シュレディンガーの少女
「『シュレディンガーの猫』、って知ってる?」
男は、目の前の少女に尋ねた。
「箱の中で猫が生きてるか死んでるかなんて、蓋を開けるまで決まらない。覗いた瞬間に生死は一つに固まる。」
震えて動けない少女の前で、男は煙草に火をつけた。ただ、指でそれを挟んだまま、吸おうともしない。
「…少しは、気が紛れたかな?」
男が煙草の火を軽く指で弾いた。火点がわずかに揺れ、薄暗い路地裏の奥を照らす。
その一瞬の光で、少女はようやく足元の“それ”に気付いた。
人影だ。倒れ伏したまま動かない。
少女の息が詰まる。
「奇妙だと思わないか?」
男は視線すら向けず、続けた。
「君がここに迷い込む前、“彼”は生きていた可能性もあるし、既に死んでいた可能性もある。どちらも、等しく。」
男はそこで初めて少女の方を見た。目の奥に、冷たくも静かな確信があった。
「そして……君が見た瞬間、この状態に“決まった”。」
少女は震えながらも、かすれた声を絞り出した。
「……あなたが、殺したんじゃないの?」
男は首を横に振った。その動きには言い訳めいた揺らぎが少しもない。
「僕がどう動いたかなんて、もう関係ない。今この瞬間、君が、僕を“犯人”に選んだんだよ。」
静寂が降りた。
少女の視界の端で、倒れた人影がただの影に見えたり、誰かの抜け殻に見えたり、曖昧なまま揺れていた。
男の声だけが、異様なほどはっきりと路地裏に反響していた。
「世界は驚くほど単純なんだ。」
少女は後ずさった。
「君が覗き込んだ箱の中身が、すべてだよ。」
冷たく、硬いコンクリートの感触が、手のひらにべたりと張り付く。
気づけば、地面にへたり込んでいた。心臓の鼓動だけが、自身の体内でやけに大きく鳴っている。遠くで水滴が落ちるような音がした。いや、心臓の音かもしれない。もう、分からない。
男は歩み寄らない。ただ、薄闇の中で静かに立っている。
「さて。」
低い声が落ち着き払って響く。
「不確かなのは“過去”だけじゃない。君の“これから”もだ。」
少女の肩がびくりと震えた。
「……どういう意味?」
「君自身の状態も、たった今揺らいでいる。
生きて帰る未来と、ここで途切れる未来。どちらも、まだ重ね合わさっている。」
まるで当たり前のことを説明するように、男は淡々と続ける。
「僕が何をするかじゃない。最終的には君が、どう見られるかで決まる。」
そのとき。
足元の死体がわずかに動いたように見えた。
少女は息を呑む。
目を凝らす。
次の瞬間にはただの冷たい影に戻っている。
「……今、」
少女は震える唇で言った。
「今、動いた……ように見えたのは……」
「それも君が見た結果の一つだよ。」
男は薄く笑った。
「この人が“完全に死んでいる”と、誰が決めた?」
少女は言葉を失う。
「数分前の、君だよ。」
男は火の消えかけた煙草を床に落とし、靴で押し消した。
赤い灯がつぶれ、少女の視界がわずかに暗くなる。
「真実は、選ばれた一つの結果にすぎない。」
男の表情は読めない。
「でも、残酷なのはそこじゃない。」
声に微細な冷気が宿る。
「“選んだ覚えがなくても”、選んだことになってしまう。」
「僕だって、そうだった。」
男は小さく笑った、ように感じた。
「気づいたときには、もう“ここ”にいた。」
少女の呼吸が荒くなった。
視界が揺れる。
「ねえ……ほんとに……あなたが殺したんじゃ……」
「違うよ。」
男はゆっくり首を横に振った。
「僕が殺したと言うなら、その結果を選んだのは、君だ。逆に、僕じゃないと言うなら、それも君だ。」
そして、まるで優しく諭すように言った。
「さあ、どう“観測”する?」
少女は息を呑む。
男は一歩も近づかない。
ただ、静かに、少女の答えを待っている。
そのとき。
足元の“死体”が、かすかな呼吸音を漏らした。
少女は悲鳴も出せずに凍りついた。
男だけが、微動だにせず言った。
「ほらね。世界はまだ、君次第だ。」




