第三話 禁断の薬
動物園を出た後は、誰かの家で遊ぶことになり、最寄りだった真琴の家を訪れることができた。話を切り出したのは俺だったが、狙い通り真琴の家が選ばれたのは、運が良かったとしか言いようがない。
皆が祭りでもらった菓子を持ってきていたので、それを食べながらゲームをした。俺は楽しむどころではなく、ずっと頭の中で作戦を思い返していた。
そして、夕方に解散した後、ついに行動を開始した。
「あ、ごめん。俺ちょっとスマホ忘れた」
「えー、何やってんの。どんくさいな」
もちろん故意にスマホを置いてきた。回収しに一人で戻るために。
自転車のペダルを全力で漕ぎ、真琴の家まで戻る。遅くなればなるほど、危険が増していくのは明白だ。
彼女の家に着くや否や、鍵もかけずに自転車を置き去りにする。
インターホンを押しても返答はなく、おそるおそる玄関のドアを開けて入る。
家の中は静まり返っており、誰かが居る気配はない。
まずは皆で遊んだリビングに入り、スマホを回収する。そこには誰もいなかったが、机の上に広げられたA4サイズのノートが目に留まった。何気なく中を覗き込む。
『今日は誘われて動物園に行った』
どうやらこれは真琴の日記らしい。
適当なページを開いてみる。
『私が描いた歯の絵を、ミサキが花びらに変えた。私の絵が下手だってこと?』
続く文を見て俺はノートを閉じた。
『腹が立った。今度会ったら、靴を踏んでやる』
…見なかったことにしてリビングを出た。
音を殺して家を探索すると、二階の部屋に彼女はいた。
「うそだろ…」
俺は思わず、そう口走っていた。
夢を見ているのかと疑いたくなる光景に息を呑んだ。危険な賭けに挑み、極度の緊張状態にいるはずが、茫然とさせられる。
普段の俺は独り言を発さない。何かを思っても、それが口を突いて出るのは稀だ。
だから、それは俺にとって、この上ない衝撃だった。
そしてその直後、胸に波が押し寄せるような感覚に、狂いそうになる。その感覚に支配され、何も考えられなくなった。
頭が熱くてぼんやりする。その熱さは、くすぐったい感覚にも近い。それが先刻までの緊張感を塗りつぶしていた。
そんな気持ちにさせた光景を、もう一度よく見る。
天井から垂れ下がるのは鎖。その先端の手錠に通された右手は真っ白で、吊り下げられた体は…その眩しい肌を、一糸まとわず見せつけていた。
俺は眼前の光景に、彼女の部屋に入って来た目的も忘れて、見入った。
「…」
我に返ると、彼女が寝息を立てている内に仕掛けを済ませるため、足音を消して近寄った。ポーチから薬の小瓶を取り出す。
真琴と結び付けるために、リンドウの花弁を磨り潰して入れておいた。リンドウは丘陵地から山地に生育し、その花弁は太陽の光を受けると開き、天気が悪い日は閉じる。心情の表現に長けた真琴と、近いものを感じた。
おまけにそれは薬の効用にも繋がる。その効用とは、相手を自分のように思わせること。もう一人の自分のように心を開かせることだが、きっと、この少女には、この薬は全く違う変化を生み出す。
それにしても、彼女が寝息を立てていて、家族も出払っていたのは有難かった。そもそも今日、彼女の家に来れたことも含めて、運命の導きにすら思える。
幸運を噛みしめながら、握った瓶に力を込めて、願いを託す。それを愛しい人の口元に近づける。
この奇跡的な機会をふいにすることがないように、絶対に無為に過ごさないように。
そう決意して、一息に、その中身を彼女の口へ…。
「ん! ぐっ…」
真琴は唐突に起こされた。
俺は緊張していた。むせる真琴の瞳を見て、心を落ち着けようとする。とても澄んでいて、見ていると動揺が静まった。
だが。
目が合う。そして、俺を釘付けにした黒色が鋭く細められる。
睨まれて、また心が焦ってくる。
「えっと…何してんの?」
俺が問いかけると…。
「何をしているの?」
これは俺が言ったのではない。同じ内容の質問を返されたのだ。
考えてみるまでもなく、確かに俺の方が、鎖によって吊るされている彼女よりも余ほど危ない人物だ。変質者だ。
何をしているのか。
「それは…」
決まっている。大切な…。
「話をしにきた」
「…?」
不思議そうにする彼女。裸の姿を見られても、恥じらいや怒りを感じている素振りはない。
「でもそれより先に、…あの、その、裸なのは、どうしたの?」
……。
「…これは、暑いから」
「もうかなり寒いと思うんだけど」
「そんなことないよ」
「そうか…。その、吊ってるのは? そこに付いてる手錠と鎖は、どこから?」
頭が真っ白になりそうだが、絶対に言葉を途切れさせない。彼女に状況を整理されると助けを呼ばれかねないからだ。そうなる前に、目的を果たしたい。
「玩具だよ、本物なわけないでしょ。びっくりした?」
ここからだと玩具には見えない。だが、偽物でも本物でもどうでもいい。今はそれどころではないのだ。
「いや、いいんだ、そんなことは。それより、あの…」
「え?」
今までの自分の人生で最も、大きな脈動が打たれていると感じた。こんな気持ちになることが有り得るのか、と思った。
胸に何かが詰まっているようになって…。
「ずっと…好きでした」
その状態で、そう言った。
唐突に思いを伝えてしまった。
ただ、緊張と熱さに耐えられず、爆発したのだった。
胸に詰まっていた何かは弾けたが、余計に酷い心地になり、解放されることはなかった。
俺には全く余地が無い。
気になるのは、告白を聞かされた真琴の、リアクションと返事。
どうなるのだろう。
「…」
彼女は少し困った様子で視線を天井に泳がせた。再び彼女が目を合わせるまで、俺は気が気でなかった。
「…ありがとう。ちょっと、時間をくれない?」
「……」
「考える時間が欲しいの」
余裕がなかった俺は、その返答に少し落胆した。断られてもいいから、返事をしてほしい。そう思ったが、きっとそのときは物凄く傷つくのだろう。
今は彼女の優しさに与るとしよう。
「そっか。ごめんな、こんな急に。返事は急がないから」
しかしそこで。
真琴がわずかに胸を撫でおろしたような表情になった。それは一瞬だったが、義務を果たしたという無機質なものだった。
分かっていたことだ。彼女の目に俺は映っていない。分かっていたが…。
「でもさ、本当はもう、答えは決まってるんだろう?」
我慢できずに、そう切り出していた。
「え」
真琴が初めて戸惑いの色を見せる。固まって、言われたことを吟味しているようだ。
「断ると決めてるんだよな。それは仕方ないけど、取り繕わずにきっぱり振ってほしい」
図星だったのか、気まずそうに目を伏せる真琴。
「…別に、取り繕ってないよ」
「嘘だな。その『別に、取り繕ってないよ』がすでにつくりものっぽい。どうした? 素の自分に自信がないのか?」
真琴が大きめな目を見開いた。驚いているのだろうか。
と思ったら、すぐに細める。先ほども見せた怒りの表情だ。
「…は?」
「わ、悪い。ただ、俺は…」
たじろいで、後ろに下がる。彼女にまともに怒りを向けられるのは初めてだったからだ。
「あ、いや。ごめん、違う違う。えっと…どうしてそう思うの?」
真琴の取れかかった仮面がまた嵌まった。
「それをやめろって。怒ってもいいから、さっきみたいに素で話せよ」
「そんなこと言われても…」
ああもう焦れったい。
そう切に感じた。そのもどかしさに、俺は手段を選ぶのをやめた。
「そっか。じゃあさ、話は変わるけど…」
一呼吸おいて、続ける。
「絵を変えられたからって、やり返すのは止めとけよ」
「………はぁ?」
真琴が、今度こそ本気で怒りだす。怒りの矛先は俺の指摘ではなく、やり返そうとしているのを知っていたことだ。
「…見たの? あの…ノート…。見たんでしょ!」
「ちがう、絵に手を加えられるのを見たから…」
「嘘。私が書いた内容そのままだった!」
俺はあのときのコスモスではなく、薬に入れたリンドウを思い出していた。
空の色が移ったような青紫の花弁は、ありありと怒りを刻んだ少女と同じく、写実的な存在だと改めて思えた。
―だから、大丈夫だ。きっと上手くいく。
「…ああ。だから君のことは知ってる。もう取り繕わず話してくれ。本当の君に俺を見せたい」
また同じ要求をする。とうとう真琴は怒りながら、呆れた。
「あのさ。取り繕ってないって、言ったじゃん。しつこいんだよ。自分の家に帰れ」
「…いやだね」
「は?」
「嫌だと言ってる」
真琴は信じられないものを見るような顔で呆然とした。
「――何で?」
「俺には君が好きになる魅力があるから。君がそれを分かるまでは戻らない」
その発言に真琴は、ふっと吹き出してから、観念したように語った。
「ああーわかった。じゃ、言うよ? 私も好きなの。今、告白してくれた『私自身』が。言いたいこと分かる?」
彼女の言ったことは、嘘ではない。彼女は本当に自分のことを愛していて、恋愛感情に近いものを抱いているのだろう。
真琴は、鏡や水面に映る自分を見て、頬を緩める。それを見てまた、目を細め口角を上げていた。恐らく、物心ついてから繰り返してきて、その度にときめいてきたのだ。
俺が闘わなければならぬ相手は、そんな、真琴が自身に抱いてきた想いなのだ…。
「そう。つまりあなたは、あなたが好きだと仰る私より、私が惹かれる人間でないと、いけないということ」
「…分かった」
「そう。じゃあ、さようなら」
「…なんで」
「…なに? もう出てってよ」
「だからさ、俺が君より魅力的だったらいいんだろ? それぐらい何とかなるって言ってんだ」
一瞬の真顔の後、真琴は笑った。
「へー。じゃあ、魅力的な君を見せてくれ。早くしろよ」
俺の話し方の真似をしたつもりだろうか。そこまで聞くと、すぐに彼女の足元に近づき、脱ぎ捨てた服を取った。手早く身に着けて、真琴と正対する。
「じゃ、よく見ててね」
あきれ顔の少女を見つめる。
俺は相手を茶化すように、こう言った。
「へー。じゃあ、魅力的な君を見せてくれ。早くしろよ」
真琴は、一瞬の真顔を経て、その両目を大きく見開いた。
「…あ、れ…?」
俺が下らない問答で時間を稼いだのは、このためだ。
もう十分に薬の効用が現れている。
「…何…で」
自分のことを好きになっている真琴。薬の効用は、つまりは俺と真琴を同様に見せること。
タツさんに様々な呪いを紹介される中、目に留まった薬草スープ。もとは相手と仲良くなるために親しみをもたせる薬だ。しかし効果が強力で鏡を覗き込むようだと聞かされ、彼女に飲ませればどうなるか、少し考えればわかった。これは真琴専用の惚れ薬だ。
真琴は今日も姿見をじっくり見たことだろう。そのときの彼女の服を着れば、より俺と彼女が結び付けられる。その証拠に、少し彼女を真似ただけで、その両目は驚愕に見開かれている。
それどころか、こんなことすらも俺にはできるのだった。
「何でって、できるからよ」
俺は微笑を浮かべる。
彼女の素を見たかったのは、この為だった。彼女がたまに見せる素顔を思い起こしたかった。
普段のどこか醒めたような表情になって近づく。
それから自分にうっとりするときの、恍惚とした顔を真似しながら言う。
「かわいいよ、真琴」
喋り方すらも、似せる。
脳に焼き付けた彼女の言動から、特徴を切り取ることに専念する。お粗末な模倣も今なら彼女自身と重なるはずだ。
自分をよく知っている真琴は、面白いほど取り乱した。不覚にも何かが込み上げてきたのを感じて――。
しかしそれを無理に抑えるから、悶えてしまい、その姿を見られて恥ずかしく――。
「やめて、その言い方っ……。その、顔も…」
真琴は目を瞑って、耳を塞ごうとしたが、耳の方は完全には塞げなかった。
なぜなら、片方、腕を吊り上げているからだ。彼女は声だけは、自分に似ている俺の喋り方だけは、感じてしまう。
「おいおい。見せてくれって言ったのはそっちでしょ……これが、見せたかった私ですよ。どうどう? 気に入った?」
「………………」
「どうしたの? 何か言ってよ、声にしないと伝わらないよ?」
「………うるさい」
紅潮している。こちらを見る瞳に熱がこもる。
そして、気まずそうに下を向いた。
薬草スープが効果を発揮しているのが分かった。このまま押し切るべきだと判断し、更に言葉を重ねる――。
薬の効果は、タツさんの話だけでは信憑性に欠ける。
もし失敗すれば俺は終わりだっただろう。それでも真琴は、こうでもしないと俺を見てくれない。
向こう見ずな俺でも、実行までに何度も悩んで決めたことだ。
「………」
もっとも今は。
「愛しい、わたし」
「…っ!」
他の全てを忘れて、真琴の反応を楽しんでいる。
*
数時間後、熱に浮かされていた俺は我に返った。今回の目的は彼女を弄ぶことではない。
「……真琴。別に君をからかいに来たんじゃないんだ。今日は、その…」
「……今さら、なに? ほら、笑ったらいいじゃん!」
真琴は涙目になっている。なぜ、今まで気付かなかったのだろう。
罪悪感が芽生えて説明を試みるが、まともな言い分など一つもない。
「ごめん、他にどうしようもなくて…」
「何よ、何それ、くっ……う、うああああ」
真琴はついに大声で泣きだした。
「ごめんな。俺が悪かった、ホントにごめん…」
さすがに焦って謝るが、彼女は落ち着かなかった。
「くっそが、許すわけないでしょっ! ぐすっ…嫌いよ、お前なんか死、しねっ…」
言葉こそ攻撃的だが、声音はどこか甘い。薬の効果はすでに切れているはずだが、依然として俺に気持ちをもってしまうようだ。
狙いは成功したとみて間違いない。それは次第に薬の効き目が切れる中で、真琴の想いの対象を自分から俺に移させることだ。
思惑は面白いように現実になった。だが、理想的とは言い難い。
彼女の様子はどこかおかしい。
顔を真っ赤にして、噴き出すように汗を流す姿は、少し過剰に思える。
彼女は鏡を見ているときでも、ここまで取り乱さない。寧ろ静かに見惚れている印象がある。
原因を考えると、一つ思い至ることがあった。
通常なら思い人には大きく心を揺り動かされるが、彼女は少し違ったかもしれない。それは思いの強さが劣っているからではない。自分から鏡を覗いて自分の意志で声を出すからだ。自分が意図していないことはしてこない。
そんな相手が一転、意志を持って接してきた。それも、自分が知っている表情を目まぐるしく変えながら。
その急激な変化に心が追い付いていないのではないか。あくまで想像だが、そうだとすれば説明がつく。
いずれにせよ、しばらくすれば鎮まるだろう。そう思うことで不安を拭い去った。
目的は果たした。何も問題はないはずだ。
「……っ」
気持ちを落ち着けようと、視線を泳がす。
思えば、今の真琴は凄い恰好だ。この寒い中、裸になって、空中に吊り上げられている。昨日の祭りで肌を隠していたとは思えない姿だ。自分を好きになりすぎて、他者には分からない趣向に目覚めたのか。
なんにしても、この姿は目のやり場に困ってしまう。
「その手錠の鍵、どこにあるの?」
俺は意を決して問いかけた。
「その、つ、机の、上」
意外にも真琴は素直に答えてくれた。
窓際の勉強机の上から、手錠を解く鍵を取る。それから椅子の上に立って、彼女の頭上に手を伸ばす。
「大丈夫だから。しっかり…」
「…ぐっ。う、ん」
「……よしよし」
真琴が少しずつ落ち着いてきた。改めて見ると、彼女は満身創痍だった。もともと癖のある髪が、この数時間でかなり乱れてしまっている。
「本当にごめん」
潤んだ大きめの目が、心配になるくらい涙を流した。
「……うっ、ん」
と、そこで。
手錠が解けた。
真琴が倒れかかってくる。
俺はしっかりと、抱き留めた。
「大丈夫だから。…そういえば、絵を描き変えられるの腹立つよな。俺もしょっちょうやられるよ」
慰める言葉を探して、真琴が日記に書いていた内容に行きついた。
「うん」
「丈っていう奴いるだろ? アイツによく、そういうちょっかいを出される。俺には歌の才能もないって言うし、やな奴だよ、ホント」
「………そう。やな奴、なんだ」
「そうさ、やな奴」
「やな奴」
「そうそう」
俺はさっきまで、真琴の様子がおかしいことを気にしていた。
だが、彼女を抱きしめたとき、その不安感は霧散した。
彼女の体温が俺に伝わって、それが溢れていくのを感じていた。