そして空を見上げた
私の左手の中には小さなお守りがある。
右手をそれに重ねて、きゅっと握りしめた。
悲しいこととか、辛いこととか、困ったことにぶつかると、私はポケットの中の小さなお守りを握りしめる。
そんな癖が、この数ヶ月の間に出来てしまっていた。
私は他人と話すのが苦手だった。だから誰かに注目されるのも苦手で、話しかけられないように、自分の周囲に透明なバリヤーを張り巡らせていた。授業中も先生の視線を避けて小さくなる。休み時間はたいてい本を読んでいる。そうすると、あまり声をかけられないで済むからだ。
自分でしていることなのに、それでもときどき、寂しいと思うときがあった。自分のことが嫌になるときだってあった。
たとえば体育の授業で、誰かと一緒に組まなくてはならないのに、ひとりだけいつまでも相手が決まらないときは、惨めな気分になる。授業を放り投げてどこかに逃げたくなるけど、臆病な自分は、そんなことも出来やしないのだった。
その頃、私には気になる先輩がいた。その先輩を見かけると、目が追ってしまうのだ。
その人は、いつも友達の輪の中心にいて、楽しそうに笑っていた。背が小さくてかわいいからと、男子なのに、女子からもちゃん付けで呼ばれていた。頭にリボンを結ばれているときもあった。男子からも「かわいいなー」なんて、頭を撫でられたりしていた。
きっと私だったら、いたたまれないと思う。バカにされてるんじゃないかと思う。なのにあの一つ年上の先輩は、いつもにこにこと笑顔でいるのだった。
変な人。
その先輩を観察することが、密やかな楽しみとなっていった。
私の中で、先輩が特別に変わったのは、校内陸上競技大会が行われたときだ。
先輩は、百メートル走と、四百メートルリレーの選手に選ばれていて、私ははじめて彼の走る姿を見た。
位置について!
ようい!
スターターピストルの音が響いて、走り出した先輩に目が釘付けになった。
まっすぐ前を見る目が、風で後ろに流れる髪の毛が、大きく振り上げた手が、そして地面を蹴る足が、先輩の全てが、周囲の景色から浮き上がって見えた。
世界が止まって見えた。
多分あの時、私は生まれて初めての恋に落ちたのだ。
私はその日から、今まで以上に先輩のことばかり考えてしまうのだった。目が追いかけてしまうのだった。告白する勇気もないくせに。
密やかな楽しみが、密やかな苦しみに変わっていった。
手の中にあるお守りを指先で転がした。
このお守りは、私の勇気の証だ。
私の名前すら知らないであろう先輩に、一度だけ……そう、一度だけ声をかけた。
それは卒業式の日で、たまたま友だちから離れて一人でいる先輩を見かけたのだ。
消え入りそうな声で話しかけた私の目の前に「はい」と、先輩の握りこぶしが差し出された。
後にも先にも、先輩と言葉をかわしたのは、そのときだけ。死んでしまいたくなるような気恥ずかしさの末に手に入れたお守りは、今まで私の大切な宝物だった。
汗ばむような初夏の日差しの中、私は広々とした河川敷の公園のベンチで、対岸の堤防の上を歩く高校生の群れを眺める。
集団の中から、私の目はいつでも正しく先輩を見つけ出す。先輩は卒業してから、ずいぶんと身長が伸びたみたいだった。もう、可愛らしいなんて言う言葉は似合わないかもしれない。
先輩の隣にはこのところ、いつも同じ女の子が並んで歩いている。
私は、手の中のお守りをきつく握る。
先輩が彼女に向かって少し体を傾けながら何か話しかけると、隣の女の子は手で口を覆って、楽しげに笑った。
私の視線の先を通り過ぎ、二人の背中が遠くなり、見えなくなる。
「バイバイ」
そう、つぶやいて立ち上がる。
そして、お守りを握りしめたまま大きく振りかぶり、力いっぱい腕を振り下ろした。
私の手の中から放たれた、鈍い金色の放物線は、キラッと光りながら、青い空に吸い込まれていった。





