メッセージ
暗い舞台袖から外へ出ると、今日のオペラの出演者たちで廊下はあふれている。もう舞台衣装に身を包んだ人もいれば、まだ私服のままあいさつを交わしている人もいる。廊下に並べてあるテーブルの上には、差し入れのお菓子とか、ケータリングのサンドウィッチや飲み物が並べられている。学生さんだろうか。ずいぶんと若くみえる子たちが、テーブルの前でどれを食べようかとさわいでいる。
今日は市制○○周年記念として企画された市民オペラのコンサート当日なのだった。
主役級の歌手や舞台監督、指揮者などはプロが務めるのだが、その他の出演者やコーラス、それにオーケストラは、地元のアマチュアが出演する。アマチュアといっても、合唱部の学生さんや市民オーケストラの団員、コーラスのサークルに入っている方であったりピアノや声楽の先生などが選ばれている。
楽屋から、まるで二日酔いの男性がえずいているかのような声が聞こえてくる。ぎょっとして楽屋の名前を確認すると、本日主役を務めるバリトン歌手の名があった。
発声練習の一環なのだろう。舞台に立てば魅惑のバリトンなどと言われているイケメン歌手のつぶれたガラガラ声が廊下じゅうに響き渡っている。
「コーラスの方はそろそろ着替えてくださーい!」
合唱団が控室として使っている大練習室の方から声がかかり、ケータリングを物色していた学生さんがお菓子をいくつか手に取ると、小走りに去っていった。
私が務めるコレペティトゥアというのは練習ピアニストのことで、その名の通り普段の練習時のピアノ伴奏を務める。オペラ本番はオーケストラが演奏をするので、私たちに出番はない。はずなのだが、今日私にはとっても重要な任務が割り当てられている。
私は、舞台裏の喧騒を離れ、静まり返った階段を上る。
たどり着いた扉を開ける。ガラスの向こうにステージを見下ろすことのできる小さな空間。インカムをつけてスコアを広げる。
コンサートの間中、必死で楽譜を追いながら指示を出し続ける。
「イチマルサン、スタンバイ……ゴー」
「イチマルロク、イチマルナナ、スタンバイ……ゴー、ゴー」
私の指示に従って、色を変えていく舞台。
一瞬でも目を放したら、迷子になってしまいそうで、スコアを持つ掌に脂汗が浮く。
地元参加組の私は、コレペティトゥアなんて務めるのも初めてならば、照明のキューを出す仕事があるなんてことも知らなかった。しかもこんなに大変だったなんて! こんなに細かく指示しなくてはいけないなんて! そのうえ、私の指示ひとつで部隊が台無しになってしまうと思うと、おなかが痛くなる。引き受けるんじゃなかったと泣きそうになった。
付き合っていた彼氏にも「しばらく放っておいて!」と言うと、楽譜とにらめっこをする日々を今日まで過ごしてきたのだ。
当日は、大きな失敗もなくなんとかこなすことが出来た。たった一人、感無量で仕事を終える。
「おつかれさま」
暗く小さな調光室で、一緒に仕事をした照明さんが言ってくれた。
舞台裏に戻れば、廊下にはテーブルの上に山のような花束が並んでいる。出演者たちはその中から自分宛てのものを探して持ち帰っていく。まあ、裏方の私には縁のないコーナーだ。
私は後片付けを手伝い、その後打ち上げ会場へと向かった。
打ち上げ会場は、本番を終えた解放感に包まれている。あいさつや乾杯が終われば、あちらこちらで笑い声が弾ける。
ぺこぺこのお腹を満たそうと、取皿を片手にうろうろしていると、後ろから肩を叩かれた。
「これ、先生宛の花束じゃない?」
そう言って、顔見知りのコーラスのおばさまが笑って花束を差し出している。
びっくりして私は「え?」と、声を上げた。
見ると、英字新聞にくるまったピンクのバラの花束。そこにメッセージカードがテープで留められている。そのカードに自分の名前を認めて、顔が赤くなる。
『お疲れ様。打ち上げが終わったら迎えに行くから電話してください』
差出人は彼だ。
出演者でもない私が花束をもらうなんて……恥ずかしい!
花を渡してくれたおばさまがにやにやしながら、こちらを見ている。
「あの、私、帰ります」
とっさにそう言っていた。
私は店の外へ向かいながら、スマホの電源を入れる。彼の電話番号を呼び出す。
「あれ? もう打ち上げ終わったの?」
彼の声に「うん。迎えにきて!」と答える。
店の前で私は、花束とポカポカと暖かくなった気持ちを抱えて彼を待つ。すん、とピンクのバラに鼻を寄せると、甘く優しい香りがした。
もうすぐ。彼の車が目の前に止まる。そうしたら私は、バラの花束を手に彼の隣へ滑り込むのだ。
ほら、あのヘッドライト。
私はそれへ向かって大きく手を振った。
〈了〉
とある小さな公募で、佳作という名のその他大勢賞に入った作品です。





