第五話 胸の内
真琴は自分の心の中が人に伝わっているという意識をもっていた。
あの日、しばらくして落ち着いた彼女は、日記を見せてくれた。
そこに書かれたことは俺が危惧していた内容だった。それは、かつてのタツさんと同じ境遇だった。
「そんなわけないだろ」
日記を読んだとき、率直な思いが口を突いて出た。
常識的に、他人が自分の考えなどを分かるはずがない。何より、俺は真琴の気持ちは表情以外では分からないし、彼女の考えも伝わってこない。
それは真琴も理解しているが、どうしても疑念が拭えない。そうしているうちに、その意識が習慣化されてしまったそうだ。
彼女が言っていることは、タツさんに聞いて少しだけ理解があった。ひょんなことから意識し始め、その考えが染み付いてしまう。そして、その状態はひどく苦しい。
タツさんはテレパシーに関する創作に触れたことで意識が始まったらしい。真琴が意識をもった契機は聞いていないが、彼女を見ていればわかる気がした。
あれだけ心情を表情に写しやすければ、そんな気がしてくるのも頷ける。恐らく、今のように表情を取り繕う前に、そう考えるようになったのだろう。
「どこまで同じ状況か分からないけど…」
後日、経験者であるタツさんに相談しに行くと、彼はもう話し難そうにしなかった。
「心の中が伝わる意識があるからって、その子の行動は解せないな」
行動というのは、部屋を水浸しにするといった彼女の奇行のことだ。
「そうなんだ。てっきりタツさんも同じことをしてたのかと思った」
「人にもよるだろうね。意識で病気になってしまう人は、奇行もあるのかもしれない。ただ不可解なのは、啓二が薬を飲ませた日から、それが始まったこと」
薬を飲ませる前にはなかった行動が始まったのは何故か。タツさんはしばらく腕を組んで考えた。
「その子が変になったのは、自己愛が弱まったからじゃないかな」
タツさんは下を向いて考える仕草のまま予想を口にした。
「自己愛? 自分が好きだって言ってたこと?」
首を傾げる俺をよそに、タツさんはまだ思案顔で考えをまとめていた。その目は心なしか輝いている。
「凄いな。自己愛で意識の弊害から逃れていたわけか。思いもよらない、いや、思いついても出来ないな」
俺には真琴の気持ちもタツさんが言っていることも、全く分からない。なぜ自分を好きだった彼女が、その気持ちが薄れて苦しんでいるのか。心の中が伝わる意識とどう繋がるのか。
「つまり、今までは伝わっても気にしないでいられた。自分に熱を上げていれば、他の人は眼中に無くなる。だから自分を知られてもどうでも良かった」
「それで…?」
「えっと…」
どう言おうか悩んでいるタツさん。何となく彼の言うことが呑み込めてきた。
要するに、彼女の想いを俺に向けさせたのが原因だったのだ。あの日、真琴に大きな変化が起きている気がしたのは、思い過ごしではなかった。
「だけど、その気持ちが自分に向かなくなって、状況は変わった。いや…もとに戻った」
真琴が俺に裸を見られても、咎めなかったことを思い出す。普通は自分が好きなら尚のこと許せない気がする。けれど、確かに普段の真琴は、他人に対して自分を取り繕う。表面的には仲良くしているが、それだけ興味がないのかもしれない。
「他人に関心が戻って、伝わっている気がしてるってこと?」
「伝わっている気はずっとしていただろう。問題は他人を無視できなくなったこと」
よくわからないが、つまりは俺のせいだ。彼女にとって自分への気持ちは必要なものだった。
真琴に捻られた右手首が、鈍く痛んだ。彼女の鬼気迫る顔が嫌でも浮かぶ。
「そんな…でも、本当は伝わらないって分かっているんだよ。癖になって拭えないだけで」
「その子の様子を聞いていると、ただ意識があるから辛いだけじゃないかもしれない」
タツさんは経験から、真琴の現状を分析し続けた。
彼が言うには、人に知られるからこそ、考えてはいけないことを考えてしまうそうだ。何かを侮辱し、恥ずかしい想像が頭をよぎる。止めようとしても、どんどん溢れ出す。
気に留めないよう努めても、とにかくうるさい。
このことをタツさんは『ノイズ』と呼んでいた。彼は、真琴が情緒不安定だったのは、ノイズに影響されているからだと推測した。
「俺はおかしな行動はとらなかったけど、今の真琴ちゃんは急にノイズに悩まされるようになったから、情緒不安定になるのも頷ける。ノイズが勢いを増すと、無茶をしたり、君を責めたりするんだろう。だから、本当に君のしたことを許せないわけじゃないと思うよ」
タツさんは俺を慰めてくれた。それでも全く気持ちは晴れない。
これは、真琴の心を良いように操ろうとした罰だ。
今思えば、彼女の意識は行動に現れていた。
自分を吊り上げ、服を脱ぎ捨てた行為は、どうすれば人に伝わらないか模索していたのだ。同様に部屋を水で満たしたのも、その試みの一つだろう。
その意図を汲み取れないにしても、異常性を感じて踏み留まることは出来たはずだ。
すべては目的を果たすことしか考えていなかった、俺のせいだ。
俺が彼女の均衡を壊して、状態を悪化させた。
暗い後悔が胸の奥に落ちてくる。あの様子では、まともに生きていけるとは思えない。俺は真琴に取り返しのつかないことをした。もう償う方法もない。
「そんな…」
その場にへたり込む。自分の人生も一緒に終わったと思った。この責任を果たすには、あの状態の真琴の面倒を生涯にわたってみなければならない。そんなこと、今でさえ狂いそうなのに、到底耐えられるはずがない。
もう、二人で地獄に落ちるしかない。俺の思慮の浅い行為のせいで。
「――あ」
そのとき、絶望して焦点が定まらない視界が、ゆっくりと手が差し伸べられるのを捉えた。
「そんな顔するな、啓二」
タツさんだった。跪いており、見上げると顔がとても近くにあった。
「やり直せるさ。俺も協力する。二人ともが救われるように頑張ろう」
まさに一筋の光が差したようだった。経験者の彼が力を貸してくれるのは、すごく心強かった。
それでも、真琴の今の状態を見ていると、何か出来ることがあるとは思えない。
タツさん本人も言っていたことだ。
「でも、無理なんでしょ? 周りの人にできることは少ないって…」
「そう、確かにそう言った。でも、真琴ちゃんが若くて影響を与えやすいのと、啓二が彼女にしたことを鑑みれば、まだ、諦めるのは早いかもしれない」
大きく期待することはできなかった。何も変わらなかったとき、落胆するのが怖いからだ。
それでも俺に残されたのは、タツさんの言葉に賭けることだけだった。