結末の、爽快なことと言ったら。
「……そろそろ、閉館の時間だよ」
「へえっ?」
我ながら驚くほどに間抜けな声が出て、私は口元を押さえた。ちょうど、最後のページを繰り終えたところだった。地べたに座る私を見下ろしているのは、眼鏡をかけた、見知らぬ男子生徒。
ネクタイの色が緑色だから、2年の先輩らしい。
「ご、ごめんなさい」
こんな、イラスト入りの本を読んでいるところを見られるなんて。しかも、床に座って、熱心に。
私は慌てて立ち上がり、本を元の場所に戻そうとした。本を抜き取った、一冊分のスペース。手元がおぼつかなくて、なかなか入れられない。
「いいよ、貸して」
横から手が伸びてきて、本をしまってくれる。元あった位置に、本は、何事もなかったかのように収まった。
「あ、読み返したいなら、貸出手続きもできるけど」
「いえ。大丈夫です」
思ったよりもとげとげしく、断りの言葉が出てしまった。そう、と表情を変えない先輩の様子に、少しだけ、罪悪感が芽生える。
手伝ってくれたんだから、もっと、優しい言葉をかけるべきだったわ。
後悔しても、口から出た言葉は戻らない。
「閉館だから、今日はもう出てもらっていいかな」
「わかっています」
頷き、私は彼に背を向けた。長居したら、迷惑をかけてしまう。
「またおいで」
足早に立ち去る私の背に、そう言葉がかけられる。床に座って本を読んでいても、「またおいで」と言われるなんて、図書室は、ずいぶんと心の広い場所らしい。
ブレザーのポケットからスマートホンを取り出すと、着信が大量に来ていた。迎えの運転手からである。最初の着信は、二時間前。ずいぶん待たせてしまった。
私は折り返さず、代わりに、速度を上げる。いつもの場所で、車は待っているに違いないからだ。
「待たせたわね」
「ああ、お嬢様」
後部座席の扉を開け、迎えてくれるロマンスグレー。私の専属として、父がつけてくれている、運転手の山口だ。
「申し訳ございません、何度も着信を入れてしまいまして」
「構わないわ」
心配してくれたからだということは、わかっている。後部座席に腰掛けると、山口は扉を閉め、運転席に戻る。滑らかな白い手袋で、ハンドルを握った。
幼稚部の頃から、山口は私の送り迎えを担当してくれている。こんな風にたまに遅れても、咎めない。何があったのかも、聞かない。その穏やかさが、私にはありがたい。
山口の運転に身を任せながら、私はスマホの画面を開く。検索窓に打ち込むのは、先ほど読んだ本のタイトル。『悪役令嬢は、婚約破棄を回避したい』……調べると、本を読んだ感想が、ずらりと現れた。
『最後の"ヒロインざまぁ"が、爽快だった!』
いくつかの感想に共通して現れる、「ざまぁ」という言葉。どうやらそれは、ヒロインが悪役令嬢にしてやられた、最後の爽快な結末を指しているらしい。
ざまあ見ろの、ざまあ、ね。ずいぶん品のない言葉だわ。
そう批判的に見もしたが、その言葉は、私の心をくすぐった。早苗ざまぁ、と言ってやりたい。そんな欲望が、むくむくと湧いてきたのだ。
海斗を籠絡する早苗の失態を明るみに出し、彼女の確立した「ヒロイン」としての立場を、足場から崩す。海斗の心を掴んだ私が、崩れ落ちる早苗に、言ってやれたら。「ざまぁ」と。
そうよ。
婚約破棄するって言っていたけど、きっと、ほんの気の迷い。だってあれは、家と家との決め事だ。親を通してその話がないのだから、海斗のちょっとした戯れに決まっている。
「大したことないわよね、山口」
「はい? ーーそうですね、お嬢様」
山口の同意を得て、私は頷く。
早苗が惨めな姿をさらせば、海斗の気も変わるはず。そのために私は、「早苗ざまぁ」を、目指すのだ。