ゲスい男
むん、とした暖かい空気。少しずつしか進まない人の流れ。聞き取りづらいアナウンス。
ドンッ!
お腹の底に響くような音に、空を見上げた。堤防下の会場からはどよめきがあがる。
思わず足を止めると、背中に軽い衝撃があって、私は思わずよろけた。
「あ、すいません。ほら、何やってんだよ。お前も謝れって」
背後から声が聞こえて振り返ると、制服姿のカップルが立っていた。彼氏のほうが彼女の頭を押さえつけながら謝ってる。ぶつかってきた彼女も(私の背中にぶつけたのだろうか)鼻の頭を押さえながら「ごめんなさい」と謝ってきた。
「ううん、私の方も、立ち止まっちゃって、ごめんね」
カップルは何度も頭を下げながら、立ち止まった私を追い越していく。
カップルで花火大会か……。
うらやましい。
でも、私にだって彼氏はいるのだ。
まだ別れてはいないから、いる、で間違いはない。
「俺、火薬の匂いって苦手なんだよね」
花火大会への誘いを、そんな一言で断られてしまうような関係だけど。
野球なんて全然興味がなかったのに、彼に近づきたくて、野球のサークルに入った。
告白したら
「彼女いることは、友達には内緒にしたいんだけど、それでもよかったら」
って言われた。
彼はモテるから、彼女がいるなんて、周りに知られたら大変なのよね。なんて自分を納得させて、私はその条件を飲んだ。
デートするのは大抵お互いの家。あとはたまに映画を見に行くくらい。外を歩くときは、手すら繋いだことはない。
だからなんとなくわかってはいたのだ。
私はきっと、彼女なんかじゃない。
それなのに、大学を卒業して就職しても、まだ彼とは繋がっていた。
「結婚する気ないから」
友だちの結婚式に出た話をしたら、そんなふうに言われてしまった。でも、付き合ってるってことは嫌われてはいないんだろうし、今その気はなくても、いつかは白いドレスを着る日も来るかもしれないなんて、淡い期待をしていた。
心の何処かで「もう無理だ」って思いながら。
だから、はじめて勇気を出して、自分から彼を誘った。
これは賭けだ。
私の誘いに乗らなかったら……彼のことは諦める。
「ねえ、これ行ってみたいんだけど」
花火大会のチラシが、新聞の折り込みに入っていた。
「へえ、行けば?」
「あなたと行きたいんだけどな」
「なんでだよ」
それが、彼の答えだった。
私の中で、今までなんとか支えていた気持ちが、がらがらと崩れていった。
それなのに私はその場で彼に別れを切り出すことができなかった。もしかしたら「やっぱり行こうって」言ってくれるんじゃないかなんて、馬鹿な希望を持って。
そうして花火大会当日。私は一人で人混みの中にいる。
さっきのカップルみたいに、手を繋いで花火を見たかった。
髪の毛をくしゃって、されてみたかった。
海にもショッピングにも行ってみたかった。
きれいなものをたくさん一緒に見てみたかった。
河原の花火大会の会場の隅に立ち、空を眺める。
さっきまで上がっていた華やかなスターマインが終わり、ひゅぅぅぅぅぅぅっと、火の玉が空へと登っていく。
お腹のそこから突き上げられるような衝撃と、音。それと同時に空がぱあっと明るくなった。
私は手にしていたスマートフォンを持ち上げて、メールを起動させた。
彼からのメールはない。私は、下書きメールを呼び出す。
これを送れば、もう、おしまい。
彼とはもう二度と会わない。
私は震える指先で、送信のボタンをタップした。
また花火が上がったのだろう。
ひゅぅぅぅぅぅぅぅ。という音がする。空を仰ぐ。喉の奥には涙の味がした。
自分がしでかしてしまった事の大きさに、心臓がどきんどきんと脈打っていた。
どんっ! という低い音。光の花びらがふわあっと広がって、キラキラと輝きながらしだれて降ってくる。
しばらく呆けたように花火を見ていたら、手の中でスマフォが震えた。
私は、受信されたメールを、開くこともせずに削除した。そうしてはじめて、ふっと笑いが溢れたのだった。





