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あなたには「ただの軽口」なのでしょうね

作者: 百鬼清風
掲載日:2026/05/13

 グレイ公爵家の舞踏会は、磨き上げられた床に燭台の灯りが映り込み、音楽と人の声が重なり合って、どこを見ても華やかな夜として仕上がっていた。

 私は伯爵家の娘エレナ・ヴァルツ。その中に立ちながら、白い手袋の内側で冷えたままの指先を持て余していた。

 視線を向ける必要はない。そう分かっているのに、どうしても目が行く先に、騎士団長であり婚約者でもある公爵令息アルベルト・グレイの姿があった。

 アルベルトは、彼の招いた数人の部下に囲まれ、肩の力を抜いた顔で話していた。戦場で部下を率いる時の硬さも、婚約者の前で見せる礼儀正しさもなく、男たちだけの輪の中で、彼はずいぶん気安い顔をしている。

 別に、それだけならよかった。

 婚約者が友人と笑うことに、口を挟むつもりはない。誰にでも息を抜く場所は必要で、エレナだって人前で見せる顔と、侍女の前でこぼす息は違う。

 けれど、その輪の中で自分の名が出た瞬間、手袋の内側の冷えが、すっと指の根元まで広がった。

「婚約者がさ、全然料理しないんだよね」

「あー、それはきついな」

「部屋に行っても、いつも散らかってるんだ」

「そうそう、絶対そういうタイプだわ」

「会うといつも機嫌が悪くて、息が詰まるってやつ」

「分かる、そういうタイプだよな」

「とにかく口うるさくて、毎日怒ってるんだろ」

 小さく笑いが重なる。

 会話は、どれも大声ではなかった。広間の端まで響くほどでもなく、周囲の令嬢たちが一斉に振り向くほどでもない。

 だからこそ、悪かった。

 あれは、場を壊すための侮辱ではない。本人に聞かせるための罵倒でもない。ただ、いない相手を酒のつまみのように扱い、そこにいる者だけで軽く消費する、ありふれた愚痴の形をしていた。

 そもそも、どれも貴族の娘である私を対象にするのは、おかしい話題だ。身分が下の部下達の話題に合わせて貴族の娘を馬鹿にしているのだ。本来なら、全て侍女に任せていてもおかしくはない。



 料理を、したことがないわけではない。

 公爵夫人に招かれた午後、焼き菓子を持参したこともある。アルベルトが訪れた日に、茶の支度を自分で手伝ったこともある。

 いつもの食事は、使用人が用意するので機会が少ないだけだ

 部屋だって、散らかってなどいない。

 むしろ侍女に、少しは本を机の上に出したまま休んでくださいと笑われるくらいだ。

 ただ、本好きなので、少々部屋にものは多い。

 機嫌が悪いと言われるほど、声を荒げた覚えもない。

 ただ、約束の時間に遅れたアルベルトへ、次からは先に知らせてほしいと伝えた。冬の夜に薄着で外へ出ようとした彼へ、外套を持つよう言った。書類を机に積んだまま食事を抜こうとした彼へ、食べてからにしてくださいと皿を前へ置いた。

 その程度のことが、あの輪の中では、どうやら口うるさい婚約者の話になるらしい。

 エレナは、そこで初めて息を吸うのを忘れていたことに気づいた。

 喉の奥が乾いている。胸は痛まない、涙も出ない。

 ただ、これまで少しずつ積み上げてきた何かが、今の笑いでぽろりと欠けた。その欠片は床に落ちても音を立てず、誰にも拾われないまま、靴音と音楽の下へ紛れていく。

 アルベルトの声が、はっきり聞き取れたわけではない。どの言葉を彼が言い、どの言葉を友人が言ったのか、全部を確かめることもできない。

 けれど、そんなことは重要ではなかった。止めなかった、たしなめなかった。笑いを止めて、私の名誉を守ろうとしなかった。

 その事実だけが、胸の内側で冷たく沈んでいく。エレナは、持っていた扇をそっと閉じた。音はしなかった。その小さな動きに気づく者もいない。

 アルベルトの輪では、もう別の話が始まっていた。誰かの馬がどうしたとか、王宮の廊下で誰が転びかけたとか、そんな話題へ、ごく自然に流れている。



 エレナのことは、もう終わった話だった。軽く笑い、少し盛り上がり、すぐ忘れられるもの。その程度の重さでしかなかった。

 ――なるほど。

 胸の奥にあった曖昧な違和が、そこで初めて形を持った。何かを誤解していたわけではない。今夜、突然ひどいことをされたわけでもない。今まで見ないふりをしていた小さなズレが、男たちの笑いの中で、逃げられないほどはっきり見えただけだった。

 楽団の音が変わる。次の曲のために広間の空気が動き、男女がゆるやかに舞踏の位置へ向かい始める。アルベルトがこちらを見た。

 先ほどの笑いを一切引きずらない顔で、彼は歩いてくる。足取りはまっすぐで、表情は穏やかで、いつもの婚約者として差し出すべき礼儀を、まるで何も欠けていないように持っている。

「エレナ」

 名前を呼ばれる。その声は、いつも通りだった。先ほど、あの輪の中で自分の名がどんな形で扱われたのかなど、少しも覚えていないような声だった。

「踊ろう」

 手が差し出される。白い手袋に包まれた大きな手。何度も取ってきた手。王宮の階段で転ばぬよう支えてくれた手であり、雨上がりの庭で濡れた枝を避けてくれた手でもある。その手を、今まで嫌だと思ったことはなかった。だからこそ、エレナはその手を見つめたまま、すぐには返事をしなかった。

 わずかな時間が空く。ほんの一拍、周囲から見れば、疲れた令嬢が呼吸を整えているだけに見えたはずだ。けれど私の中では、その一拍の間に、もう戻らないものが決まっていた。

「申し訳ありません」

 声は思ったよりも乱れなかった。

「少し、疲れてしまいましたので」

 アルベルトは、差し出した手を止める。驚いたようには見えない、困ったようにも見えない。ただ、ああそうか、という顔で軽く頷いた。

「そうか、無理はするな」

 それだけだった。手を引く。理由を尋ねない。何があったのかとも聞かない。顔色を見ようと一歩近づくこともない。私が疲れたと言えば、彼の中ではそれで話が終わりらしい。そのあっさりした引き方に、胸の奥で壊れた部分が、もう一度小さく崩れた。

 以前なら、優しい人だと思ったかもしれない。無理に踊らせないのだから、気遣ってくれているのだと、自分で自分に言い聞かせたかもしれない。けれど今は、その優しさの薄さが見えてしまう。

 踏み込まないのではない。踏み込むほど、こちらを見ていない。私は一礼し、広間の外へ向かって歩き出した。

 背後で音楽が始まる。新しい組がホールの中心へ出て、衣擦れの音が広がり、笑い声が柔らかな灯りの下でほどけていく。誰かがこちらを見る気配はあった。だが、それもすぐに消える。



 舞踏会は続いている。私が一人、広間を出ていったところで、何も止まらない。扉を抜けると、廊下の空気は広間より少しだけ冷たかった。壁に並んだ灯りは穏やかに揺れ、遠くから聞こえる音楽が、扉越しに薄くなって届く。

 足を進めるたび、靴音が自分のものだけになる。それが、不思議なくらい心地よかった。広間にいた時は、あれほど音に満ちていたのに、自分の中だけが空っぽのようだった。

 今は逆だ。廊下は静かで、けれど胸の中には、はっきりとしたものがある。怒りと呼ぶには熱が足りない、悲しみと呼ぶには涙が足りない。ただ、もう戻らないという感覚だけが、まっすぐ足元へ落ちている。



 テラスへ出ると、夜風がドレスの裾を揺らした。春とはいえ、夜はまだ冷える。欄干に手を置くと、石の冷たさが手袋越しに伝わってきた。さきほどまで指先にあった冷えとは、違うものだった。これは外から来る温度だ。触れたから冷たいだけで、離れれば戻るもの。それが分かるだけでも、少し呼吸がしやすかった。私は庭を見下ろした。花壇の輪郭は暗がりに溶け、噴水の水音だけが小さく聞こえる。

 ここまで来れば、もう広間の笑い声は届かない。けれど、さっきの言葉は耳に残っている。料理をしない、部屋が散らかっている、機嫌が悪い、口うるさい。どれもくだらない。

 くだらないのに、そのくだらなさの中で、自分が雑に扱われていたことだけが、ひどくはっきり残っていた。たとえば、もっと大きな悪意なら、怒れたかもしれない。裏切りと呼べるほどの出来事なら、泣けたかもしれない。

 だが、あれは違う。日々の端に置かれた小石のように、踏めば痛いが、誰も気にしないもの。そして、気にしないことこそが、一番こたえた。扉が開く音がした。私は振り向かなかった。

 足音で分かる。アルベルトだった。

「こんなところにいたのか」

 声は、やはりいつも通りだった。

「具合が悪いのか?」

「いいえ、大丈夫です」

 短く答える。それで十分だと思ったのか、アルベルトはすぐに次の言葉を続けた。

「なら戻ろう。まだ曲は残っている」

 当然のような言い方だった。何も起きていない前提で。先ほどの会話も、笑いも、私が広間を出たことも、全部たいしたことではないと思っている声だった。私は、そこでようやく振り向いた。

 アルベルトは近くに立っている。夜の薄い光の中でも、顔立ちはよく見えた。困ってはいない。怒ってもいない。ただ、婚約者が少し席を外したから迎えに来た、という程度の顔だった。

 その顔を見て、私ははっきり分かった。この人は、本当に何も分かっていない。分からないふりをしているのではない。分からないのだ。何が私の中で終わったのか、まるで想像していない。

「アルベルト様」

 名前を呼ぶ。自分でも驚くほど、声は軽かった。

「一つ、お聞きしてもよろしいですか」

「ああ」

 アルベルトはすぐに頷いた。身構える様子はない。問いの重さを考える前に、答える姿勢だけを作っている。

「先ほどのことですが」

 そこで、彼の眉がわずかに動いた。

「どのようなお話でしたの」

 沈黙が続く。長くはない。けれど、今夜初めて、アルベルトが言葉を選ぼうとした間だった。

「……何のことだ」

「皆様とお話ししていた時のことです」

 責める声音にはしなかった。泣き声にも、怒鳴り声にもならなかった。ただ、聞きたいことを聞く。それだけだった。

 アルベルトの視線が、ほんの一瞬だけ横へ逃げる。すぐ戻った。

「ああ、あれか」

 軽く息を吐く。

「冗談だ。婚約者を少々悪く言うのも、つき合いだろ」

 それだけだった。エレナは、ゆっくり瞬きをした。冗談、つき合い。そんな言葉で、彼は済ませた。言い直しはない。誰が言ったとも、何を言ったとも、なぜ止めなかったとも言わない。ただ、冗談。それで、終わると思っている。

 私は小さく息を吐いた。胸の中で何かが熱くなることはなかった。むしろ、最後の糸が音もなく切れるように、妙に軽くなった。

「そうですか」

 声は揺れなかった。

「では、理解いたしました」

「何がだ」

 アルベルトの声に、初めて少し硬さが混じる。鈍い。あまりにも鈍い。

「こちらの立場が、です」

 私は一歩だけ後ろへ下がった。欄干と自分の間にあった距離が変わり、アルベルトとの間に、今までなかった距離ができる。ほんの一歩、けれど、その一歩はダンスの歩幅より遥かに大きかった。

「あなたの好きな私は」

 言葉を区切る。アルベルトの目を見る。いつもなら、ここで少し笑って、やわらかく済ませた。相手を困らせない言い方を選び、こちらが呑み込んで、場を収めてきた。けれど今夜は、もうしない。

「もう、おりません」

 風が通り抜ける。アルベルトは何も言わなかった。言葉が見つからないのか、意味が分からないのか、それともまだ冗談の続きだと思っているのか。

 どれでもよかった。私は軽く頭を下げた。

「申し訳ありません」

 形だけの謝罪をする。私の心は、もうそこにない。

「今の私は、これ以上あなたに合わせることができませんので」

 アルベルトの唇が動いた。だが声にはならない。



 私は背を向けた。足は止まらない、振り返らない。扉を開けると、広間の光と音が一度に流れ込んできた。音楽はまだ続いている。人々はまだ笑っている。舞踏会は、何も知らない顔で華やかなままだった。



完。

よろしければ何点でも構いませんので評価いただけると嬉しいです。

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― 新着の感想 ―
あー!もやり。 白黒はつけられない。 キモチの整理がつかない。 決定的な行動もストレスだから受けたくはないが、 決別の為に、そんな行動を待つのも嫌だ。 もし反省されても許せない。 心を無にして接するに…
部下なのにタメ口?
これで婚約解消は難しいでしょうが、これが切っ掛けでこの先関係がチグハグとなり破棄の方向に向かうかもしれませんね。 会社で奥さんの悪口を冗談で話している人達に読ませたいですね。
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