第8話:戻れない場所へ
ついに、その日がやってきた。
女性化処置――最終手術。
今まで涼が受けてきた数々の変化は、あくまで「準備」にすぎなかった。
ホルモン調整、骨格や内臓の変化、体毛や声の変化、肌の質感……それらはすべて、「器」を整えるためのもの。
だが、今日行われる手術は違う。
涼の“男の証”を失わせ、“女の肉体”としての完成を意味する、決定的な一線――「可逆でない変化」だった。
その朝、病院の個室には白く冷たい空気が流れていた。
点滴の音が、規則的に静寂を打ち鳴らす。
涼はベッドの上で、手術衣を着たまま天井を見つめていた。
(……これが最後か)
もう、後戻りはできない。
制度に参加すると決めたあの日から、ずっと覚悟していたことだった。
でも、いざこの日が来てしまうと、胸の奥が重く、恐ろしく、どうしようもなく震えていた。
「……本当に、これでよかったのか?」
その問いが、何度も何度も心の中で渦を巻く。
母と妹のために。そして、支えてくれる悠真のために。
そう思って進んできた。
でも――今、この手術台に上がる瞬間、涼の胸には“自分”という存在が霧のように曖昧になっていく不安が満ちていた。
「俺って……誰なんだ……?」
男として生きてきた十七年。
その記憶のすべてが、まるで水の中に沈んでいくように、遠ざかっていく気がする。
やがて、看護師が病室に入ってきた。
「桐原さん、手術の準備が整いました」
涼はそっと頷き、ベッドからゆっくりと起き上がる。
足元は少しだけ震えていた。
だが、誰にも悟られぬよう、涼は静かに歩き出す。
手術室へと続く廊下。
白く無機質な照明が、まるで“この先に待つもの”を淡々と告げているようだった。
(悠真……)
その名を、心の中で呟いた。
(お前が言ってくれた言葉……あれがなかったら、俺、ここまで来られなかったかもしれない)
「どんな姿になっても、俺はお前を大切に思ってる」
その言葉に支えられて、今日まで歩いてきた。
けれど――
けれど、今はもう、悠真の顔すら少しぼやけて思い出せないほど、不安に押し潰されそうだった。
手術台に横たわる。
硬く冷たいその感触が、まるで「男としての人生の終わり」を告げる墓石のように思えた。
医師の声が聞こえる。
「全身麻酔を開始します。すぐに眠くなりますよ」
呼吸器を装着され、酸素が送り込まれる。
意識が薄れていく中、涼は最後にもう一度だけ、己の両手を見た。
ずっと母を支えてきた手。
妹を守ると誓った手。
悠真と何度も拳をぶつけ合った、友の証の手――
その手が、これから変わっていくのだ。
(俺は、俺で……いられるのか?…怖い…切られたくない…)
意識が沈む。
視界が暗くなる。
その瞬間、涼の目尻から、一筋の涙が滑り落ちた。
音もなく、頬を伝い、白い枕に吸い込まれていく――
目覚めたのは、夕刻を過ぎた静かな病室だった。
天井。消灯間際の薄明かり。
何より、体を包む妙な“違和感”。
涼は、ゆっくりと目を開けた。
「……っ」
呼吸が浅い。
心臓が跳ねるように脈打っている。
全身が重い。けれど、それ以上に――「喪失感」が凍るように胸を占めていた。
麻酔の影響で霞む意識の中、涼は自分の下腹部にそっと手を伸ばした。
包帯が厚く巻かれている。
感覚は鈍いが、それでも――そこに、かつて“あったもの”が、もう無いことははっきりとわかった。
男だった自分は、もういない。
医学的にも、法的にも、そして、社会的にも――
「手術、終わったんだ……俺、ほんとに……無くなっちゃった…」
小さく、喉が震えた。
涙はもう出なかった。
ただ、遠くの誰かの痛みのように、自分の身体が冷えていた。
そのとき、病室の隅にある小さなテーブルの上に、一通の手紙が置かれているのに気づいた。
母の筆跡だった。
涼へ
あなたがここまで来たこと、私は心から誇りに思います。
でも、本当は――何度もあなたに「やめていい」と言いたかった。
あなたが選んだ道を、私は信じる。
どうか、涼が涼でいられるように。
どんな姿でも、あなたは私の息子であり、娘です。
母より
読んでいる間に、涼の心の奥で何かが崩れて、そして少しだけ、解けていった。
涙は出ない。けれど、どこかほんの少し、軽くなった気がした。
(……そうか。俺は、もう“女になった”んだな)
戻れない。
でも――戻らなくても、生きていくことはできるのかもしれない。
涼は、白い天井を見上げながら、ゆっくりと、深く息を吸い込んだ。