泣いたフリをして息をするように嘘をつくのはやめて欲しい。
連載版を始めました。詳しくは後書きにて。
「婚約を解消してほしい」
その言葉を聞いた瞬間、エレノア・フィルベルトは、自分が何を言われたのか理解できなかった。
向かいの長椅子に座っているのは、数年間にわたって婚約者として付き合ってきたアーヴィン・ローデルである。二人が婚約したのはエレノアが十六歳の頃で、伯爵家同士の縁談ではあったものの、幸いにも関係は良好だった。
最初から燃え上がるような恋をしていたわけではない。それでも何度も顔を合わせ、手紙を交わし、互いの誕生日を祝い、一緒に過ごす時間を重ねるうちに、エレノアは彼との結婚を楽しみにするようになっていた。アーヴィンも同じだと思っていた。
結婚式の日取りについても、すでに両家で具体的な話し合いが始まっている。エレノアのドレスは仮縫いまで終わり、結婚後に二人で暮らす予定だったローデル家の別邸では改装まで進められていた。つい先日には、庭にエレノアの好きな白い薔薇を植えようとアーヴィンが提案してくれたばかりだった。
だからこそ、突然告げられた言葉が信じられなかった。
「……どうして?」
ようやく口から出たのは、それだけだった。
アーヴィンは苦しそうに目を伏せた。
「君を嫌いになったわけじゃないんだ。そこだけは誤解しないでほしい」
「じゃあ、どうして婚約を解消するの?」
「ずっと考えていたんだ。僕たちはこのまま結婚して、本当に幸せになれるのだろうかって」
「私は、なれると思っていたわ」
「ああ。僕もそう思っていた。少なくとも、少し前までは」
アーヴィンは膝の上で両手を組み、しばらく黙り込んだ。その表情はひどく沈痛で、婚約解消を告げられたエレノアよりも、告げた本人の方が傷ついているようにさえ見える。
「僕たちは長く一緒にいた。だからこそ、いつの間にか情だけで結ばれていたんじゃないかと思うようになったんだ。周囲も当然のように僕たちが結婚すると思っているし、僕自身もそう思い込んでいた。でも、それが本当に君の幸せなのか、僕の幸せなのか、分からなくなった」
「それで、別々の道を歩いた方が幸せになれると?」
「ああ」
アーヴィンは静かに頷いた。
「エレノア。本当にすまない。君には何の不満もないんだ。むしろ、君は僕にはもったいないくらいの婚約者だった。だからこそ、中途半端な気持ちのまま君と結婚することはできない」
そう言って、アーヴィンは目元を押さえた。僅かに俯いた彼の瞳には涙が浮かんでいるように見えた。
「できれば争いたくないんだ」
「……争う?」
「家同士を巻き込んで、どちらが悪かったとか、誰に責任があるとか、そんなことを言い合いたくない。長い間、一緒にいたじゃないか。最後くらい、円満に別れたいんだ」
声まで少し震えていた。
「僕は君のことを悪く言うつもりはない。誰かに理由を聞かれても、君に問題があったなんて絶対に言わない。君には幸せになってほしい。それだけは本心なんだ」
そこまで言われてしまえば、エレノアも強く拒絶することはできなかった。
もちろん悲しい。数年間、当然のように思い描いていた未来を突然失ったのだから、傷つかないはずがない。それでも、人の心を無理やり繋ぎ止めることなどできない。ましてアーヴィンは、自分を嫌いになったわけではないと言っている。ただ二人の将来を考えた結果、別々の道を歩く方が互いのためになると考えたのだ。
「……分かったわ」
エレノアがそう答えると、アーヴィンは驚いたように顔を上げた。
「婚約解消を受け入れます」
「エレノア……!」
「でも、今すぐ何もなかったように笑うのは無理よ。少し時間をちょうだい」
「もちろんだ。ありがとう。本当に、ありがとう」
アーヴィンは安堵したように息を吐き、再び目元を押さえた。そんな彼を見ながら、エレノアも涙を堪えた。
数年間の関係が、こうして終わった。それでも最後まで彼は優しい人だったのだと、その時のエレノアは本気で思っていた。
婚約解消の話は、間もなく社交界にも広まった。
結婚間近だった伯爵家同士の婚約が突然なくなったのだから、当然と言えば当然だった。最初のうちは何か大きな問題でもあったのではないかと噂されたものの、アーヴィンは誰に尋ねられても同じ説明をしていた。
二人で何度も話し合った末の決断だった。どちらか一方に問題があったわけではない。これから別々の人生を歩む方が互いのためになると考え、二人で納得して婚約を解消した。
そして、必ず最後にはこう付け加えた。
「エレノアには幸せになってほしいんです」
あまりにも殊勝な態度だったため、アーヴィンを責める者はほとんどいなかった。
「ローデル様もお辛かったのでしょうね」
「何年も婚約していたのですもの。別れを決断するのも大変だったでしょう」
「別れた相手を悪く言わないなんて、誠実な方だわ」
そんな声を、エレノア自身も何度か耳にした。
少しだけ違和感はあった。何度も話し合った覚えなどない。婚約解消について話したのは、あの日が最初で最後だった。
それでも、わざわざ訂正するほどのことではないと思った。アーヴィンなりに余計な詮索から自分を守ろうとしてくれているのだろう、と好意的に解釈していたからである。
だからエレノアも、尋ねられれば簡単に答えるだけに留めていた。
「ええ。婚約は解消しました。お互いに納得した上でのことです」
それ以上は何も言わなかった。アーヴィンを責めることもしなかった。
そうして一か月ほどが過ぎた頃だった。
「お嬢様。少々、お耳に入れておきたいことがございます」
ある日の午後、侍女からそう告げられた。
「何?」
「アーヴィン様についてです」
その名前を聞いても、以前ほど胸は痛まなくなっていた。時間というものは偉大らしい。
「アーヴィンがどうかしたの?」
「最近、ミリア・カートン男爵令嬢と頻繁にお会いになっているそうです」
「そう」
エレノアはそれだけ答えた。
婚約はもう解消している。アーヴィンが誰と付き合おうと自由だ。少し早いとは思ったものの、それを責める権利は自分にはない。
しかし、侍女は話を終えなかった。
「それが……最近始まったことではないようなのです」
エレノアの手が止まった。
「どういうこと?」
「お二人は、少なくとも半年前から頻繁に会っていたようです」
「半年前?」
それはまだ、エレノアとアーヴィンが婚約していた時期である。それどころか、結婚式について具体的な話し合いを始めていた頃だった。
最初は何かの間違いだと思った。アーヴィンにも女性の知人くらいいるだろうし、たまたま同じ場所にいただけかもしれない。
だが、調べていくうちに、その希望は簡単に崩れた。
アーヴィンは半年前からミリアに何度も贈り物をしていた。宝石や花だけではない。彼女が好きだという劇団の公演へ二人で出掛け、郊外の料理店で食事をし、知人が所有する別荘で開かれた小規模な集まりにも揃って参加していた。
さらに、二人の関係を知っていた者もいた。アーヴィンの友人の一人が、申し訳なさそうに証言してくれたのである。
「ローデル様は以前から、カートン男爵令嬢と将来について話していたそうです」
父の執務室で報告を聞きながら、エレノアは何も言えなかった。
「……将来?」
「はい。いつか一緒になりたい、と」
目の前に並べられた記録を見つめる。
贈り物を購入した店の記録。劇場の座席。二人で利用した料理店。何人もの目撃証言。そして、ミリアに宛てた手紙の存在まで明らかになった。
その日付の一つを見て、エレノアは思わず笑ってしまった。
その日は、アーヴィンと一緒に結婚式の招待客について話し合った翌日だった。自分とは結婚式の相談をしながら、その翌日には別の女性に会いに行っていたのである。
「……なるほど」
ようやく、あの日の言葉の意味が分かった。
君を嫌いになったわけじゃない。
別々の道を歩いた方が幸せになれる。
争いたくない。
最後くらい、円満に別れたい。
そして、涙を浮かべながら何度も目元を押さえていた姿。
「あの涙も、全部嘘だったのね」
不思議なことに、怒りよりも先に呆れが込み上げてきた。
エレノアは翌日、婚約解消について改めて両家で話し合いたいとローデル家へ伝えた。すると、その日の夕方にはアーヴィン本人がフィルベルト伯爵邸へやって来た。
「エレノア!」
応接室へ通された彼は、随分と慌てていた。
「話を聞いてほしい。誤解なんだ」
「何が?」
「ミリアのことだ」
まだエレノアは名前すら出していない。
「そう。ミリア様について、何を誤解しているのかしら?」
「それは……」
アーヴィンは言葉に詰まった。
「半年ほど前から贈り物をしていたこと? 二人で劇を見に行ったこと? 郊外まで出掛けたこと? それとも、私との婚約中から将来について話していたこと?」
「違うんだ!」
「どれが?」
「……騙すつもりはなかった」
質問の答えにはなっていなかった。
アーヴィンはまた悲しそうな表情を浮かべた。
「確かに、ミリアとは以前から親しくしていた。でも、君を傷つけたくなかったんだ。だから言えなかった」
「私を傷つけたくなかった?」
「ああ。君に本当のことを話せば傷つくだろう? 僕だって悩んだんだ」
そして、アーヴィンはまた目元を押さえた。
その仕草を見た瞬間、エレノアは急に冷静になった。以前は胸を締め付けられた仕草だった。けれど、一度その裏側を知ってしまえば、もう同じようには見えない。
「アーヴィン」
「僕は本当に、円満に終わらせたかっただけなんだ。君と争いたかったわけじゃない。僕たちには楽しい思い出だってたくさんあっただろう?」
「ええ」
「だったら――」
「泣いたフリをして嘘をつくのはやめて欲しいわ」
アーヴィンの動きが止まった。目元に添えられていた手が、ゆっくりと下がる。
「……泣いたフリ?」
「違うの?」
「僕は本当に――」
「では、泣いているかどうかはどちらでもいいわ。少なくとも、嘘をついたことは事実でしょう?」
エレノアは続けて話す。
「あなたは私に、別に好きな女性ができたとは言わなかった。私と婚約している間から、その方と関係を持っていたことも隠した。それどころか、私たちは何度も話し合って婚約解消を決めたと周囲に説明していたわね」
「それは、君の評判を守るためで……」
「私の評判を?」
「そうだ」
「随分と親切なのね」
エレノアは小さく笑った。
「でも、もう必要ないわ」
「どういう意味だ?」
「婚約を解消するという結論自体は変えません。私も今さらあなたと結婚したいとは思わないもの」
アーヴィンの表情に、一瞬だけ安堵が浮かんだ。しかし、それはすぐに消えることになる。
「ただし、両者の合意による円満な婚約解消だったという扱いには同意しません」
「……何?」
「あなたの不貞を理由とした、正式な婚約破棄の手続きを取ります」
アーヴィンの顔から血の気が引いた。
その反応を見て、エレノアは初めて違和感を覚えた。浮気が明らかになったのだから、不貞を理由に婚約破棄へ切り替えるのは自然な話である。それなのに、アーヴィンの狼狽はあまりにも大きかった。
「待ってくれ。それは必要ないだろう」
「どうして?」
「もう婚約は解消しているんだ。わざわざ話を大きくする必要なんてない」
「でも、理由が違ったことが分かったのよ?」
「結果は同じじゃないか!」
初めてアーヴィンが声を荒らげた。
エレノアは黙って彼を見る。
アーヴィンは我に返ったように口を閉じると、すぐにいつもの悲しそうな表情へ戻った。
「……すまない。声を荒らげるつもりはなかった。ただ、本当にこんな争い方をしたくないんだ」
「そう」
「お願いだ。最初に決めた通り、円満な婚約解消ということにしてくれ」
どうしてそこまで円満という言葉に拘るのだろう。
その答えが分かったのは、翌日のことだった。
両家が保管していた婚約時の契約書を確認した父が、エレノアを執務室へ呼んだのである。
「エレノア。これを見なさい」
父が示したのは、契約書の後半にある条項だった。そこには、婚約期間中に一方の不貞や重大な背信行為によって婚約が破棄された場合、有責側が相手へ慰謝料を支払うことが明記されていた。
しかも、その額は決して小さくない。
両家の婚約は数年間続いており、すでに結婚準備もかなり進んでいる。式場や衣装、新居の改装、家具の注文など、フィルベルト家側が負担していた費用も相当なものになっていた。
一方、双方の合意による婚約解消であれば、基本的に慰謝料は発生しない。
「……ああ」
そこまで読んだところで、エレノアはすべてを理解した。
どうしてアーヴィンがあれほど円満な別れに拘っていたのか。どうして浮気相手の存在を隠したのか。どうして周囲にまで、二人で何度も話し合った末の婚約解消だったと言い回っていたのか。そして、どうして涙まで浮かべて自分に婚約解消を受け入れさせようとしたのか。
「慰謝料を払いたくなかったのね」
思わず口から漏れた。
父も呆れたように息を吐いた。
「おそらくな」
それならば話は簡単だった。
エレノアは証拠をすべて揃えた。贈答品の購入記録、劇場や料理店での目撃証言、二人が将来について話していたことを知る者の証言。アーヴィンからミリアへ送られた手紙についても、存在を確認できたものは正式な証拠として提出された。
ここまで揃えば、ローデル伯爵家も庇いようがなかった。
両家の話し合いの席で、アーヴィンの父であるローデル伯爵は机に並べられた証拠を前に、長い間何も言わなかった。そして最後には、深々と頭を下げた。
「……息子の行為について、申し開きのしようもございません」
契約に従い、慰謝料が支払われることになった。
もっとも、金額を算出してみると、エレノア自身も少し驚いた。
婚約期間が長かったことに加え、結婚式まで半年を切っていた。すでに発生している費用の補償も含まれた結果、現金だけではローデル家にとって負担が大きすぎる額になったのである。
最終的には、王都近郊にある小さな屋敷一つ、その周囲の土地、さらに相当額の現金を合わせて支払うことで決着した。
書類を確認したエレノアは、思わず瞬きをした。
「……随分いただけるのね」
「契約通りだ」
父はそれだけ答えた。
エレノアとしても、それ以上言うことはなかった。何も奪ってはいない。法外な金額を吹っ掛けたわけでもない。ただ数年前に両家が合意し、アーヴィン本人も署名した契約に従っただけである。
すべての手続きが終わった日、アーヴィンは最後にエレノアへ声を掛けてきた。
「こんな争い方をしたくなかった」
やはり悲しそうな顔だった。
以前なら、その顔を見ただけで罪悪感を覚えていたのかもしれない。しかし今のエレノアには、もう何の効果もなかった。
「そうね。私もよ」
「だったら、どうして……」
「あなたが最初から正直に話してくれていたら、こんなことにはしなかったわ」
「僕は君を傷つけたくなかったんだ」
「私が傷つくかどうかを決めるのは、あなたではないでしょう?」
アーヴィンは何も言えなくなった。
「私は、あなたに他の好きな方ができたと最初から聞かされていたら、もちろん悲しんだと思う。でも、少なくともあなたが最後まで誠実だったとは勘違いしなかったわ」
「……円満に別れたいと言っていたじゃないか」
「ええ」
エレノアは笑顔で頷いた。
「だから私は怒鳴ってもいないし、あなたに復讐もしていないでしょう?」
「だが、この慰謝料は……」
「契約書に従って、正当にいただいただけよ」
にこやかにそう告げると、アーヴィンはとうとう黙り込んだ。
「それに、私はあなたの新しい恋を邪魔するつもりもないわ。ミリア様とどうぞお幸せに」
「エレノア……」
「さようなら、アーヴィン」
今度こそ、それが二人の最後の別れになった。
それからしばらくして、エレノアは慰謝料として受け取った王都近郊の屋敷を訪れた。
伯爵令嬢が一人で暮らすには十分すぎるほど立派な屋敷で、庭も広い。長らく最低限の手入れしかされていなかったらしいが、少し整えれば随分と居心地のよい場所になりそうだった。
「お嬢様。庭はどうなさいますか?」
同行していた侍女に尋ねられ、エレノアは少し考えた。
以前なら、白い薔薇と答えていただろう。アーヴィンと暮らすはずだった屋敷にも、白い薔薇を植える予定だった。
けれど、今はもう違う。
「好きなものを全部植えましょう」
「全部、でございますか?」
「ええ。薔薇もいいし、季節の花も欲しいわ。それから向こうには果樹を植えてもいいかもしれないわね」
これからは誰かの好みに合わせる必要もない。誰かとの結婚生活を想像しながら家具を選ぶ必要もない。
慰謝料として受け取った現金も十分にある。土地からは毎年収入も得られるため、当分の間、生活に困ることはないだろう。
婚約を失ったことそのものは、決して喜ばしいことではなかった。けれど、嘘をつく人と結婚する前に気付けたのなら、結果としては悪くなかったのかもしれない。
後になって聞いた話では、アーヴィンは今回の慰謝料の支払いによって、父親からかなり厳しく叱責されたらしい。ローデル家そのものが傾くほどではなかったものの、将来アーヴィンが自由に使えるはずだった財産の一部も、今回の支払いに充てられたという。
それを聞いても、エレノアは特に何も思わなかった。
彼が望んだ通り、二人は別々の道を歩き始めたのだから。
ただ、一つだけ皮肉なことがある。
アーヴィンは最後まで、円満な別れに拘っていた。浮気を正直に告白することもなく、慰謝料を支払うこともなく、自分の評判も傷つけず、エレノアから恨まれることもなく、綺麗に別れようとした。そのために悲しそうな顔を作り、涙まで浮かべて、「君には幸せになってほしい」と繰り返した。
結果として彼は、婚約を普通に破棄するよりも遥かに多くのものを失うことになった。
新しい屋敷の庭を歩きながら、エレノアはそんなことを思い出し、少しだけ笑った。
「本当に、最初から正直に話してくれればよかったのに」
そうすれば、ここまで高くつく別れにはならなかっただろう。
もっとも、今となってはエレノアには関係のない話だった。
数年間の婚約が終わった代償としては、随分と豪華な新生活である。
エレノアは庭を見渡しながら、満足そうに微笑んだ。
こうしてアーヴィンは、「円満な別れ」を演出しようとした結果、誰よりも高くつく別れ方をすることになったのだった。
別作品ですが連載を始めました! かなり気合いを入れて書いてます。(代表作にも設定しました)
『一度は私を捨てたくせに、今さら口説き直すおつもりですか?』
https://ncode.syosetu.com/n9992mo/




