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第六話 贖い

 三月に入り、今の学年は終わりのときが近づいてきた。身に染みるような寒さも和らいできた。教室では会話が絶えず、みんなが名残を惜しんでいるように感じる。


「ねぇねぇ、真琴。昨日送った動画もう観た?」


 少女は肩を揺らして、友達の方を振り返った。


「おはよ。観たよ、めっちゃ笑った」


 曇りない笑顔に、彼女の周りはいつも人が集まった。

 真琴が本来の姿に戻ったように思えた。自分を狂おしく愛した彼女は去り、表情が豊かな十一歳の少女がそこにはいた。


 傍から見るぶんには、精神は安定しているように思える。タツさんの指示で、俺は真琴から距離を置いている。彼女の感情を刺激しないためだった。

 真琴はカウンセリングを受けている。部屋を水で満たしてから、親に受けさせられているようだ。タツさんも、それは必要なことだと言った。


 真琴は他人が自分を知っている意識のことも相談していた。それを確認するのを最後に、彼女とは言葉を交わしていない。

 カウンセリングのおかげか、俺との関係が断たれたからか、彼女は傍目には異常性を感じさせない程に回復した。


「お前は行かないのか」


 丈の言葉に首を振って答える。俺は真琴の両親とタツさんにしか、彼女の意識について話していない。古い付き合いの丈にすら何があったのか全く伝えていない。

 こうして心配してくれるが、一切の事情を言えないので申し訳なくなる。


「そっか。じゃあ、今日の放課後どっか行くか?」


 深くは聞かないでいてくれるのが、本当に有難いと思った。


「ああ、助かるよ」


 こういうとき、心を許せる存在がいて良かった。一人でいるのは、あまりに苦しい。

 そうして、丈と放課後の計画を練ろうとしていた時だった。


「あの…ケイさん」


 心臓が跳ね上がった。聞きなれた声が、俺の名を呼んでいた。

 顔を向ける。真琴だった。


「…えっと、手はもう大丈夫?」

「あ、ああ、もともと骨が折れたわけでもないし」


 真琴は安心したように溜め息を吐いた。


「そう…。よかった。ほんとにごめん、私おかしかったよね」


 生きた心地がしていなかった俺にしてみれば、真琴の言葉は天の助けのようだった。

 隣で微笑む丈とは対照的に、涙がにじんで彼女を正面から見られない。


「…そんなことないよ」


 いくら落ち着いているとはいえ、俺の行為が許されたわけではない。

 それでも、また真琴と関われることが嬉しかった。気兼ねなく話ができる日も来る…そのためなら、なんでもできる気がした。

 真琴が去るのを見送って、俺は丈に向き直った。


「さっきの約束なんだけど、また今度でいいか?」

「もちろん」


 丈は快く受け入れてくれた。恐らく真琴との用事ができるからだと思っているのだろう。

 だが、それはもう少し先のことになる。

 俺は放課後にタツさんに会いに行くことを決めた。


                   *


 夕方にタツさんのアパートを訪れると、さすがに仕事に行っているのか、誰も出て来なかった。諦めて帰ろうと階段を降りる。

 古いアパートの白い壁には幾筋もの傷がある。それは白いからこそ目につき、酷い劣化を物語っている。


 俺はそれを見て、真琴のことを連想した。自己愛も人に伝わる意識も、口にする前に俺が気づいた。

 タツさんはどうだったのだろう。何を考えているか分からない、掴みどころのない彼は、本当に一人で向き合わざるを得ない。


『自分がそれにどう向き合うか考えるのが大事なんだ』


 彼の経験から出た言葉なのだろう。どれだけのトラブルが自分の心に起こっても、自分で何とかしてきた。

 本当は誰も何も知らないから…。

 もっとも、真琴が特別なだけで、殆どの人はそうなのだ。


 考えふけって一番下の階まで降りると、白い壁が郵便の集合受け箱に変わった。

そのなかの一箱から紙の束がはみ出していた。まさかと思って覗くと、その部屋番号はタツさんの部屋と一致している。


「何やってんだ、あいつ」


 どうやらどこかに出かけているようだ。それも、もう長いこと帰っていない。

 無駄足だったと諦めて、アパートに背を向けた。


「…あれ?」


 と、ちょうどそのとき、黒の軽自動車がアパートの駐車場に入ってくる。それは見慣れた車だった。

 手早く駐車を済ませ、中の人物が出てくる。


「おお、来たのか」


 今しがた会うのを断念したタツさんだった。


「郵便が溜まってたけど、どこか遠くへ行ってたの?」


 ちょっと野暮用で…と濁したタツさん。実家に帰っていたのだろうか。

 帰ってきたのなら、何をしていたかはどうでもいい。


「突然ごめん。真琴のことを相談したくて」

「そっか。ここじゃなんだから、部屋に行こうよ」


 俺は今しがた降りた階段を登り始める。

 ふと、端から見ると俺は、知らない大人についていく子供に見えるのでは、と心配になった。タツさんは俺の親にしては若すぎるし、兄弟にしては歳が離れすぎている。


 今までは休日に私服で会うことが多く、叔父と甥にでも見えると思っていた。しかし平日の学校帰りというのは、どうも良からぬ想像をされそうな気がした。


「ささ、入って」


 俺の懸念をよそに、当然のように通される。まぁ、誰かに声をかけられても、知り合いだと言えば済むだろう。

 いつもの俺の定位置である(というか、そこしか空いていない)赤いソファーに腰掛ける。


「さっそくだけど…」


 気持ちを切り替えて、真琴のことを話し始める。


「今、あの子の精神はかなり安定しているみたいで、俺にも話しかけてくれた…」

「もう意識もなくなったの?」

「それは分からない」


 まさに、そのことを相談しに来たのだ。前に彼は、まだ可能性があると言っていた。その真意を確かめたい。


「そうか、癖みたいなものだからね。カウンセリングを受けるだけでは無くなっていないかもね。もちろん改善する人もいるだろうけど、真琴ちゃんはかなり強く意識が定着しているようだし」

「前にタツさんが、希望はまだあるって言ってたよね。そのことを聞きに来たんだ」


 タツさんは、いつものように頭を掻きながら、俺に話してくれた。


「それはね…。その子はまだ子供だから、この先もし精神科に行っても、投薬をされないかもしれない。だけど、俺の経験では一番それが効く。薬の効果かは分からないけど、効くと思って飲むと意識が弱まったんだ」

「俺が前に薬草スープを飲ませて心を動かしたから、俺が渡せば効果が信じられて効くってわけか」


 でも…と力なく続ける。


「あんなことがあった後で、素直に従ってくれないんじゃ…。俺も変な薬を飲ませるのは懲り懲りだよ」

「大丈夫、渡すのは普通の水で良い。というか、寧ろ普通の水の方が良い。精神科で投薬されないとしたら、その理由もちゃんとある筈だから。飲んでくれるかは、タイミングを見計らうことにしようよ」


 確かに、まだ望みはありそうだ。それでも内心では落胆していた。どこかで確実に治せる方法を期待していた。


「習慣化されていると治すのが難しいんだ。とくにノイズがあると、より苦しいだけじゃなく、常に意識させられて定着しやすくなるから」


 不服そうに見えたのか、タツさんが気遣うような口調で補足する。

 その意識を持つ人のなかでも、ノイズはさらに珍しい存在らしい。タツさんは自分以外ではあまり聞いたことがないそうだ。


「もし治っても、何かのきっかけで再びそう思えてくる場合もある。俺は今、ほぼ意識してないけど、もう慣れているのと、ノイズが落ち着いていて気にならないだけだから。強い意識があってノイズまで出ていると、しばらくは良くならないかもしれない」


 彼の話を聞いていると、やはり望みは薄いのだと再認識させられる。それでも、その僅かな望みに賭けるしかない。


「まぁ、もしも治らなくても、俺みたいに意識と共存している人もいるからね。俺は慣れてくると日常生活への影響をかなり抑えられるようになった。意識があるから出来たこともあるからね」


 それは、タツさんが意識をもってから、最も衝撃的な体験だったらしい。

 彼は自分の体験を小説にまとめていた。なかなか奇異な内容だったが、真琴のことが少しでも分かるならと読み進めた。


 その意識を持った人物が主人公だ。ダンスが大きなテーマとなっていた。

 意識は性質上、様々な曲の歌詞に共感を生むことができた。常に意識があったため、その共感は実感を伴って強烈な思いになる。


 タツさんはダンス経験者ではない。彼が経験したのは、歌詞に合わせて強烈な思いを抱くことだけだ。それをダンサーのキャラクターにさせることで、出来ることが広がらないかを模索したのだ。さらに感情を高められないか、ダンスの表現に活かせないか、その行為の可能性を追求する物語だった。


 それは感性が豊かな頃にしか至れない境地であり、何度か経験すると、もう二度とできなくなる。故に一時的な力だが、どうしても意識が終わらなかったから、タツさんはそれを極めることにした。苦しみが大きかった分、その激情は更に高まった。


 タツさんはそれまでの広範な経験を思いに繋げたので、心の中が伝わる意識を用いるだけではない。それでも、どうして尋常ではない感情になったかといえば、一番の要因はその意識だろうとのことだ。


 ただ、それは意識があれば必ずできるわけではない。彼にはノイズ然り、他の同じ意識をもつ人より特異な部分があるから、その中でもさらに人を選ぶ。彼が言うには、真琴は自分と似通っている点が多く、素質がある方らしい。


 だが、そこに至る可能性があるからといって、彼女の現状を悲観することはない、とは言えないだろう。


「でも、そうやって深くのめり込んだら状態が複雑になるよね」

「それはそう。ただ、実際に意識があるから出来ることの一例ってこと。他にも精神力は強くなるかもしれない。落ち着いてきたら、この意識について悩んでいないだけでも相当な余裕ができたから」


 確かにそうかもしれない。だが、前にタツさんから、人とのコミュニケーションを妨げる要因になるとも聞いた。そのマイナスはどうしても取り戻せないだろう。

 だから結局、何とか治してしまう方がいいのだ。俺に出来ることは本当に少ないけれど。


 タツさんはキッチンに入ると、傷一つない真っ白なカップにコーヒーを淹れた。それから冷蔵庫から褐色のジュースを取り出して、ガラスのコップに注いだ。

 コップを俺に手渡し、自分はベッドに胡坐をかいて座ってコーヒーを飲む。


「とりあえず一服しようよ。遠慮なく召し上がって」


 お言葉に甘えて俺もジュースを頂くことにする。さくらんぼの風味と炭酸の刺激で口の中がいっぱいになる。飲み薬めいた後味が微かに残った。


「俺も意識が酷かったときは本当に辛かった。でも、自分で考えて決めて生きてきたから、後悔はしてないな」


 タツさんは一服すると、穏やかに語った。虚勢を張っているようには見えなかった。選択した道を全力で進んできたからだろう。

 彼の言葉を反芻していると、脳裏に違和感が浮かんだ。


「ねぇ…このままいくと、俺たちの考えで真琴の意識を無くすように働きかけるよね。俺は、その前に真琴の意志を確認するべきだと思う」


 違和感を言葉にして、必死に紡いだ。彼女の人生を左右する重要な要素を、俺たちの独断でどうこうしていいのか。経験者のタツさんが了承しても、これは真琴の問題だ。


「なるほどね。その子も自分で考えて決めるべき、か。当然と言えば当然だね」

「うん」

「でも、まだ幼いうちに決められることじゃない。説明ぐらいはしてもいいかもだけど」


 確かに、選択権を委ねるには彼女は若すぎる。それもよくわかった。


「じゃあ、話だけしておくね」

「それがいい。でもその前に…これは僕の身勝手な思いなんだけどさ…」


 俺は彼の計画を聞き、力を貸すことにした。

 そのときのタツさんの瞳には、俺も初めて見る強い光があった。

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