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第9話:壊れそうな夜、呼んだ名前

夏の気配が色濃くなり始めた、蝉の鳴き声の残る放課後。

涼は制服の襟元をそっと指で緩め、蒸した空気を払いながら、学校の門をくぐった。


数週間ぶりの登校だった。

最終手術からの回復期間を経て、ようやく外を歩けるようになったとはいえ、まだ本調子とは言えなかった。

だが、それ以上に――心が、戻る準備を終えていなかった。


学校の中で感じる視線。

囁き声。あからさまな好奇心。

“元・男子”として、そして“制度の象徴”として、涼はもはや特別な存在になっていた。


女子用の制服に包まれた自分の身体。

つい最近まで存在していた“男の証”は、もう跡形もなく消えている。


違和感が消えない。

歩く度に、喪失が突きつけられる。


(……これが、俺の選んだ結果だ)


涼は自分に言い聞かせるように、静かに唇を噛んだ。


昼休み、教室で悠真と目が合ったとき、彼は変わらぬ笑顔で手を振ってくれた。

それだけで少し救われた気がした。

けれど、同時に――涼の胸の奥には、言いようのない不安が渦巻いていた。


(俺はもう……前の俺じゃない)


授業を終え、教室を出た夕方。

本来なら駅までまっすぐ帰るはずのところを、涼はふらりと別の道へと足を向けていた。


古びた商店街の裏手、小さな路地。

中学生時代、男の仲間たちとふざけながら駆け抜けた道。

今はもう、あの頃のように無邪気には通れない。


なぜこの道を選んだのか、涼自身にも分からなかった。

ただ、どうしても“いつもの道”には戻りたくなかった。

鏡の中の自分も、制服に包まれた身体も、涼の心にはまだ馴染んでいない。

“日常”を歩くには、少しだけ気持ちが追いついていなかった。


そのときだった。


「ねぇ、ちょっと待ってよ」

背後から、誰かの足音と共に、気安げな声が響いた。


振り向いた瞬間、涼の腕が荒々しく掴まれた。


「なぁ、ちょっとだけ。可愛い顔してんのに、そんな警戒しないでさあ」


酔っているのか、見知らぬ男がにやにやと笑いながら涼の肩を引き寄せる。

男の指先が、肩口を滑るように這う。


「やめろッ……!」


咄嗟に振りほどこうとするが――その腕は、びくともしない。

かつての涼なら、抵抗して突き飛ばせた。

だが、今の身体では、それができない。


(ちがう……こんなの、俺……だったら……)


頭が真っ白になった。

視界が揺れる。足が震える。


腕の中で、身体が凍りついた。


(怖い……なんで……こんなに怖いんだ……!)


誰もいない通り。

太陽は沈み、空は薄暗く、助けの声すら吸い込まれていくようだった。


唇が震える。

喉がつまる。

そのとき、声がこぼれた。


「……ゆうま……」


か細く、息のような声だった。

けれど、心の底から――誰かを、誰かひとりを強く求める想いが、込み上げてきた。


「ゆうまぁぁぁぁぁ!!」


叫びは、悲鳴に変わった。


その瞬間だった。


「涼ぉぉ!!」


空気が割れた。


悠真の怒声が、まっすぐ涼に届いた。

男の腕を掴み、強引に引き剥がす。

悠真の目は見たことのないほど鋭く、唇は怒りに震えていた。


「てめぇ……俺の大事なダチに、何してやがる!!」


男が何かを言いかけた瞬間、悠真の拳が振り上げられた――が、寸前で止まった。

涼の方をちらりと見て、その拳を静かに下ろす。


「今すぐ消えろ。……二度と、こいつに近寄るな」


怯えたように男が逃げていく。


路地に静寂が戻った。

だが、涼はもう立っていられなかった。


膝が崩れ、しゃがみ込み、肩を抱える。

全身が震え、呼吸が浅くなる。


悠真は、そっと涼に近づいた。

そして、何も言わずに涼の肩を抱き寄せる。


「……ごめん、俺……やっぱ怖い……怖かったんだ……!」


抑えていた涙が、止まらなくなった。

悠真の胸にすがりつき、子どものように泣きじゃくる。


「大丈夫。もう、大丈夫だよ。俺がいる」


悠真の低く優しい声が、涼の心の奥底に届いた。

その言葉は、温かく、揺れていた心をゆっくりと包んでいく。


(……俺、もう……一人じゃないんだ)


涼は、泣きながら、悠真の胸の中で初めて――“守られる”ということを受け入れた。


壊れそうだった心が、静かに結ばれた夜だった。

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