ープロローグー
プロローグ
夜の雨が静かに地面を叩いていた。
都会の片隅、古びた喫茶店の奥。
閉店後の暗い空間に、ひとりの女が震えて座っている。
小川喜美子、五十代。
落ち窪んだ目の下の隈はこの数週間で深く刻まれたものだ。
彼女の前に座る男は、黒いキャップを目深にかぶり、
フード付きの上着の影で顔のほとんどを隠している。
声も表情も温度がなく、ただ機械のように淡々としていた。
「……依頼内容を確認いたします」
男の声は低く、抑揚がなかった。
まるで読み上げているだけのような声音。
喜美子は、握り締めた手を震わせながら答える。
「……息子を……殺してください。
もう……どうしようもないんです。
あの子は……普通じゃないの。
昔から……ずっと……」
男の指先が小さく動く。
テーブルに置かれたメモには、すでに息子の名前と住所が書かれていた。
「小川涼介、三十歳。
近隣で頻発している猫の行方不明と——関連がありますか」
「……あります。あの子が……殺してるんです……っ。
私……この前……見てしまって……」
声が震え、涙が頬を伝う。
思い出しただけで吐き気が込み上げるのだろう。
「……助けてください。
私じゃ止められない。
近づくだけで……何をされるかわからない……
息子だけど……もう……怖い……!」
その言葉の震えに、男の表情は少しも揺れない。
ただ淡々とした「仕事の確認」を続けるだけ。
「お母様。
あなたは、“殺害”を希望されますか」
その直接的な問いに、喜美子の表情が一瞬で歪む。
「……はい。
もう死んでくれた方が……街のためにも、私のためにも……
あの子のためにも……それが一番だと思って……」
言葉を絞り出した瞬間、男はわずかに首を横に振った。
「……ご依頼をすべて、そのまま遂行するわけではありません」
「え……?」
「私は“復讐代行”です。
殺すかどうかではなく、
——“対象が行った罪と同価値の痛みを返す”
それのみを行います」
感情がこもっていないのに、恐ろしいほど静かな声。
「あなたの息子さんが猫たちに与えた恐怖、苦痛。
同じだけを返します。
命を奪うほどではありません」
「ど、どうして……?
あの子は……もう……人間じゃ……!」
喜美子の必死の涙にも、男は揺れない。
ただ事務的な声を続けた。
「殺害は“罪の等価交換”ではありません。
……殺すのは簡単です。
しかしそれでは、あなたの心も終わらない」
喜美子は口元を震わせた。
この男が何者なのか、理解できない。
だが、隣に座っているだけでわかる。
——この人は、息子よりも恐ろしい。
「……処置は、今夜行います。
依頼料は後日、指定の方法でお支払いください」
それだけ告げると、男は立ち上がった。
喜美子は、涙声でかろうじて呼び止める。
「あ、あなた……名前は……?」
男は、扉の前でだけ振り返った。
目元だけが影から少し浮かび上がり、
生気のない冷たい光を宿していた。
「……“黒鴉"とお呼びください。
それが、依頼の際に使う名前です」
偽名。
正体を明かすつもりなど最初からない。
そう理解した時、
喜美子の中で何かが完全に折れた。
「……お願いします……どうか……」
男は返事をしない。
ただ扉を静かに閉め、雨音の夜に溶けていった。
闇へ消えていくその背中を見送りながら、
喜美子は震えた。
——私は今、とんでもない“怪物”を呼んでしまったのかもしれない。
その恐怖だけが確かに残っていた。




