第3話 — 空白の家と、沈黙の代償 —
小川家に戻ってから、喜美子は三日間ほとんど眠れなかった。
玄関のドアが軋む音がするだけで悲鳴を噛み殺す。
水道の滴る音が響くだけで、背筋が凍る。
息子・涼介は、まだ生きている。
生きている——けれど。
その姿は「息子」ではなく、「空っぽの何か」だった。
部屋の隅で膝を抱えて震え、
時折、喉の奥で「……にゃ……にゃぁ……」と
崩れた声を漏らしては黙り込む。
黒鴉の残した“爪痕”と、
猫たちの声を延々と聞かされ続けた地獄。
まともに戻れるわけがない。
それでも、まだ死んでいない。
それが、喜美子には恐ろしくてたまらなかった。
「……あの人に……お願いしたのに……」
殺してほしかった。
息子を救えない母としての最期の責任だと思った。
だが黒鴉は“殺すに値しない”と判断し、違う形で落とし前をつけた。
それは依頼に背いたのではなく、
黒鴉の仕事は“願い”ではなく“罪そのもの”に従うという証明でもあった。
けれど喜美子にとって、それは救いではない。
自宅にいるのは、息子なのか。
それとも、あの夜に生まれた別の“何か”なのか。
区別がつかない。
——そして、恐ろしいことに。
涼介は、時おり笑うようになった。
猫のように背を丸め、
暗がりで何かを見つめ、
ひゅう、と細く息を吸い――くつ、くつ、と喉を鳴らす。
「……いや……やめて……やめてよ……」
母親の声など、もう届かない。
かつて息子が猫に向けていた視線を、
今は母へ向けていた。
その瞬間、喜美子はようやく理解した。
あの男——黒鴉は、息子を殺さなかったのではない。
“息子の中身を殺しただけ”なのだ、と。
外見は生きている。
だが、内側には涼介の原型はもうない。
——死より、残酷な罰。
喜美子の膝が崩れ落ちた。
彼女は泣きながら電話を手に取り、
震える指で封筒に書かれていた番号を押す。
黒鴉の声は、淡々と冷たい。
『……はい。黒鴉です』
「やっぱり、殺して…!おかしいわよ、あんなの…あの子……また何か……!」
『……それはできません。しかし“罪の再犯性”は、限りなくゼロです』
「でも……でも……! 私……あの子が……怖い……!」
『恐怖は、罰ではありません。
“代償”です。あなたが産み、あなたが見逃してきた年月の』
「……っ……!」
黒鴉の声には、一片の情も揺らぎもない。
『——ただ。
もし、あなたが“次の誤った判断”をした時は』
「……?」
涼しい声のまま、淡々と続く。
『あなた自身が、あの子と同じ罰を受けることになる』
全身の血が凍りつくような言葉だった。
「わ、わたしは……!」
『大丈夫です。
あなたが二度と“猫を犠牲にしたあの子”を育て直そうとしなければ。
それだけです』
電話が切れた。
「私が、あの子をああしたっていうの…?」
………
自分が、息子より先に罰を受ける可能性。
それは新たな恐怖の影となって、喜美子の胸に深く沈んだ。
***
黒鴉——朝倉晴真は、薄暗いアパートの階段を静かに降りていた。
帽子を深くかぶり、フードを上げ、影を落としながら。
階段の途中でスマホが震える。
見知らぬ番号。だが、仕事用のアプリからだ。
【新しい依頼があります】
【内容:身内による金銭トラブル】
【被害者:高校三年生の女子】
晴真の足が一度だけ止まる。
高校三年生。
教師としての顔と、
黒鴉としての顔が交差する危険性。
フードの隙間から零れる瞳は一瞬だけ細くなり、
すぐに無表情へと戻った。
「……仕事は仕事だ」
依頼内容を確認しながら
階段の最後の一段を音もなく踏む。
その瞬間、夜風が吹き抜けた。
黒鴉の影は、再び次の罪へと向かって歩き出す。




