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時代の混沌

秀吉は猿、利家は犬、俺は猫!

作者: 双鶴

羽柴秀吉は猿、前田利家は犬。そして俺は――猫。


織田信長公の声は、戦場の喧騒を裂く刃のように冴えていた。呼び名に込められた意味は、誰もが思い当たる。猿は機敏、犬は忠義。だが猫は――誰も答えられない。俺自身ですら。


「猫よ、そばにいろ。」


殿はいつもそう言って、俺を自らの影に置いた。小姓としての役目は与えられない。褒賞もない。あったのは、殿の眼差しの近さと、呼び名だけだ。


城下の風は、噂を運ぶのがうまい。瓦版が濡れて縮れた朝、茶店の隅で女衆が笑う。「猿殿はよく動く。犬殿はよく守る。猫殿は――よく座る。」俺は湯気の向こうで黙って盃を干し、席を立つ。背中にあたたかい笑いが刺さるのが、妙に心地よかった。


秀吉は肩で笑い、利家は腕を組んで睨むふりをした。


「猫殿、今日も働き損でござるな。」秀吉が茶目っ気を光らせる。

「殿がそばに置くものには、必ず訳がある。」利家の声は真面目だが、目の奥が柔らかい。


訳。俺はその言葉を嚙みしめる。何度噛んでも、中心が見えない。


ある晩、燭台の炎がくぐもった雨の匂いに細く揺れる中、殿は酒を傾けながら言った。

「猿は働き者。犬は忠義。猫は――そこにいるだけでよい。」


俺は盃の底を見た。底に映るのは、自分の顔か、それとも別の影か。答えは見えず、酒の匂いだけがやけに近い。


翌朝、二条の市場を抜けると、焼いた魚を串で売る男が声をかけた。「猫殿。」その呼び名は、からかいでも侮りでもない。まるで親しみのように、焼けた脂の匂いとともに俺の耳に収まった。

「一つくれ。」

「骨はどうします。」

「骨は――置いていく。」


骨を捨てる時、手元が一瞬だけ躊躇した。指先に残る油のぬめりが、いつまでも離れない。


寺社の境内では、子どもたちが遊んでいた。竹馬に乗りながら、俺を見て笑う。「猫殿だ!」声は軽いが、妙に胸に響いた。名を呼ばれる喜びは、肩書きとは違う。名は匂いに似ている。確かにあるのに、掴めない。


戦場では、俺は殿の馬のすぐ後ろを走った。土の匂い、血の鉄臭さ、矢が唸る音。槍は重い。肩に食い込み、掌を焼く。敵を斬り伏せても褒美は他の者に渡る。殿はただ言う。

「猫よ、よくやった。」

「は。」

「そばにいろ。」


言葉は短く、温かく、不可解だ。俺はその傍に留まることを務めだと、自分に言い聞かせた。


夜更け、殿の部屋で灯を守る。障子の隙間から入る夜風は、畳に潜むいくつもの匂いを撫で起こす。墨、藁、湿り。殿は筆を止め、視線だけで俺を呼ぶ。

「猫。」

「は。」

「退屈か。」

俺は首を横に振る。殿は薄く笑む。その笑いは、誰にも見せない種類のものだった。


鐘が鳴る日は、音が胸の内側の毛を逆立てるように響いた。胸に毛など生えていないはずだが、そうとしか言いようがないざわめきが、確かにあった。鐘の余韻が街に溶け、風に混じる香が鼻をくすぐる。俺は鼻をひくつかせる自分に気づき、笑いそうになって、笑わなかった。


「殿は、なぜ俺を出世させぬ。」ある夜、たまらず問うた。

燭台の炎が一つ、二つ、三つ。殿の目に小さな火が並ぶ。

「猫に役はいるまい。役がなくとも、名はある。猫。」


俺は黙る。沈黙の中、障子の向こうを風が撫でる。紙がふわりと鳴る。猫、と呼ばれるたびに、胸のどこかが落ち着くような、ざわつくような――両方が同時に起こる。


宴席では、盃が次々と満たされる。殿は笑い、武将たちは声を張り上げる。俺は黙って盃を満たし続けた。


利家は真剣に俺を見た。「猫殿、殿はおぬしを手放さぬ。それがすべてだ。」

秀吉は笑いながらも、目が細くなる。「猫殿、殿の懐はおぬしの席でいっぱいだ。正に懐刀だ。」


俺は盃を置き、殿を見た。殿は笑っていた。だがその笑いは、誰にも見せない種類のものだった。俺にだけ向けられた笑いだった。


席。懐。手放さぬ。言葉は、手のひらの温かさの形をしていた。


ある戦の日、俺は殿の馬の横で槍を構えていた。敵の矢が唸りを上げて飛ぶ。一本が頬をかすめ、血が滲んだ。殿は振り返り、笑った。


「猫よ、傷は浅い。」


その声は、まるで撫でるように柔らかかった。俺は頷き、再び槍を振るった。敵兵の叫びが耳を裂く。だが殿の声だけが、俺を落ち着かせた。


戦が終わると、秀吉が近寄ってきた。

「猫殿、殿の傍にいると死なぬな。」

「死なぬのではない。死なせぬのだ。」利家が言った。

俺は黙った。二人の言葉は、どちらも正しいように思えた。



俺は考え続けた。なぜ猫と言われるのか。なぜ出世しないのか。なぜ殿は俺を大事にするのか。答えは見えなかった。


六月二日、暁。

京の空はまだ薄暗く、鳥の声がかすかに響いていた。だが本能寺の周囲には、異様なざわめきが広がっていた。湿った風が、何か甘い匂いを運ぶ。火の匂いだ。


「敵襲――!」

「惟任日向守、謀叛!」


叫び声が夜を裂いた。炎が立ち上がり、矢が飛び交う。俺は信長の傍に駆け寄った。殿は鎧を纏い、刀を抜く。目は鋭く、炎を映していた。

「猫よ、来い。」

その一言で、俺は殿の背に従った。矢が壁を突き破り、火の粉が舞う。煙は湿った布のように喉に張り付く。敵兵の足音が迫る。


「是非に及ばず。」

殿の声は低く、決まりの言葉のはずなのに、まるで耳元で囁くみたいに柔らかかった。俺は槍を振るい、敵兵を斬る。炎は寺を飲み込み、鐘が鳴る。音は胸の奥に真っ直ぐ落ちる。毛が逆立つ――毛などないはずなのに。


やがて、俺は縄を掛けられ、燃える柱の影に引きずられた。斬られると思ったその時。

「こいつは……殺すな。逃がせ。」

敵の声は奇妙に優しかった。縄が解かれ、背を押される。炎の外へ。押す手の温度に、懐かしい匂いが混じる。米、味噌、土間。膝の上。指の腹。


「走れ。」

その声に背を押され、俺は夜の街へ駆け出した。炎が背後で轟き、鐘がまだ鳴る。音は胸の内側に広がって、尾の付け根を震わせる――尾などないはずなのに。


石畳に映る影が、ふいに歪んだ。人の影が、細く長い四肢を伸ばし、背に一本、しなやかな線を揺らした。尾。月が雲間から顔を出し、その光が影をはっきりさせる。

「……猫?」

声は自分のものだった。影は嘘をつかない。人間の姿は、炎と煙の中でほどけた。


記憶が揺らぎ、過去の光景が次々と浮かぶ。殿の膝の上。指の腹。魚の骨。盃の影。馬の蹄の振動。尻尾が勝手に揺れる嬉しさ。止められない。


俺は走り続けた。炎の匂いが遠ざかり、夜風が毛並みを撫でる。屋根の上に跳び、月を見上げた。信長公の姿はもうない。だが温もりは胸に残っていた。


――なぜ俺は殺されなかったのか。なぜ逃がされたのか。

その時は答えは見えなかったが確かに感じていた。俺は人間ではない。ずっと猫だったのだ


本能寺の炎の中で、敵兵が俺を逃がしたのも当然だ。

誰も猫を斬ろうとはしない。

縄で縛られたと思ったのも幻。俺はただ抱えられ、外へ放たれただけだった。


「猫よ、そばにいろ。」

信長公の声が耳に蘇る。あれは命令ではなく、愛情だった。猿は機敏、犬は忠実。だが猫は――ただそこにいるだけでよい。殿はそう言った。俺は人間の務めだと思い込んでいた。だが違った。俺は殿の飼い猫。人間の夢を見ていた猫だった。


夜風が毛並みを撫でる。屋根瓦の冷たさが肉球に伝わる。俺は尾を揺らし、街を見下ろす。炎の匂いはまだ残っている。だが魚の骨の匂いが勝つ。匂いの勝ち負けは、いつだって明快だ。


思い出す。最初に殿に拾われた日。雨の日だった。濡れて震える俺を、殿は袖で包んだ。袖の匂いは草の匂い。そこに血と煙がうっすら混じっていた。殿は俺を膝にのせ、耳の付け根を撫でた。指は俺より先に俺を知っていた。


「猫。」

名前をくれた人に、俺は名で応えた。鳴いた。鳴き声は殿だけに届くように小さくした。喉は俺より先に俺を知っていた。


だから、出世はなかった。猫に階級はいらない。役は膝と戸口と屋根の縁にあり、褒賞は指の腹にある。俺の褒賞は、いつもそこに置かれていた。


遠くで、まだ鐘が鳴っている。鐘の音は胸の奥の毛を優しく撫でる。街は静かになる。静けさの真ん中で、俺は目を閉じる。目蓋の裏に殿の手がある。指の腹。温度。名を呼ぶ声。


猫。呼ばれるたびに、世界は丸くなる。丸くなった世界の真ん中に、俺はいる。殿の膝の上にいる。いなかったはずの膝の上に、いる。いることが、すべてだった。


風が変わる。夜が朝へと色を換える。屋根が冷える。瓦が息をひそめる。俺は伸びをする。背筋が波打ち、爪が瓦に小さく音を残す。


起き上がる。歩く。跳ぶ。降りる。街を渡る。灯りの消えた店先に、魚の骨がまだある。骨を拾う。噛む。噛む音が胸の中に響く。音は名を呼ぶ。名は猫だ。猫は俺だ。


俺は、殿のいない朝に、殿の声で呼ばれる。呼ばれるたびに、膝の上に戻る。戻るたびに、夢は少しずつ現になる。現は少しずつ夢になる。境目は、指の腹が撫でて丸くしてくれたから、どこまでがどちらでも構わない。


夜風が毛並みを撫でる。俺は屋根の上に跳び、月を見上げた。

信長公の姿はもうない。だが温もりは胸に残っていた。

人間としての夢は終わった。だが猫としての記憶は永遠に残る。


――俺は猫だった。

信長の猫。天下布武の影に寄り添った、ただ一匹の猫だった。


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