紅い眼鏡
その次の週、わたしはまた公民館の喫茶店にいた。相手は、相変わらず祐介だ。わたしの前には変わらずケーキがある。祐介が二つケーキを頼んで、「二つは重いから一つ食べてくれ」と頼まれたからだ。こいつはそこそこの家の子なのかもしれない。
「それで、今日観た映画の話なんだけど…」
「腹痛とか下痢とか出て来て、なんだかげんなりしたよ」
せっかくのショートケーキがまずくなりそうだ。
「あの、朝顔の中を金魚が泳いでいるっていう描写には実話の出典があるんだ。アメリカでの話なんだけれど、ダンスパーティーで男子学生たちが、イタズラで女子トイレの便器の中に金魚を泳がせておいた。それで、時間が経つに連れて、女の子たちのステップがものすごいものになったと…」
「完全にセクハラだよね!」
男の子たちの前で失敗した子もいたかもしれないと、胸が痛くなった。
「ずいぶん昔の話だからな。そんなこともあったんだろう」
「祐介のさっきの発言もセクハラだからね。忘れてないから」
今日のわたしを見た第一声が「なんていうか、生命力そのものっていう気がするなあ」だったのだ。思いきりにらみつけてやった。わたしはいま、白のノースリーブに明るいイエローのショートパンツを着けている。
「それで、映画の話なんだけど」
今日観たのは、『紅い眼鏡』。
警察内部でも苛烈な操作方法を批判されていた『特機隊』は、ついに解散を命ぜられる。しかし一部の特機隊隊員は命令に服さず、武装強化服『プロテクトギア』を装着して反乱を起こす。しかしすぐに鎮圧され、都々目紅一は海外に亡命する。数年後紅一は帰国するが、かつての同志であった鳥部蒼一郎と鷲尾みどりは、すでに体制側に転向し、紅一は警察幹部の室戸文明に追われる。しかし映画館で眼を覚ますと、蒼一郎とみどりは転向などしておらず、紅一の逃走に手を貸す。映画館を脱出した紅一はタクシーに乗るが、運転手はこんなことを言う。『特機隊解散式は無事に警察のグラウンドで行われた』と。つまり『特機隊解散に対する反乱など無かった』と。振り返った運転手は室戸文明だった。たまらず紅一が発砲すると、運転手の文明は人形に変わっていた…。
その後ストーリーは進んでいくが、いつのまにか、どこまでが現実でどこからが夢か、わからなくなっていた。
「室戸文明が、初代の北の将軍様に似てたな。まあ、三代ともあの親子は似ているけれど」
祐介が、よくわからないことを言っている。
「つまり、文明は権力者の象徴なわけだ」
そんなことはわかっている。
「これは佐藤健志の『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』に詳しいけれど、特機隊の反乱と鎮圧は、学生運動の隆盛と挫折を表しているという考察がある。だから、学生運動の挫折は夢だった。リアルでは挫折などしていないという夢を見たかったという映画なわけだ」
「なにそれ」
「だけど、挫折が夢だったのなら、学生運動の隆盛が夢でなかったとは言えなくなってしまう。だから、『同志の転向が夢だった』のなら、『反乱が夢でなかったとは言えない』ことになる。『今見ているのは夢ではないか』と一度でも疑った人間は、『今見ているのは現実だ』と言い切ることはできなくなる。夢を見ている人間には、これが夢か現実かを判別することは不可能だからだ。だからあの映画の世界では、『夢と現実を線引きする』ことは不可能なんだ。『瓶詰の地獄』で、『助けの船が妄想だった』ということから『全てが妄想だった』という結論が出てしまったように」
なんだかとってもごちゃごちゃした気分だ。
「で、祐介はあの映画を評価できるの?」
「『すべては夢だった』っていう結末は、いただけないよ。それで、今までのどんな不条理も解決できちゃうわけだし」
突然雷が鳴った。外はひどい雨のようだ。
喫茶店を出て一階に降りて玄関を出ると、稲光によってパッとそこだけが明るくなり、一面にガラスがはまった壁が照らされた。こんな、巨大な建築物が闇に溶け込んでいたのか。玄関を出る。三車線はありそうな道路が向こうまで通っている。道路の両端には、マンハッタンの摩天楼を思わせる巨大な建物がずっと向こうまで並んでいて、それが強い雨にけむっている。歩道は上下二段が続いていて、傘までもおしゃれな歩行者が何人か歩いている。こんな都会なんだから、もっと人がいればいいのに。なんだか目の前の風景が、精密で洗練されたタッチの油彩画のようだ。
スマホが鳴っている。ゆっくりと目を開けた。夢を見ていた。祐介と「紅い眼鏡」について話していた夢だ。そうだ。寝坊しないように、祐介にモーニングコールを頼んでいた。今日は『田園に死す』を観にいくんだった。スマホを耳に当てて祐介に礼を言った。どんな夢を見ていたかは忘れた。