第2話 ——「呼吸の仕方を教えるだけ」
地鳴りのような雨が、アパートの壁を苛む。
小川家の部屋には、荒れ果てた湿気と、古いカップ麺の匂いが沈殿していた。
部屋の真ん中で丸くなっていた涼介は、母の気配に目を上げる。
黒鴉の言葉通り、まだ生きていた。だがその眼には、かつての狂気が影を潜めている。
見開くでも、睨むでもない。
ただ、虚ろなまま、呼吸の仕方を探している。
**“ギリギリで止める”**──あれは、確かに涼介に深い傷を刻んだ。
だが黒鴉は、本当にそれだけで終わらせるつもりなのか?
喜美子は胸をざわつかせたまま、部屋の隅に置かれた黒い封筒を握りしめる。
封筒の中には一枚の紙。
“復讐代行・黒鴉 依頼完了の確認書”
そこには、こう書かれていた。
『対象者:小川涼介 ——抑止および矯正を実施。
命の奪取は不要と判断。依頼は“救済”に該当したため、行為内容を調整。』
「……救済? 私は……殺してほしかったのに……」
喜美子は紙を握り潰す。
その瞬間──
コトリ
玄関のポストに、何かが落ちた。
胸が跳ねる。
封筒を拾い上げ、中を見ると──小さなカードが1枚だけ。
『※依頼者へ
あなたが本当に望んだのは “後始末” ではなく “解放” です。
死は、彼の終わりであってあなたの終わりではありません。
あなたの生活が壊れぬ形で処理しました。
必要であれば、追加の矯正は可能です。——黒鴉』
「……本当に、これで、終わるの……?」
喜美子は怒りに体を震わせた。
彼女が欲しかったのは、救いなんかじゃない。
“報い”だ。
息子は昔から誰かを傷つける性質を持っていた。
過去には自分にも牙を向けた。
猫を殺すあの目は、人にも向けられると分かっていた。
なのに、あの男は──
優しいのか残酷なのか分からない判断をした。
逃げるように部屋を飛び出そうとしたその時。
――玄関の外。
濡れた廊下の奥に、ひとつの影が立っていた。
黒い帽子を目深にかぶり、フードを合わせ、顔は半分以上覆われている。
あの姿は……黒鴉。
喜美子は息を呑む。
男は声を低く抑え、無機質な敬語で言った。
「依頼内容の修正について、お話ししておこうと思いまして」
雨の滴が、帽子のつばから落ち続ける。
男の声は柔らかいのに、冷たさだけが皮膚の奥に刺さる。
「……あなた……どうして……」
「依頼者の表情を見れば、どちらが“本当の望み”か分かりますから」
その言葉に、喜美子の呼吸が止まった。
「あなたの“息子を殺してほしい”という言葉には、恐怖が混じっていました。
怯えたままの依頼は、判断を誤らせる。
だから私は、依頼内容をあなたの心に合わせて調整しただけです」
「……勝手すぎるでしょ……!」
叫びながらも、近づけない。
黒鴉の気配は、獣ではなく“死の近くにいる者”の静けさをまとっていた。
男は一歩だけ近づき、淡々と続ける。
「小川涼介は、矯正可能です。
あなたが正しく恐れ、距離を保てば、再犯はないでしょう。
ですが──」
帽子の影から、瞳がほんの一瞬だけ覗いた。
底の見えない黒。
「もし彼が再び猫を殺すようなことがあれば……その時は“別の判断”をします」
喜美子の背筋が凍る。
“別の判断”
その意味を考えるまでもない。
「……あなた……人を殺したことがあるの……?」
震えながら聞くと、黒鴉は少しだけ首を傾けた。
「依頼があれば、どんな方法でも遂行します。
ただし、無駄な死は嫌いです」
その答えは肯定にも否定にも聞こえる。
だがひとつ分かった。
“この男は、やろうと思えば息子を簡単に殺せた。”
涼介を生かしたのは、温情ではない。
計算に基づいた判断。
「……あなた……何者?」
問うと、黒鴉は軽く帽子に指を添えた。
「ただの、あなたを手伝う者ですよ。
依頼を出したことを、後悔させないようにするだけです」
そして背を向けた。
廊下に雨音だけが響く。
その時、喜美子は初めて悟った。
——この男は“復讐代行”なんて生ぬるいものではない。
冷たく笑わない“死の管理人”だ。




