天使のおやつ
穂香はその扉の前に立って、何度も取っ手に手を伸ばしては引っ込めるという動作を繰り返していた。
「こんにちは。なにかご用ですか?」
突然かけられた声に飛び上がり、後ろを振り返ると、優しげな顔立ちの男が立っている。
「どうぞ、お入り下さい」
店員と思われる男に促されて入った先は、カウンターが一つあるだけの、二坪ほどの小さな空間だった。店員は、穂香をカウンター前の椅子に座らせると、自分自身はカウンターの中へと入っていく。
「いらっしゃいませ」
カウンターを挟んで、男は軽く一礼した。
「天使の質屋へようこそ。ご利用ははじめてでいらっしゃいますか?」
「はい、知り合いからこの質屋さんのことを聞いたんです。気持ちを預かってくれる質屋さんがあるって……」
「なるほど、そうでしたか。ではどのような気持ちをお預けになりたいのでしょう? 実は、お引き受けできない気持ちもあるんです」
穂香はうつむき、そっと小さな声で「悲しみ」と告げた。
「ああ、それはよかった」
と、店員は笑顔になった。
「それならお引き受けすることが出来ますよ。悲しみは、天使の受け持ちですから。そうですね、憎しみや妬みですと、悪魔の質屋になるんです」
そう言いながら、男は後ろ棚から透明な丸い玉を取り出す。それは少し大きめのスノードームのような形をしていた。
棚には同じものがいくつも並んでいて、ほとんどが透明なものなのだが、色のついているものもある。
「さあ、この珠に手を添えて、あなたの悲しみについて、私に話して下さい」
穂香は言われたとおりに手を置くと、大きく深呼吸をした。それから少しずつ、自分の悲しみを語りだす。
するとどうだろう。話しはじめた時は悲しみでいっぱいだった心のなかが、次第にぼんやりとしていく。
それと同時に、透明だった珠は、ほの蒼い靄で満たされていった。
気持ちを預かってくれる期限は三ヶ月。返してほしい場合は、三ヶ月以内に利子を付けて借りたお金を質屋に持参する。
あの悲しみを預けたときは、預かってもらえるならば、金などいらないとさえ思っていた。苦しくて苦しくて、あんな悲しみなど、もう二度と味わいたくないと思っていた。
なのに今、穂香はまたあの質屋のカウンターの前に座っていた。
悲しみを質に入れてからというもの、亡くしてしまったあの人を思い出しても、突き刺されるような胸の痛みはなくなった。涙も流れない。嗚咽ももれない。
湧き上がるのは、懐かしさや愛おしさだけ。
それを望んだはずなのに、しばらくすると穂香は、自分の中の欠けてしまったものが、とても大切なものだったのではないかという気がしてきて、そうするともう、居ても立ってもいられなくなってしまった。
「悲しみを、受け取りにいらしたのですね」
店には、悲しみを預けた時と同じ店員がいた。そして穂香の顔を見ると、後ろの棚からうっすらと蒼い靄の詰まった珠を選び、カウンターの上に置く。
「さあ、ここに手をおいて、そして目をつぶって、帰っておいでと心のなかで語りけかて下さい。そうすれば悲しみは戻ってきますよ」
男にそう言われ、穂香は悲しみの詰まった珠に、そっと手を載せた。
――帰ってきて!
祈るように語りかけると、ぞくぞくとするような感覚が手のひらから腕を通り、体の隅々にまで行き渡っていく。胸の奥に鋭い痛みを覚えて、ゆっくりと瞼を開いた。
涙がつうっと流れ落ちていく。
「戻ってきたのね。わたしの悲しみ……」
穂香はぎゅっと自分自身の体を抱きしめた。
「利子はお返しします」
目の前のトレーには利子分のお金が載せられていた。
驚いた穂香は店員に「なぜ?」と尋ねた。
「実は少しだけ味見をしてしまったのです。純粋で深い、とても美味しい悲しみでしたよ」
そう言って、店員は笑った。
  
――その後、穂香は何度かあの質屋を探したのだけれど、もう二度とたどり着くことはできなかった。
文字制限があったので、こんなお話になりました。
書き直すなら、穂香がなくした悲しみを取り戻したいと思うにいたるエピソードなどを入れたほうが良いかなあと思います。
でもまあ、とりあえず習作ということでそのまま載せました。
 





