第7話:それでも、君を信じたい
涼の心は、静かに揺れていた。
日常の中に、確かに微かな「変化」が染み込んでいることに気づきながらも、その変化を素直に受け止めることができないまま、時だけが進んでいた。
悠真の言葉――
「俺はお前を大切に思ってる」
その真っ直ぐすぎる優しさを、信じたいと思った。
けれど、心の奥では別の声が囁いていた。
(もし……俺が、本当に“女”になってしまったら。
それでも……悠真は、俺を好きでいてくれるのか?)
声に出せない不安が、胸の奥を湿った棘のように突き刺していた。
「……こんなに不安になるくらいなら、最初から好かれない方がよかったのに」
ついそんなことまで考えてしまい、涼は自嘲するように息を漏らした。
それでも、悠真は変わらずにいてくれた。
昼休み、放課後、すれ違いざまに交わす短い言葉のひとつひとつが、涼の揺らぐ心に少しずつ届いていた。
ある日の昼下がり。昇降口で、悠真が涼の肩を軽く叩いた。
「お前、最近ちょっと元気ないけど……大丈夫か?」
涼は少し驚いて、けれどすぐにいつものように微笑んで返した。
「うん、大丈夫。……ただ、ちょっと考え事してただけ」
悠真はそれ以上何も言わず、ただじっと涼を見つめていた。
その目の奥に浮かぶ真剣な色に、涼は思わず視線をそらす。
「……無理しなくていいから。俺には何でも話してくれ」
その声が、やさしくて、苦しかった。
信じたい。でも、怖い。
涼は一度目を閉じて、小さく息を吐いた。
「ありがとう。……でも、今はまだ、ちょっと難しいかも」
本当は、すべて打ち明けたかった。
だけど、その勇気が、まだ持てなかった。
悠真は少しの間黙ってから、そっと頷いた。
「わかった。無理に話さなくていい。……でも、いつでも待ってるからな」
その言葉が、静かに、けれど確かに涼の心に届いた。
放課後。家に帰ると、キッチンには母・美佐子と、妹・智恵の姿があった。
夕陽がカーテン越しに差し込む台所で、二人の笑い声が小さく響いている。
「おかえり、涼」
母の声が、いつもより少し柔らかく感じられた。
「ただいま、お母さん。智恵、元気?」
智恵は振り向いて、にこっと笑った。
「うん。今日はね、お兄ちゃんと一緒に料理しようって決めてたんだよ」
「え、そうだったっけ?」
涼が苦笑交じりに言うと、智恵が胸を張るようにして答える。
「勝手に決めたの。文句は受け付けません」
涼はその可愛い反論にくすっと笑って、頷いた。
「……うん、じゃあ今日は一緒にやろうか」
三人で台所に立つのは、いつぶりだろう。
鍋に手を伸ばし、包丁を握る。
そのひとつひとつの動作に、自分が「この家の家族」であることを実感していく。
味見をしながら笑い合う時間。
ふと母の横顔を見たとき、涼の胸にふんわりとした温かさが灯る。
――たとえ変わっても、自分はまだ家族の一員でいられる。
そんなささやかな確信が、ほんの少しだけ、不安を溶かしてくれる気がした。
夕食のあと、涼は一人で部屋に戻り、ベッドに腰を下ろした。
スマホが手元で振動する。画面には、悠真の名前。
「今日は一緒に話せてよかったよ。
涼、何でも言ってくれな。俺はお前の味方だから」
そのメッセージを、涼は何度も読み返した。
指先が震えるほど、小さな言葉だったのに――その重みは、想像以上だった。
涼はスマホを胸元に抱きしめ、ゆっくりと目を閉じる。
(……悠真。俺、まだ怖いよ。でも――信じたい。信じてみたいんだ)
そう思えたことが、今夜の自分には十分すぎる進歩だった。
「……俺、頑張るよ。俺の人生を、きちんと受け入れて……生きていく」
まだ不安はある。怖さも残っている。
でも――前に進むことを、自分自身に誓えた。
その夜。
涼はようやく、胸の中の波が静まっていくのを感じながら、ゆっくりと眠りについた。
暗い部屋の中で、スマホの画面が最後に優しく光っていた。
男としての自分の、最後の証が消え去るまで……あとわずか…。