鏡よ鏡
私を覗き込んで、願いを託した人たちは、いったいどれほどいたことでしょう。
私は鏡。
覗き込めば、現実とそっくりの別世界を見ることができます。
鏡の中に入り込む願望、憧れ、嫌悪、落胆……。人々は現実に背を向け、私を覗き込みながら、誰にも見せないその心の内を、私だけに吐き出すのです。
けれども私は、人間が作った鏡ではありません。
神がお作りになった、特別な役割を持つ鏡なのでございます。
例えばある時、私は貧しい女のもとにおりました。畑仕事に炊事洗濯、それから子育て。疲れ果てた女は、ある晩仄暗い部屋の中で、私に声をかけてきました。
「ねえ、あんたに映る私は、なんてくたびれてるのかしら? 私、このまま老いて死んでいくんだわ。なんのために生まれてきたんだろう。時々わからなくなるの」
私はそうっとその女の心の中に忍び込みました。
『私は魔法の鏡。あなたの願いをひとつ叶えることができますよ』
「へえ、まるでおとぎ話ね。鏡よ鏡……っていうやつ?」
そう言って女は黙り込むと、物思いにふけっているようでした。
そして、もう一度私をのぞき込んだ彼女の目には、突き刺すような力が宿っておりました。
「どうか、娘を。この娘を、お金に困らないようにしてくれないかしら」
ふいに視線がゆらぎ、女の目に涙がたまりました。
この女は、もう自分のことはすっかり諦めていたのです。そこで私は『わかりました』と応えると、女の願いを聞き届けました。
その後すぐに、女は夫とともに死んでしまい、娘は金持ちの親戚の家にもらわれていきました。親戚はケチでしたが、世間体を気にする人でしたので、少女がお金に困るようなことはなかったそうですよ。
そうそう、ある時はお城の中のお姫様のもとにおりました。
お姫様の願いはこうでした。
「鏡よ鏡。下々の者たちは毎日食べるものもないのですって。かわいそうね。彼らの願いが叶うといいわね」
白くふくよかな手が、私を握っておりました。
その年のうちに、革命が起きました。下々の者……お姫様がそう言った者たちがお城の中に武器を手になだれ込み、小さなお姫様は処刑されました。
まばゆいシャンデリアや豪華な絨毯に彩られた部屋に、レジスタンスの少年が胸から赤い血を流し、浅い息をついて倒れているのを私は見つけました。
少年の願いはこうでした。
「お母さん……」
私は少年に、彼の帰りを待つみすぼらしい中年女の姿を見せてやりました。少年は、ぽろりと涙を流して死んでゆきました。
こんなふうにいくつもの願いを叶えてきた私ですが、今目の前にいる男の願いは、なかなかに豪快なものでした。
「願いを聞き届けてくれる鏡だ? 願いなんてねえよ。何をやってもうまくいかねえ。鏡に願いを叶えてもらったところで、嬉しくもねえ。こんな世の中、地球ごと無くなっちまえばいいんだよ」
いくつもの願いを聞いてきましたが、地球が消えてしまえばいいなどという願いに行き当たったのははじめてのことでございます。
――チェック。
次の一手で神々の遊戯は終りを迎えます。しかも、その最後の一手を打つのは、この私なのです。
笑いたいと思ったのは、生まれて初めてだったかもしれません。まあ、私が生まれたものだとするのならですが。
『その願い……聞き届けましょう』
さあ、最後の一手!
その時です。
私は何者かによって捕獲され、暗い箱の中に、閉じ込められてしまいました。
その箱は、わたしの魔力をも閉じ込めてしまうような、力を持っているようです。
「魔鏡の駒捕獲。危ないところだった」
箱の外側から、何者かの声が聞こえます。私を捕獲できるものなど、この世界にそうはいません。
『お前は誰です?』
「ああ、天使の駒だよ。この世界を破壊しようとする魔道具の駒を回収して回ってたんだ。あんた、なかなかいいところまでいったみたいだけど、俺が少し前から目をつけてたのさ」
ああ、なんということでしょう。敵の天使の駒に捕獲されてしまうとは。
「さあ、あんたはもう俺たちのなかまだ。少し休んだら、今まであんたが仕えていた神が支配する地球へ、行ってもらうことになるぞ」
『ああ、では私はまだ人々の願いをかなえることができるのですね?』
それも楽しいかもしれません。
私は喜んで、別の世界へと旅立っていったのでした。
<了>
 





