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シュレディンガーの少女

作者: 紅葉 葵
掲載日:2026/02/01

「『シュレディンガーの猫』、って知ってる?」


男は、目の前の少女に尋ねた。


「箱の中で猫が生きてるか死んでるかなんて、蓋を開けるまで決まらない。覗いた瞬間に生死は一つに固まる。」


震えて動けない少女の前で、男は煙草に火をつけた。ただ、指でそれを挟んだまま、吸おうともしない。


「…少しは、気が紛れたかな?」


男が煙草の火を軽く指で弾いた。火点がわずかに揺れ、薄暗い路地裏の奥を照らす。

その一瞬の光で、少女はようやく足元の“それ”に気付いた。


人影だ。倒れ伏したまま動かない。


少女の息が詰まる。


「奇妙だと思わないか?」


男は視線すら向けず、続けた。


「君がここに迷い込む前、“彼”は生きていた可能性もあるし、既に死んでいた可能性もある。どちらも、等しく。」


男はそこで初めて少女の方を見た。目の奥に、冷たくも静かな確信があった。


「そして……君が見た瞬間、この状態に“決まった”。」


少女は震えながらも、かすれた声を絞り出した。


「……あなたが、殺したんじゃないの?」


男は首を横に振った。その動きには言い訳めいた揺らぎが少しもない。


「僕がどう動いたかなんて、もう関係ない。今この瞬間、君が、僕を“犯人”に選んだんだよ。」


静寂が降りた。


少女の視界の端で、倒れた人影がただの影に見えたり、誰かの抜け殻に見えたり、曖昧なまま揺れていた。


男の声だけが、異様なほどはっきりと路地裏に反響していた。


「世界は驚くほど単純なんだ。」


少女は後ずさった。


「君が覗き込んだ箱の中身が、すべてだよ。」


冷たく、硬いコンクリートの感触が、手のひらにべたりと張り付く。

気づけば、地面にへたり込んでいた。心臓の鼓動だけが、自身の体内でやけに大きく鳴っている。遠くで水滴が落ちるような音がした。いや、心臓の音かもしれない。もう、分からない。


男は歩み寄らない。ただ、薄闇の中で静かに立っている。


「さて。」


低い声が落ち着き払って響く。


「不確かなのは“過去”だけじゃない。君の“これから”もだ。」


少女の肩がびくりと震えた。


「……どういう意味?」


「君自身の状態も、たった今揺らいでいる。

生きて帰る未来と、ここで途切れる未来。どちらも、まだ重ね合わさっている。」


まるで当たり前のことを説明するように、男は淡々と続ける。


「僕が何をするかじゃない。最終的には君が、どう見られるかで決まる。」


そのとき。


足元の死体がわずかに動いたように見えた。

少女は息を呑む。

目を凝らす。

次の瞬間にはただの冷たい影に戻っている。


「……今、」


少女は震える唇で言った。


「今、動いた……ように見えたのは……」


「それも君が見た結果の一つだよ。」


男は薄く笑った。


「この人が“完全に死んでいる”と、誰が決めた?」


少女は言葉を失う。


「数分前の、君だよ。」


男は火の消えかけた煙草を床に落とし、靴で押し消した。

赤い灯がつぶれ、少女の視界がわずかに暗くなる。


「真実は、選ばれた一つの結果にすぎない。」


男の表情は読めない。


「でも、残酷なのはそこじゃない。」


声に微細な冷気が宿る。


「“選んだ覚えがなくても”、選んだことになってしまう。」


「僕だって、そうだった。」


男は小さく笑った、ように感じた。


「気づいたときには、もう“ここ”にいた。」


少女の呼吸が荒くなった。

視界が揺れる。


「ねえ……ほんとに……あなたが殺したんじゃ……」


「違うよ。」


男はゆっくり首を横に振った。


「僕が殺したと言うなら、その結果を選んだのは、君だ。逆に、僕じゃないと言うなら、それも君だ。」


そして、まるで優しく諭すように言った。


「さあ、どう“観測”する?」


少女は息を呑む。

男は一歩も近づかない。

ただ、静かに、少女の答えを待っている。


そのとき。

足元の“死体”が、かすかな呼吸音を漏らした。


少女は悲鳴も出せずに凍りついた。


男だけが、微動だにせず言った。


「ほらね。世界はまだ、君次第だ。」


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