『バレンタインわず。』
リビングで見ているテレビ番組では、バレンタイン特集と銘打って、様々なチョコレートを使ったお菓子が紹介されていた。
それを妹の葉月と一緒にボーっと見ながら、お昼ご飯のインスタントラーメンを食べる。
CMに入ると、葉月は我に返ったように、声をあげた。
「今日ってさ、世間的にはバレンタインだよね、お兄ちゃん」
「そうだね」
「だから、ちょっと、チョコ買ってきてよ。板チョコ。なんか作るから」
「え、俺が買いに行くの?」
「そうだよ。……お兄ちゃんが買ってきたチョコで、私がお兄ちゃんにあげるチョコレートを作る。それをお兄ちゃんが美味しそうに食べてくれる。毎年そうじゃん」
「去年もそうだったけ?」
「それ、去年も言ってたよ……。『去年もそうだったけ』って……。ほら、いいから買ってきて」
「……分かった分かった」
「あ、食べ終わったあとの洗い物は私がやっておくから」
身支度が済んで「いってくる」と伝えると、葉月は洗い物を一旦中断して、玄関まで見送りにきた。
「板チョコだからね。あと、ミルクチョコレートだから。ビターとかホワイトとかは買ってこないでね」
「分かった」
俺は寒空の下、最寄りのコンビニへと向かった。
早く用を済ませて、暖房の効いた部屋に戻ろう。
と、思っていたのだが――。
「なんでないんだ……」
最寄りのコンビニには、板チョコが売っていなかった。仕方なく、その近くにあるスーパーにも行ってみたが、そこにも売っていなかった。
俺はなにかおかしいと思いながら、街にある普段は使ったことのないコンビニやスーパーも回った。
しかし、どのお店でも板チョコは売り切れていた。
そして、このスーパーが最後の一軒だったんだけど、やっぱりチョコは品切れになっていた。
ちょうど近くにいた店員さんがいたので、声をかける。
「チョコレートは品切れですか?」
「申し訳ございません。現在切らしておりまして……」
「そうですか」
俺は肩を落としてスーパーを後にした。
困ったな。まさかどこにも売ってないとは思わなかった。
トボトボと歩いていると、後ろから声を掛けられた。
バイト先でお世話になっている先輩だった。
「困っているようね。仕方ないから、この義理チョコをあげるわ」
そう言って、先輩は俺に板チョコをくれた。
「ありがとうございます」
「ふふ。高くついたわね。ホワイトデーのお返し、楽しみにしてるわよ」
そう言って、先輩は俺の前から去って行った。
よし、とりあえず一枚ゲットした。
俺は家に電話をかけて葉月に報告する。
「おい、葉月。板チョコ一枚ゲットしたぞ」
『さすがお兄ちゃん。でも、一枚じゃ……ちょっと足りないかな』
そうか……。
一度電話を切る。
困ったな……。
街にあるお店は全部回ってしまった。隣町まで出る必要があるかもしれない。
駅に向かって歩いていると、小学生くらいの小さな女の子がぺたりと座りながら泣いていた。
周囲にはむき出しのチョコレートが散乱している。
「ふぇえ~~。買ったチョコ、パパに内緒で食べようとしたら……転んだはずみで全部道路に落としちゃったよぅ~~……」
そ、それはなんてタイミングで、俺はこの場所に通りかかってしまったのだろう。
周りを見回しても、座ったまま泣いている女の子と俺しかいない。
「うぅ……っ。パパにチョコ作ってあげられないよぉ……」
「良かったら、このチョコあげようか」
「……ぇ? ほんとう?」
「うん」
小さな女の子は、俺の手からチョコを受け取ると泣き止んだ。
「お兄ちゃん、ありがとう! これでパパに作ってあげられるっ」
「家に帰ってから開けるんだぞ」
「うん、分かった」
小さな女の子は、嬉しそうにスキップで家に帰っていった。
俺は再び葉月に電話した。
「ごめん、小さな女の子が泣いてたから、さっきのチョコあげちゃった」
『え、じゃあ、無いってこと?』
「まぁ、元々あれだけじゃ足りなかったわけだしな」
『まぁそうだけどさぁ……』
なんであげちゃうのかなぁ――。と言いたげな雰囲気がスピーカー越しでも伝わってきた。
「ってわけだから、ちょっと隣町まで行ってくるよ」
『え、いいよ……そこまでしなくて。というか、隣町行くなら私も連れてってよ』
「――お兄ちゃん、お待たせ」
葉月と駅前で落ちあった。
急いで用意してきたわりに、葉月はちゃんとお出かけの格好をしていた。
二時間前まで家でダラダラしていたとは、とても思えない。
冬物の黒いダッフルコートの下から、明るいベージュのスカートが少しだけ見える。足下は黒いストッキングと、ベージュのムートンブーツを履いている。
駅に入ってすぐに、駅ナカのコンビニが目に入った。
「葉月、あのコンビニ寄ってみよう」
「うん。分かった。チョコレート売ってるかもしれないし。あとペットボトルのお茶買いたい」
そして、俺たちはコンビニに入って飲み物と飴を買った。チョコレートは売ってなかった。
コンビニを出て、葉月は落胆した声をあげた。
「駅ナカのコンビニにも売ってないんだね……」
「な。不思議だろ?」
そう言って、俺と葉月はお互いに顔を見合わせた。
隣町のショッピングモールに着いた。
お店の入り口が並ぶ通路は多くの男女で賑わっていた。
それを見ながら、葉月が嘆息のように声をあげる。
「うわぁ~。やっぱりカップルの人たちが多いねぇ」
「そうだな。葉月は学校で気になるやつとかいないの?」
その話題には無関心だと言わんばかりに、葉月は首を横に振る。
「うぅん。お兄ちゃんに比べたら、みんな子供みたいに見えるね。対象にならない」
「あぁ、そうなんだ」
葉月が思いのほか厳しいことを言ったので、心の中でちょっと笑った。
その後、俺たちはショッピングモールにあるチョコレート専門店にやってきたが――。
「うわ、嘘でしょ……」
そこでもチョコレートは品切れだった。ショーケースの中は空っぽだったり、見本品の前には「SOLDOUT」の文字が書いてあった。
店員さんが申し訳なさそうに話しかけてきた。
「原材料として使われているカカオの原産国で、半年くらい前から情勢不安になっておりまして、その影響で品薄になってるんです」
「そうだったんですか」
どうりで、どこにもチョコレートが売ってなかったわけだ。
俺たちはお店を出た。
「うぅん。お兄ちゃん、どうしよう」
葉月は困った表情で見つめてくる。
「まぁ、チョコは一旦忘れて、葉月の行きたいところに行こう。買い物も目当てだったんじゃないの?」
「うん、まぁ、そうなんだけどね」
俺は葉月と一緒にショッピングモールにある様々なお店を回った。
「お兄ちゃん、この服……私に似合うかな?」
やや大人っぽい渋いローズカラーのブラウスを、上半身に当てて見せてきた。
「似合ってるけど、ちょっと大人っぽくない? 葉月だったらもう少しこういう大人っぽくない服の方がいいと思うんだけど」
俺は、近くにあった爽やかな薄緑色のトップスを指さす。
葉月はそれをチラリと見て、すぐに自分の持っている服に視線を戻した。
「……うん、じゃあ、これにする」
「そっちは、大人っぽいって」
「いいのこれで」
「そ、そう」
葉月は、ローズカラーのブラウスを買っていった。
ショッピングモールからの帰り道。
ふと、消え入る白い吐息のように葉月は呟く。
「私も早く大人になりたいなぁ……」
「そのうちイヤでも大人になるよ」
葉月が俺の方を見てくる。
「……それでも、早くなりたいな」
地元の駅に戻ってきた。
当初の目的を思い出して、葉月は呟いた。
「そういえば結局、チョコレート買えなかったね」
俺はショッピングモールのチョコレート専門店での話を聞いて、完全に諦めていた。
「あぁ……まぁ、無いものは仕方ない」
今思えば、先輩から貰った板チョコは貴重な一枚だったんだなぁ。
家に帰る途中だった――。
「そこのお兄さん」
知らないおっさんに声をかけられた。
「えぇと、誰ですか」
「……僕の娘にチョコを譲ってくれたとか」
娘にチョコを譲った?
「もしかして、小学生くらいの?」
おっさんは首を縦に振った。
「そうそう。……これはそのお礼だから受け取って。あと、こっちは娘の手作りだが、これは渡すわけにはいかない」
そう言って、小さな女の子の父親は俺たちに不透明なラッピング袋を手渡してきた。それから、もう片手で持っていた自分の娘の手作りチョコレートを目の前で食べてしまった。
「あぁ……やっぱり娘の作ってくれるチョコは美味しい……」
俺は受け取った袋の中を見てみる。
中には板チョコが、ざっと見て十枚くらい入っていた。
「あの、いいんですかこれ」
「去年は娘が何度もチョコレートを焦がして失敗させちゃってね。これは、心配でこっそりと今年用に買いだめしておいたものだ。品薄で困ってるんだろう?」
「……どうも、ありがとうございます」
俺は頭を下げた。葉月も俺にならって、一緒にお辞儀をしていた。
「ふふ。……今年はね、僕の娘、焦がさないでちゃんとチョコレート作れたんだよ。いいね。娘の成長を間近で見られるって言うのは」
「はぁ……」
「お兄さんも、彼女さんに子供作ってもらうといい。子供は可愛いぞぉ……」
そして、娘同様、お父さんもスキップで家に戻っていった。
娘のお父さんが去ったあと、僕は口を開く。
「あはは、彼女だって。葉月、俺たち間違えられちゃったな」
「うん……」
「どうした?」
「ううん……。チョコもらえてよかった」
葉月は家に帰るまでモジモジとして、目を合わそうとしなかった。
夜食を食べて、少し休んだ後――
「じゃあ、今から作るから」
部屋着に猫エプロン姿の葉月がそう言って、キッチンに立った。
「夜遅いし、俺も手伝うよ」
葉月は首を横に振った。
「ううん。いいよ、お兄ちゃん。お兄ちゃん、お昼から歩き疲れたでしょ。だから、休んでてよ」
「そういう葉月も疲れてるんじゃないの?」
「まぁまぁ、いいから休んでて。私は大丈夫だから。ほら、お風呂でも入ってらっしゃい」
「分かったよ。何か手伝ってほしいことがあったら言って」
「うん、ありがとうね、お兄ちゃん」
お風呂を出て、リビングに戻ると、チョコレートの焼ける優しい香りがした。
一体何が出来上がるのだろう。
「あと三十分位待っててね」
オーブンの前に立つ葉月がそう告げる。
それからリビングでテレビを見ながらボーッとしていると、葉月の足音が近づいてきた。
「はい、お兄ちゃん。お待たせしました」
「今年は何を作ってくれたのかな」
「簡単に、ガトーショコラ。ラッピングも簡素に済ませちゃったけど……」
葉月の手からそれを受け取ろうとした瞬間、リビングの時計が鳴って日付が変わった。
「あぁ、バレンタイン間に合わなかった……。もう少し早めに作り始めれば良かった……」
「まぁ、いいじゃん」
軽く肩を落とした葉月の頭の上に、ぽんっと手を置いて励ます。
葉月は照れ笑いをしながら「バレンタインわずだね」と呟いた。
葉月がふざけた口調でおどけたので、俺は葉月の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「それより、いいから食べてみてよ」
「分かったよ」
俺は葉月に促されて、手元にあるラッピングの赤いリボンをほどく。
そして、一口サイズの四角いガトーショコラを袋の中から取り出して口に入れた。
外側はサックリしていて、しつこくない甘さを内側のしっとりとした食感がほどよく引き立てている。
まるで、濃厚なチョコレートケーキを食べているみたいだった。
「ど、どう?」
「うん、美味しいよ。作ってくれてありがとう」
俺は葉月の頭をポンポンと軽く叩いた。
「そっか良かった……」
それを聞いた葉月は、俺が座っているソファーの隣側に、安心して力が抜けたように腰掛けた。
「私も食べよ。お兄ちゃん、一個ちょうだい」
「はい、じゃあ口開けて」
俺はそう言いながらガトーショコラを手につかんで葉月の口元で止める。
「な、なにそれ」
「……ご褒美?」
たまには葉月に食べさせてあげようと思って。あと、やっぱり可愛い妹のままでいてほしい。大人にならないでおくれ……。
「どういうことなの……。…………あーん……もぐもぐ」
葉月は呆れた口調で、恥ずかしさを隠しながらも、俺のご褒美を受け取ってくれた。
……作ったのは、葉月だけど。
「……あ、結構美味しいね、これ」
自分の料理の出来に納得しているようだった。
「うん、よくできてるよ。さすが葉月だ」
「美味しいからもう一個食べちゃお。……もーらい」
ラッピング袋の中から、葉月はガトーショコラを取り出して自分の口に入れた。
それから、溶けたチョコのようにとろけた可愛らしい笑顔ではにかんだ。