7 環境の激変、そして狼狽
朝目が覚めて、見慣れない天井に慌てて飛び起きた。
それからぐるりと部屋の中を見回して、何もかも夢ではなかったのだと思い知る。
ためらいや戸惑い、困惑といった感情に少しの解放感が混ざったような複雑な気持ちでベッドから降りると、ドアをノックする音がした。
「ラルウェン様、お目覚めでしょうか?」
ジーナの溌溂とした声に、やっぱりほっとする。
昨日、ザカリー殿下にすべての事情を聞かされてから顔を合わせた途端、ジーナは泣きながら謝罪した。
ずっと騙すような形になって申し訳ございませんと、それでもラルウェン様についていきたい、忠誠を誓いたい気持ちは嘘ではないのですと訴えるジーナの涙に、怒りや不信感なんてあっけなく洗い流されてしまった。
突然新たな環境に放り出された身には、変わらないものがそばにあるというだけでとても、心強いのだと知る。
「起きてるわよ」
すぐさま返事をすると、にこやかに部屋に入ってくるジーナ。
いつもと変わらない朝。
でもすべてが変わってしまった朝でもある。
「ぐっすり眠れたはずなのに、なんだかまだ眠いわね」
「これまでのお疲れが溜まっているのですよ。今日から学園に復帰なんて、ちょっと早すぎるのではありませんか?」
「大丈夫よ、多分」
「まあ、今日からはザカリー殿下もリーヴェ様も一緒ですし、鬼に金棒ですもんね」
「……それ、本気で言ってるの?」
「当たり前じゃないですか。これまでは『聖痕持ち』というだけで、まわりの生徒から遠巻きにされてきたのでしょう? それでなくてもエイナール殿下からは事あるごとに蔑まれ、罵られてばかりだったのです。でも帝国の皇太子とその従妹でもある筆頭公爵家の令嬢がそばにいてくれるなら、どれほど頼りになるか」
「頼りになるっていうより、緊張のほうが大きいわよ。リーヴェ様はともかく、ザカリー殿下は帝国の皇太子なのよ? いきなり留学することになったなんて聞かされて、どんだけ驚いたと思ってるのよ」
「ザカリー殿下はラルウェン様のことが心配すぎて、本当はもっと早くこちらに来たかったのですよ。でも帝国内でめんどくさいことに巻き込まれて、ちょっと身動きがとれなかったんですよね。まあこれはこれで、タイミングとしては神懸かってましたけど。さすがはザカリー殿下」
「だからなんでそんなに楽観的なのよ」
ため息がこぼれるけれど、ジーナは動じない。手際よく、慣れた仕草で私の真っ白な髪を整える。
「これまでは毎日妃教育もあって息つく暇がありませんでしたけど、今日からは完全に自由なのです。ラルウェン様も、思う存分楽しまないと」
後ろに立つジーナの人懐っこい顔が、鏡越しに微笑んでいた。
◇◆◇◆◇
いよいよ学園へ向かう馬車に乗り込もうとして、またひと悶着。
「ラルウェンお姉様の隣に座るのは、私です!」
リーヴェ様からは昨日の段階で、「これから『ラルウェンお姉様』とお呼びしてもよろしいですか……?」と可愛らしくおねだりされていた。あの笑顔に勝てる人なんてそうそういないと思うけれど、わかっててやってるんだとしたらこの娘も末恐ろしい策士である。
「何言ってんだ? ラルウェンの隣は俺って決まってんだよ」
宣言通りではあるけれど、ザカリー殿下の求愛行動は初日からフルスロットル、トップスピードである。勝手に呼び捨てだし(でも咎めることなんてできない)、とにかく距離が近い。
ちなみに留学にあたり、ザカリー殿下はオリシル公爵家に居を移して通うことになるらしい。つまり公爵家に保護されている私とは、朝も昼も夜もずっと一緒。
「一切手加減せずに本気で攻める」とは言っていたけれど、これほどとは。
「お姉様! どちらの隣がいいか、お姉様が決めてください!」
いきなり無理難題を突きつけられる身にもなってほしい、とはさすがに言えない。
学園に到着し、馬車を降りるとたくさんの好奇の目が待ち構えていた。
聖痕の消失とそれに伴う王太子との婚約解消については、すでにほとんどの貴族家の知るところとなっているのだろう。
確かにこの国にとって、いえ世界のどの国においても『聖痕持ち』の存在は大きい。存在するだけで、その国の繁栄が約束されたも同然なのだから。
でも聖痕が消失し、『聖痕持ち』と呼べる存在がいなくなったということは、約束されたはずの輝かしい未来をも失ったということになる。国全体の落胆ぶりは計り知れない。
はずなのだけれど。
「リーヴェ様!」
そんな大人の事情などどこ吹く風なのか、リーヴェ様を目にした同じ年くらいの令嬢たちが三人ほど駆け寄ってくる。
「どうしてラルウェン様とご一緒なのですか?」
「なぜ同じ馬車に?」
「ラルウェンお姉様は、事情があって昨日から我が公爵邸でお預かりしているのです。しばらく滞在されることになったので、もう家族も同然なのですよ」
「ずるいです、リーヴェ様。みんなの憧れのラルウェン様なのに」
「そうですよ、いつのまに『お姉様』呼びなのですか?」
「私も『お姉様』とお呼びしたいです!」
……え。
なんなのこれは。
初めて見る光景に固まってしまう。
「ラルウェンはずいぶんと人気者なんだな。俺も油断できないな」
殿下がこれ見よがしに、耳元でささやく。
「見た目だけなら俺だって充分注目に値すると思うんだが、誰も俺のことなんか眼中にないらしい」
「いえ、そんなことはないのではと……」
現に、颯爽と現れた殿下に見惚れている令嬢が何人もいる。
というか、『元聖痕持ち』で見たこともない髪色になった私と筆頭公爵家の令嬢が一緒にいるだけでも人目を引くのに、圧倒的なカリスマ性を宿した端正な顔立ちの黒髪貴公子までもが一緒にいたら、異様に目立つ。
「ラルウェン。俺たちは同じクラスだからな。よろしく頼む」
「え」
「なんだよ?」
「それも裏から手を回したのですか?」
「そうだよ」
「……否定なさらないのですね」
「しない。ラルウェンには嘘ついたり欺いたりしたくないからな」
「もう散々なさってきたのにですか?」
「今までだって、ラルウェンを欺いてきたわけじゃない。ただ、話す機会がなかっただけだ」
「……物は言いようですね」
冷めた口調で言い返すと、ザカリー殿下が眉を顰める。
「俺は信用されてないようだな」
「そんなことはありません。殿下が私を見初めてくださって、冷遇された環境から救い出そうとあれこれ画策されていたことに感謝こそすれ非難するなんてあり得ません。ただ……」
「ただ?」
「いきなり多くのしがらみから解き放たれて、戸惑っているだけです。こういったことには、慣れていないので」
目の前で年下の令嬢たちがきゃあきゃあと楽しげにはしゃぐ様を見るのも、美貌の皇太子に問答無用で愛をささやかれるのも、慣れてはいない。
慣れてはいないからどうにも身の置き所がなくて、そっとその場から立ち去ろうとするとすかさず殿下の手が伸びてくる。
「ラルウェン」
掴まれた腕は、振りほどこうとすれば多分できたのに。
優しく包み込むような殿下の手に、抗うことなどできなかった。
「俺はお前の味方だ。お前が信じようと信じまいと、絶対に傷つけるようなことはしない。だから俺に、尽くさせてくれよ」
「尽くす……?」
「今までラルウェンが虐げられて傷ついてきた分、俺が癒したい。煩わしいことに振り回されてきたラルウェンを、俺が幸せにしたい。だからいつでも頼ってほしいし、そうして早く俺に夢中になってほしい」
「え……」
「それくらい、俺がラルウェンに夢中だってこと」
そう言って、どきりとするほど麗しい笑顔を見せるザカリー殿下。
なぜかそのまま手を引かれて歩く私を、飢えたような暗いまなざしが追いかけていたなんて知る由もない。