1.青年はプロの犬だった
家計簿が飛んできた。ソファーで寝転がる俺の近くに落下する。
言われた通りに中を確認してみた。すれすれ黒字。このままだと数日後の昼飯代さえ危うい。
「赤字じゃないのか。なら、今日くらいは昼寝の秋してられるな」
「もー、起きてくださいレンさん! 朝十時から寝るってダメ人間じゃないですかっ!」
俺を優しくゆさぶる少女の名はアリシア・プレリュード。ここ、ナイトフィールドの街で二人で便利屋をやっている。
長いふわふわの金髪と青い瞳。ひざ下まである白いジャンパースカート。特に印象的なのは、髪飾りの要領で結われた赤いリボン。
ちなみに便利屋とは字の通り。草むしりから化物退治まで、依頼があればなんでも受ける。もちろん法律は守りながら。
「まあ大丈夫だって。のんびりしてれば、そのうち面白そうな依頼が来るさ」
「だといいですけど……うちのお店、看板も店名もないんですもん。知名度低下中です」
「忙しくなったら困るからな。なるべくまったり過ごしてたいし」
「レンさんの考え方は好きですけど……ううう、もしホームレスになったらどうすれば」
なにやら悩んでいる様子のアリシア。十六歳なのにしっかりしてるね。
しかし考えても始まらない。のどが乾いたので起き上がり、キッチンに行き蛇口をひねる。
「ん?」
おかしい。水が出ない。水道点検の日だっけ。
「料金未納で九時から止められてますよ」
「まじで!? うちそんなに貧乏だったのか!」
「私さんざん言ってましたよ!? だからこうして困ってるんです!」
予想より一大事だった。教えてくれなかったら深みにはまっていた。
さて、ふざけるのはここまでだ。俺だって自分なりに生活設計を組み立てているのだ。
「……よし、分かったよ。やることやるか」
「わ、やる気になったみたいですね。応援してます。レンさんの実力は確かですから」
「ふっ、まあな」
期待に満ちたアリシアの眼差し。せっかくなので便利屋の心構えを伝えることにした。
「いいか? 便利屋たるもの、依頼人のことを第一に考えるんだ。目先の金なんかに惑わされちゃいけない」
「な、なるほど。プロ意識というわけですね」
「ああ。金に負けて、情けないことをやったらだめだ。人生、どれだけまっすぐ立てるかが大事だからな」
「はいっ! 私、これからも頑張ります!」
目をきらきらさせて返事をするアリシア。こんなに扱いやすい子もそうそういないと感じた。
ちらっと壁の時計を見る。十時十分。そろそろあいつとの約束の時間か。
合わせたように、事務所の扉が勢いよく開け放たれた。ひんやりした秋の風が吹き込んで来る。
「ふはははは! 時間通りに来てみたぞ。わたしの時計は狂わない!」
「キールか。ようこそいらっしゃいました」
出入口で無意味に高笑いをするのは、黒いレザージャケット姿の少女。長い黒髪もあってか暗殺者を連想させる。
こいつも便利屋で、昔から付き合いがある。つっても俺よりずっと儲かってるみたいだけど。
「いらっしゃいませキールさん。紅茶でいいですか?」
「や、今日は大丈夫だ。頼まれ物を届けに来ただけなのでな」
「頼まれ物……?」
「ふふ、これで助けられるなら安いものだ」
不思議そうにするアリシアの前で茶封筒を取り出すキール。
中から出てきたのは札束だった。さすが金持ち。おおらかさが違う。
「っ! ど、どうしたんですかこんな大金!」
「ほんの千七百ポンド(約三十万円)だ。生活が苦しい、金がほしいとレンから言われたのでな」
「レンさん!? 私に内緒でなんてことを!」
「大丈夫あとできちんと返すから」
お叱りが飛んでくる。ごめんなさい誘惑に負けました。だらだら生活やりすぎました。
しかし遠慮するという選択肢はない。ここで受け取らねば、いずれ電気も止められてしまう。
「ありがとう。キールは命の恩人です。人の絆に感謝を込めて」
「待つのだレンよ」
ぷいっと茶封筒が引っ込められた。
「お金とは貴重なものだ。利子はいらないが、レンの覚悟が見てみたい」
「と、申しますと」
「どうだろう。アリシアの前で、わたしにひざまづいて頼めるか?」
「なんだとう……」
まさかの条件を提示してきたキール。がっちがちに固い床で正座をしろとおっしゃるのか。
やれやれ、ずいぶんとなめられたもんだ。金と誇り、どっちを掴むべきかなんて決まってる。
「なあキール・キャンドルナイト」
「む?」
「お金くださいお願いします何でもやりますから是非おめぐみを」
「レンさんー!?」
速やか土下座。勘違いしてはいけない。アリシアに生活の心配をさせたくないだけだ。
「ふむ、なるほど。ついでに犬の物真似でもしてもらおうかな」
「わんわん。くぅーん」
「おすわり! ふせ! その場で四回転!」
「わふっ」
「れ、レンさんが……レンさんが壊れていく」
絶望な表情のアリシア。だが俺は折れない。便利屋には精神的な強さも必要なのだ。
キールは終始楽しそうだった。どうやら満足してもらえたらしい。茶封筒が差し出された。
「よしっ約束だ。これからは、のんびりもほどほどにするのだぞ」
「すまないな。近いうちに必ず返すよ」
「ふふ、待っているぞ。また会おうではないか」
「ああ。気を付けてな」
颯爽と去っていくキール。本当に助かった。繰り返すのだけは止めよう。
ふと振り向けば、複雑そうな顔で俺を見つめるアリシア。なるほど言いたいことは分かった。
「そんなに尊敬されると照れちまうな」
「してませんよ!? あんな恥ずかしいこと……さっきの話に感動した私がばかでした」
「まあ、時には金も大事だしな。俺の犬真似うまかっただろ?」
「……他の人には見せられません」
心底がっかりしながら言われた。でも無問題だ。基本アリシアはすぐに機嫌を治してくれる。
ここまでいろいろあったけど、アリシアが側で微笑んでくれるから、俺もどうにか頑張れている。
―――――
さっきのレンさんには驚きました。まるで本物の犬そのもの。しばらく夢に出てきそうです。
(あれって、私のためにやってくれたのかな)
でも幻滅はしません。レンさんのあたたかさは知っていますから。
今は街を歩いています。人口は約四百万人なので、時間帯によっては外もにぎやかです。
いろいろありましたけど、イギリスの古き良き景観が残る街並み、私は気に入っています。
(……?)
昼食のお店を探す途中、少し離れた位置の橋の上に、十歳くらいの女の子が立っていました。
遠目からでも分かる、落ち込んだ様子。涙を袖でぬぐっているようにも見えます。
「アリシア」
「はいっ」
私を呼ぶ優しい声。返事の直後、レンさんは走り出していました。後を追いかけます。
だから私は、嫌いになれません。どんなに格好悪い姿を見せられても、本当のレンさんはこうして、
「どうしたんだ? こんな所で泣いてるなんて」
「ぐすっ……友達とけんかして、でもひとりだと謝れなくて……」
「そっか。じゃあ、俺と一緒なら仲直りできるか? 友達は大切だもんな」
見ず知らずの誰かに、無条件で手を差しのべられる人だからです。
私も助けられました。レンさんが側にいてくれたから、私は私を失わないで済みました。
「うん、ありがとう……知らないおじさん」
「おじさんじゃないよお兄さんだよ。レン・シャドームーンだよ」
お昼ご飯は、もうちょっと遅くなりそうです。