第5話:それでも家族のために
夜の帳が降り、静まり返った家の中。
涼は一人、自室の天井をじっと見つめていた。
この部屋で、幼馴染の悠真とゲームに興じたこともある。
互いに宿題を押しつけ合い、くだらない話で笑い合ったこともある。
しかし今は、そんな日常がまるで遠い昔のことのように感じられた。
体は日に日に女性のものへと変わっていく。
乳腺のふくらみが更にに膨らみ始め、柔らかな皮下脂肪が腕や腰にじんわりとつき始めた。
声は少しずつ高くなり、かすかに甘い響きを帯びていく。
どれも避けられない、確かな変化の証だった。
そんな変化を繰り返すたび、母と妹は――
「……ごめんね……涼……」
キッチンの陰に隠れるようにして、母・美佐子が涙をこぼしていることを、涼は知っていた。
いつも気づかれないように、そっと声を殺して流れる涙。
妹の智恵もまた、こたつの隅で小さな手にハンカチを握りしめ、涙を隠していた。
涼は、そんな二人の姿を見て見ぬふりをした。
せめて自分が大丈夫でいれば、彼女たちの苦しみを少しでも和らげられると信じて。
「家族のために、俺が強くならなきゃ」
母にこれ以上無理をさせたくなかった。
妹に、夢を諦めてほしくなかった。
鏡の前に立ち、少しだけ笑顔を作ってみせる。
「……こんな俺でも、役に立ててるなら、それでいい」
だが、その瞳は、長く泣き腫らした後のように赤く、痛々しかった。
数日後の夜。
涼は妹の部屋のドアの前で足を止めた。
中からは、母と智恵の小さな声が漏れてくる。
「……お兄ちゃん、平気なふりしてるけど、本当はすごく辛いんだよね……」
「智恵……」
「大学に行けるのは嬉しい。でも、その代償がお兄ちゃんの人生だと思うと……」
言葉に詰まった智恵の声。
涼は、深く息を吐き、そっとドアから離れた。
「大丈夫。お前の未来のためなら、俺は……俺のことなんてどうだっていい」
その夜、スマホが震えた。
悠真からのメッセージ。
「お前、最近無理してないか?」
たった一言の優しい気遣いに、涼は初めて自分の弱さを自覚した。
翌日の放課後。
帰り道、涼はぽつりと口を開いた。
「俺……本当は怖いんだ。全部が崩れていく気がして」
隣を歩く悠真が、ふいに足を止めた。
「……なら、俺が支える。お前がどんな姿になろうと、俺の知ってる“涼”は変わらない」
その言葉に、涼の胸は軋んだ。
嬉しいけれど、怖い。
この想いを受け入れたら、もう二度と元には戻れない気がした。
その頃、母・早苗はキッチンで包丁を置き、窓の外を見つめていた。
変わりゆく子の後ろ姿が、鮮明に目に焼き付いて離れない。
「……ごめんね、涼。母さんがもっと強ければ、こんな人生を背負わせずに済んだのに……」
泣きそうな声で呟く母の胸に、後悔と愛情が渦巻いていた。
だが、どれほど後悔しても、時間は戻らない。
だからこそ、これからの人生を少しでも温かくできるよう、母は決意した。
涼が心から笑える日が来るように。
それが、せめてもの償い。
鍋の蓋を静かに開けながら、母は家族の明日を願った。
「みんなで、これからもずっと笑っていこうね」
家族を守るために選んだ道。
苦しみもあるけれど、確かな絆がそこにあった。
涼は今日も、前を向いて歩き続ける。