第一話 秋祭り
冬に向けて肌寒くなり、切ない香りが感傷を誘う。秋の空気は寂しさより、そわそわと胸の高鳴りを感じさせた。この季節には、神輿を担いで練り歩く祭りがある。俺は小学生になってから毎年それに参加していて、今年で五回目になる。
ただ、参加といっても何か役割がある訳ではなく、人の群れについて行くだけだ。例年は友達と話して、遊びながら過ごす時間だった。
同級生の男友達が二人、下を向いて座っている。三人でスマホに目を落としながら話をしていた。
「喉痛いなぁ。久々に歌ったからな」
昨日は三人でカラオケに行った。俺は数曲しか歌っていないが、それでも起きると声が枯れていた。
「そうか? 啓二のおかげで短時間だったし、気にならないけどな」
俺の名を呼ぶ、ぶっきらぼうな口調の男子。こいつの名は丈、幼稚園児の頃からの幼馴染だ。
「なんで俺のおかげなんだよ」
「だってさぁ! 啓二の歌ってあまりに…」
そこで口を挟んだのは、やたらと騒がしい小柄な男子。彼の名は隆史だ。今年の春に転校してきた。
「音痴だからな。お前の歌を聞いてると、こっちの音程までおかしくなる」
酷い言われようだが、全く反論はできない。俺は音程をとるのが下手で、音楽の授業ではいつも口パクだ。
家が近いこともあり、俺を含め三人で行動することが多い。こういった地域の行事なら尚更だった。
「あ、『鉢合わせ』だって。ちょっと下がろっか」
喧嘩神輿とも呼ばれる、神輿のぶつけ合いだ。立ち上がって、境内の端まで移動した。
その後すぐに、二基の神輿が大勢の大人に担がれて出てくる。他の見物人も隅に捌けた。中央にスペースを作るため、身動きが取れないほど密集していた。
大声と人が揉みあう音、神輿がかち合う鈍い音が響く。
何度か衝突すると、神輿の一部が破損し、負傷者が血を流していた。早朝の境内の喧騒は、それすら祭りの醍醐味と言わんばかりだ。
しばらくして二台の神輿は神社を後にした。
長い列の後方に加わり、俺たちも歩き始めた。まだ周囲は薄暗いが、空には雲一つなく、今日は秋晴れの一日になりそうだった。
最初の目的地は神社から目と鼻の先にある。
「あ、着いたっぽいな」
神輿は第一の停留所に停まった。祭りの関係者は、草が生い茂る丘に登っていた。
その端に、固まって話をする同級生の女子たちがいる。一人はフードを目深に被っており、その子がこちらを向く。
光を湛えた瞳が覗くと、いつもの苦しさが胸に広がった。
少女は膝上まである白のポンチョコートを羽織り、黒のハイソックスを履いている。肌の白さと相まって、たまに覗く瞳の黒を際立たせる。
「ああ、眠い。朝の五時からやらなくてもいいのにな」
「早いぶんにはいいじゃない。日に当たらなくていいし」
どうやら日焼けを気にしているらしい。フードまで被っているのは日差しを遮るためだろう。
「遠足とか、どうしてるの?」
「普段は日焼け止めを塗るの」
フード付きのコートを着ているのは防寒を兼ねているそうだ。俺も着込んでくればよかったと後悔していた。この季節の早朝はさすがに冷える。
「神輿に乗れたら楽だよな」
「乗れたらね。あの人たち怖いし、絶対無理だよ」
「ノリ良さそうだから意外と乗れるって」
「そうだとしても、あんなに揺れてたら酔うよ。それに振り落とされるかも」
休憩中は獅子舞いを見ながら、大人たちは酒を飲み、子供たちは配られた菓子などを食べる。このときは子供には朝食の代わりのおにぎりが配られた。
「行事ごとで食べる飯って、変に美味いよなぁ」
早朝に起きてから、もう三時間以上たっている。その空腹も手伝って、よく売られている三角おにぎりに感動を覚えた。周りを見ると具材は全て同じものだった。もめないよう合わせたのだろう。
耳を澄ませば獅子舞いの太鼓の音が聞こえる。連休の中日に行われる祭りは、心置きなく友達と過ごせる時間で、この音を聞くと晴れやかな気分になる。
遠目に獅子舞いを見ていると、隣で少女が座り込む気配があった。
「疲れた?」
「ううん、気にしないで」
「気分が悪い?」
少女は首を横に振る。心配だが、彼女の声に緊張感はない。恐らく大事ではないのだろう。
「大人を呼ぼうか?」
「大丈夫だよ。ただ、今はちょっと…」
少女の声音は変わらず明るかった。自分で解決しようとしているなら、俺がとやかく言っても仕方ない。
「もうすぐだと思うんだよね…」
彼女は呟くと、ポケットに手を入れた。そして小さな手鏡を取り出した。
実は、これは俺が期待していたことだった。
だが、そのとき異変に気付く。太鼓の音が止まったのだ。前方を見ると、獅子はこちらを向いたまま静止していた。俺たちの前に人垣が築かれており、少女には見えていない。
「危ない!」
何が起こるか予期した俺だったが、時すでに遅し。
太鼓の音がいきなり速くなり、それに合わせて獅子が突っ込んできた。驚いた子供などが退き、人垣が後ろに下がる。
最後尾で座り込んでいた少女は、ドミノのように倒された。
「いったぁ」
打ちつけた腰を撫でながら、恨めしそうに前を見る。彼女を押した人物はすでにいなかった。
「ごめん、来ると思ったときにはもう…」
「全然。大したことない」
立ち上がってコートについた土を払う。問題は解決したようで、平然としていた。
期待したものが見られなかったのは残念だが、祭りは昼まで続く。これから機会に恵まれるかもしれない。
その後は獅子舞いが長めに続き、仮面をつけた着物の男女が踊った。出し物が長かったのは朝食の時間を兼ねていたからだろう。
それらが終わると神輿は再び行列をともなって進む。はつらつな曲が田園に響き渡る。周囲はすっかり明るくなり、肌寒さも和らいだ。
「太鼓とか獅子舞いの道具とか誰が運ぶんだろう」
「きっと車だよ」
「タクシー代わりに使わせてくれないかな」
口ではそう言ったものの、彼女と歩く時間はとても心地よかった。疲労を感じる暇などない。
そう思った矢先…。
「真琴、来てたんだ!」
「一緒に回ろう」
少女の友達に割り込まれ、連れていかれてしまった。仕方ないので俺も代わりの友達を探すことにする。
他の相手を見つけるのは苦労しなかった。こちらを指さして笑みを浮かべている二人組がいた。何か言いたげな空気が気に入らないが、あいつらで我慢しよう。
次の場所に着くと、係の大人から青い包装紙に包まれた一粒の菓子を渡された。開いてみると中には高級そうなチョコレートが入っていた。例年は基本的に駄菓子が配られるので、相当に奮発している。最初の配布で子供たちのモチベーションを高めようとしているのだろうか。
そこは大きな歯科医院の駐車場だった。周りは一面の田園風景で、この敷地だけが少し異質に感じる。
丈はこの休憩所で獅子舞いを披露することになっている。必然的に今は隆史と二人きりになった。
「このチョコ美味いな、ちょっと深い味がする」
味わいながら獅子舞いを見ていると、向かい側に例の少女がいた。友人と並んでチョコを口に運び、フードの陰で口元が緩むのが見えた。
「ああ…」
「楽しそうでいいなぁ」
隆史が俺に向けて何か言ったが、それどころではなかった。
しばらく経って、やっと隆史の方を向くと、奴は満面の笑みを浮かべていた。
「大丈夫、俺たち応援するよ」
「いや、余計なことは止めてくれよ」
丈の入った獅子が人混みから出てくる。彼は多少の上背があるので前を担当する。
太鼓の音とともに体の鈴を鳴らす。その様は、踊りながら鈴の音で協奏するようにも見えた。
俺たちは菓子を堪能しながら、力強い獅子舞いを観続けた。
「頑張ってんなぁ」
「激しい動きだねー」
荒々しい動きには見応えがあった。今まで見た同年代の獅子舞いとは一線を画す。長い付き合いの幼馴染がこんな一面を持っているとは驚いた。
出番が終わり、戻ってきた丈を労う。
「すげぇ良かったよ」
「そうかよ、じゃあなんか奢ってくれ」
珍しく快諾した俺は、自販機まで歩いていく。
大きな歯科医院だったため、入り口付近に目的のものがあった。適当に小銭を入れていく。
「ついでに俺も」
ちゃっかりしている隆史の分も小銭を追加した。各々が選んだ飲料を手に、近くの柵にもたれかかる
「うっし。これでやっと、気兼ねなく過ごせるわ」
「よかったじゃん、この菓子もう貰った? けっこう美味いよ」
俺は甘いチョコに合うよう、コーヒーをチョイスした。微糖にしたが、それでもまだ俺の舌には苦くて、菓子の甘さを際立たせる。
保育所にいた頃、茶道の体験会があり、お茶を振舞われたことを思い出す。何年も前のことだから、印象に残っているのは和菓子の甘さだけだ。こんなに美味いものが存在するのかと驚いた反面、苦い抹茶には全く興味がなかった。
自分が歳をとったことを味覚に実感させられる。
遠くに真琴の白いシルエットが見えた。両隣には髪の長い眼鏡をかけた子と、丈ほどに背が高い子の二人の友達がいる。楽しげに何やら言葉を交わしている。
「頑張って話してたのに、完全に取られたな」
「なんとでも言ってくれ」
柵の向こうから涼しい風が抜けてくる。出し物が全て終わるまで、俺たちは何気ない会話を続けた。
丈と隆史は終始ご機嫌だった。出番の終わった丈はまだしも、隆史の笑みには少し不気味なものがあった。
「あ、そうだ。俺ちょっと用を思い出した。ごめん、行ってくるー」
隆史が唐突に前に走っていった。あの変わり者のことはよく分からない。
仕方ないので丈に近況を尋ねることにした。
「最近なんか楽しいことあったか?」
「どうだろうな。まぁ、普段通りだったな」
「そうか、俺はちょっと良かった」
広大な田園を涼しい風が吹き抜けた。寂寥感のある心地よい香りだった。
「そこまで、好きなのか…」
「は?」
秋の香りを楽しんでいた俺は、全く予想していない言葉に唖然とする。
「だから、あのフードの子」
「いや、違うわ。そのことじゃなくて、ほら、俺が前に言ってた趣味の話」
数秒の沈黙の後、やっと思い至った丈が落胆の表情を浮かべる。
「なんだ、あの呪いがどうのってやつか」
「それ以外に何があるんだよ」
俺には最近できた新しい趣味がある。ある人に影響されて、不思議なことを起こす業に凝っていた。初めは話題を合わせるために試す程度だったが、今ではかなり真剣にやっている。
「今は薬を作ってるんだけど、貴重な材料が必要だったんだ。それがやっと手に入るようになって…」
「おい、薬って、危険なやつじゃないだろうな。頼むから変なことするなよ」
材料に危険なものは使っていないし、その薬も依存性などは無い。一時的な催眠をかけるための薬だ。
「心配すんな、害は一切ないから」
疑わしげに見つけられても、やめる気はなかった。気味が悪いのは分かるが、こちらにも目的があってのことだ。それでも俺はかなり頑なかもしれない。
しばらくすると隆史が帰ってきた。しかも、後ろには見覚えのある三人の女子を連れている。
「なにやってんだ、お前」
「感謝してよ、さり気なく連れてくるの大変だったんだ」
「まじか」
彼女たちの話を聞いていると、どうやら三人のうちの眼鏡をかけた少女が丈と知り合いだったのを利用して連れてきたらしい。隆史は自らも話に参加して責任を果たしている。丈が眼鏡の子と、隆史がもう一人の背の高い子と話しているから、余った俺と真琴の視線が合う。
正直、ここまでお膳立てしてくれるなら、素直に感謝しかない。
「けっこう歩いたね。疲れてない?」
「もう帰りたい。昼までするとか正気なの…」
疲れ果てた様子だったが、俺に言わせれば、厚着している彼女の自業自得だった。
「そっか。ここらへんだけ回るから、ちょっと休憩して後で合流する手もあるよ」
当たり障りのない忠告をしたが、本心ではフードだけでも取ればいいのにと思っていた。
「まだ行ける、ありがとう。優しいのね」
何てことない言葉なのに、すごく照れてしまう。横を向いて、『普通だよ』と返すのが精一杯だ。
俺たちは住宅街に入り、やたらと広い路地に出た。端には大きな用水路が通っており、小魚が泳いでいてもおかしくない。
「そろそろ止まるみたい」
「ここでまだ三分の一ぐらいだな、例年通りなら」
神輿は一軒の住宅の敷地に止まった。その場所で出し物が始まったが、丈の出番も終わったので菓子だけもらって場を離れた。
他の子供たちも路地のそこかしこに移動し、喋りながら菓子を貪っていた。今回は醤油味の煎餅とペットボトルの緑茶が渡され、先ほどとは対照的な渋いチョイスになっていた。
俺としては喉が渇いたので、このお茶はありがたい。みんなも文句の一つも言わずに配られたものを頂いていた。
「お前等ありがとう、とくに隆史」
二人のおかげで真琴と話しやすくなった。さすがに何も言わないのは気が引ける。
「いいよ、ジュース代ぐらいは働かせて」
「俺はまじで何もしてないぞ。連れてきたのは隆史だし」
最初は厄介者だと思っていたが、二人とも力になってくれた。この借りはいずれ返すとしよう。
ふと視線を動かすと、真琴が下を向いているのが目に留まった。
「大丈夫? なんか辛そうだけど」
二人を放っておいて、調子が悪そうな真琴に声をかける。また朝の問題が再発したのかもしれない。
「ちょっとね…でも大丈夫よ」
彼女はポケットから手鏡を取り出した。
出てきたのが抜き身の刃物だったかのように凍り付く。恐怖ではなく、降ってわいた幸運に驚喜していた。
「あ…」
少女は鏡を見る。すぐに頬は緩み、恍惚の表情を浮かべる。
この子は普段、作ったような表情をする。受け答えの際にも、用意した感情を見せている気がする。
けれど、真琴の本当の姿は、今俺が見ている方だ。ありのままに自分の感情を表出させる。
「どうかな?」
少女の意識は鏡から友達に移った。そのまま真琴は丈の知り合いと、俺のもとを去った。一方で俺は未だに、数秒前の光景に支配されていた。
俺は真琴に出会った当初、良い印象を持たなかった。繕った自分を見せているのに気づいて、軽んじられていると感じていた。
それが変わったのは最近のことだ。彼女と話をする機会があった。その際に意見が食い違い、初めて感情を露わにしたのを見た。
真琴は俺の意見に対抗心があったようで、不満をありありと顔に刻んでいた。そのときの顔は少しだけ間抜けだった。何故かは分からないけど、どこか動物みたいだと思った。このときから彼女のイメージは、嫌味な奴から面白い少女に変わった。気に掛けて話し出すと、たまに見せる本当の表情を探すのが楽しくなる。
気付いたら、こうなっていた。
「なに突っ立ってんだよ」
太い声で我に返った。隣には丈が立っていた。
辺りを見回すと祭りの参加者はいなかった。かなり長い時間、感じ入ってしまっていた。
「早く来いよ、みんなで遊んでるから」
丈に連れられ、足早に路地を進んだ。ある家の脇に、小道が伸びている。丈の後に続いて俺もそこを進んだ。
小道の先にあったのは狭い空き地だった。家と家に挟まれ、球技には向かなそうだ。
そこには隆史と二人の少女、そして不審者と見紛う格好の真琴がいる。
「このメンバーで何してるんだ」
とてもじゃないが、この狭い場所で出来る遊びなど思いつかない。
「絵を描いてるんだ」
よく見ると、その場の全員が木の枝を手にしている。枝で地面に絵を描いているようだ。
女子たちは空き地の隅で、互いの絵を見せて沸いていた。絵の品評会ではなく、変なものを描いて笑いあっている。
ギャグ漫画に登場するような、物に顔を描いた絵が並んでいる。もちろん、全てが滑稽な表情をしている。絵の才能がない俺に言わせれば、こうやって時間が潰せて羨ましい限りだ。
「女子はともかく、お前ら楽しいのか?」
純粋な疑問だった。彼らが絵を描いているのは、図工の時間でしか見たことがない。
「俺たちには、俺たちなりの楽しみ方があるんだよ」
二人の絵は、とてもじゃないが褒められたものではなかった。
「まぁ、見てろって」
丈は車らしき絵に線を足していく。すると、たちまち食卓のような風景に様変わりした。下手なタイヤが皿に変わることで、その模様に少しだけ味がある。
「すごいでしょ! 俺が発見したんだ」
「最初に適当なものを描いて、その絵が何に見えるかで、絵を変えていくんだ」
描きたいものを描くのではなく、描けたものに合わせて題材を変えている。
悪くない工夫だと思ったが、どちらにせよ下手なことに変わりはない。結局は暇つぶしだ。
女子たちの方を見ると、真琴は自分の絵に集中していた。フードをしているので、下を向くと顔が全く見えない。彼女の絵は、ほぼ楕円だった。ラグビーのボールに似ているが、片方の角が波打っている。
なにかの紋章だろうか?
「なに描いてるの?」
真琴は手を止め、数秒後に顔を上げた。
「なんだと思う?」
見当もつかない。ただ、どこかで見たような気がする。特別なものではなく、何処にでもあるもの…。
そのとき、俺は視界の端に鮮やかな紫色をとらえた。
「花びら!」
真琴の傍らに寄り添うようにコスモスが咲いていた。この花を描いていたに違いない。
見たところ変顔を描いてはいない。この一輪を純粋に美しいと思ったのだろう。
「はずれ」
ええ?
「嘘…それ以外ある?」
めずらしく俺は動揺していた。見れば見るほど紫の花弁とそっくりだ。他には思いつかない。
「じゃあ、ヒント。朝から気にしていたこと」
言われてみれば、何かを気にする素振りがあった。小高い丘で、思い悩んでいたような…。
「なんだっけ、思い出そうとしてるんだけど…」
「これに関係してる」
差し出された手に、先ほど配られた菓子のカラがあった。新しいヒントのようだ。
これは醬油味の煎餅で、かなり硬かった。これと朝の悩み事が意味するのは…。
「歯?」
確か、朝は手鏡を見ようとしていた。そして硬いものを食べた。つまり、そういうことではないか。
抜けたんだ、歯が。
「…そういうこと」
聞けば、抜けたのは奥のほうの歯らしい。描かれているのは前歯だから、写生してはいないのだ。分かるはずがない。
そもそも歯を描こうとするのは独創的すぎる。
「どうにかできないかな」
浮かない顔で鏡を覗く真琴。歯が抜けて見え方が変わったのが気になるようだ。ほぼ見えないところだが、それでも見過ごせないのだろうか。
「すぐに生えてくるよ、次は抜けないのが」
「……」
彼女は俯いて黙ったままだ。
気の利いた励ましは、どうも苦手だ。落ち込んだ相手に言葉をかけるのは難しい。共感だけしていても、ちゃんと考えていないと思われそうだ。
「真琴、なに描いたの?」
変な絵を描いていた眼鏡の子が、こちらを振り返って聞いてくる。
「これは…歯の」
「ああ、花ね。でも、もうちょっと柔らかいほうが…」
そう言って、勝手に手を加えてしまう。風に形を変えられるように、花びら特有の曲線をつけ足した。意図せず、隆史のアイデアと同じように絵が修正された。だが、問題は修正したのが本人ではないことだ。
絵が得意なその子は放っておけなかったようだ。
ほんとは歯なのに…。
「ありがとう」
「どういたしまして。じゃあ、そろそろ列に合流しようよ」
一足先に眼鏡の子は、自分の絵を消しに行った。残った真琴は変わり果てた歯に、茫然としていた。
絵の題材すら変えられた真琴は、手のひらで乱雑にそれを消した。顔は見えなかったが不機嫌なことは疑いようがない。
「勝手をしないでほしいね」
「ほんとに。何を描いてるか知っているのに、描き直すなんて信じられない」
どうやら題材は伝えてあったらしい。それなら尚のこと悪質だ。
…だが、確か眼鏡の子も花だと思っていたような。
「あれ? あの子、知らない様子だったけど」
少女は俺の言葉にきょとんとする。まっすぐ向けられた視線に、多少たじろいでしまう。
「え、そうじゃなくて…あ」
真琴は言葉に詰まって、目を大きく見開いた。そのまま、しばらく沈黙が続いた。
それを破ったのは聞きなれた丈の声だった。
「おい、お前ら置いてくぞ」
見れば他の四人は、もう空き地を出ようとしていた。俺たちが遊んだ痕は、きれいさっぱり片付けられている。
顔を向け直すと、真琴は普段の作り物の表情に戻っていた。
「忘れてた。行こうよ」
何事もなかったかのように、俺の隣を通り抜ける。
俺はその場に立ちすくみ、しばらく動けなかった。彼女の言動には既視感があった。もし、そのときと同じ状況だったとしたら…。
「いや…」
さすがに思い過ごしだろう。真琴は相手に教えたと勘違いしただけだ。
気を取り直して皆に続く。ちょうど正午のチャイムが鳴り響いた。もう祭りも終わりの時間だ。早く合流しないと、参加者のご褒美をもらい損なう。
隣を歩く真琴は暑いのか、手を仰いでフードに風を送る。
日焼けを気にするなら家に直行するだろう。これが今日、彼女と会話できる最後の機会だ。
「結局、神輿に乗せてもらわなかったね」
「あはは、いいよ。あれ黒かったから寧ろ暑かったかも」
くだらないことで笑ってくれると、本当に愛しくなる。
「明日は何か用事あるの?」
「うーん、それがね…」
また、困ったように口ごもる。俺は警戒されたのかと不安になった。
「友達と動物園に行こうとしてたんだけど、来れなくなったって」
「じゃあ、俺と行こうよ」
警戒されたわけではない。咄嗟に俺は真琴を誘っていた。
それからしばらく話し合って、今日のメンバーでなら行くという結論に至った。
十分だ。
他の四人に話をつけると、やりきった気持ちで集合場所を目指した。
神社の隣にある公園で、点呼を受けてから解散する。点呼に間に合えば、行事に参加したものとしてカウントされる。
「はい、お疲れ様です」
担当者の大人から、サンタクロースの袋を彷彿とさせる、ナイロンの大袋を受け取る。
中には色鮮やかな包装紙に包まれた菓子の数々が、はみ出しそうなほど詰まっている。祭りの最中にも神輿が停まるたびに貰えて、合わせると膨大な量になる。
祭りだから大盤振る舞いするのだろうか。もっとも、代金は親が払っているから、感謝するべきなのも親だろう。
家に帰ったら礼を言っておこう。
「このあと何かする?」
隆史が早速、スナック菓子をボリボリ嚙み砕きながら聞いてくる。それを見ていると、俺も自分の空腹を思い出した。
適当なスナック菓子を一袋あける。口に入れると辛みが舌を刺激した。最初は気にも留めなかったが、咀嚼するうちに事の深刻さに気付く。
「けほっ!」
とんでもなく辛い。完全に激辛マニアをターゲットにした商品だ。
すぐに水飲み場まで駆けていき、蛇口を回して口を潤す。水で治ると期待したが、刺すような刺激は治まらなかった。
だが、口内に痛みを受けたことで、一つ大事なことを思い出した。
明日、彼女に会えるなら、あの薬を完成させておこう。上手く機会に恵まれるかもしれない。
こうして、俺の午後の予定が決まってしまった。
「二人とも、ごめん。急用ができたから、また明日な」