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貴女が何者でも / お父さん、ごめんなさい

 あかりが気絶させた男が研究所から運び出され、ようやく所員達は緊張を緩めたようだった。あかりは研究所の外で、担架に乗せられたティアと、同行する海明が救急車に乗り込み、発車するのを見送った。




 意識を失っていた警官二人と笹崎はしばらくすると目を覚まし、念のため病院へ。





 サイレンの音が車内に響いている。

 ティア、海明の乗る救急車は受け入れ先が決まり、病院への道をひた走っていた。




 担架に横たわる赤髪の女には見たところ外傷はなく、ただ眠っているだけのように見えた。

 ただ、外からの呼びかけには全く反応しない。

 


 海明は彼女の頬に触れる。それにさえも、人形のように無反応だ。

 ――しっかり、しなさいよ……。




 ティアの赤髪が担架の端から下に流れて、耳が露わになる――尖った耳を海明は愛おしそうに指でなぞった。流石にここまでやれば目を覚ますはずだ。何の反応もなかった。



 初めてこの耳を見たのはいったい何年前だったか。



 最初はびっくりした。結局、今まで耳のことには触れていない。




 ――だってティア、あなたが何者でも、私には。

 どうでも良かった。




 ティアが何者で、何処から来て、何をしようとしているのか。




 全てに海明は興味がない。



 大事なのはティアと自分の関係で、それ以外のことは低優先だった。





 ――あなたがいればそれでいいのよ。



 もっとやれると思っていた新人の頃、ティアはいきなりやって来て私を連れ出してくれた。突拍子もない研究をやろうと持ちかけて来た時のあなたの顔を今でもはっきりと覚えてる。

 無邪気で、子供のようで――今も変わらない、笑顔を。






 ――目を、開けなさいな……。

 ティアに覆い被さる。


 彼女を抱き締め、ティアのいない世界のことを考えて怖くなる。



 ――まだ、私を一人にしないで、ティオ。

 救急車はやがて、病院に到着する。











 遠ざかる救急車。見えなくなるまであかりはその場を動かなかった。



 さっき、担架に乗せられ、車内に運び込まれていくティアはまるで無反応だった。



 ――ああ、私も、あんな感じだったのかな。



 呟き。あかりの意識に薄日が射す。

 きっと、あの男と対峙した影響なのだろう。




 全く意図していなかった記憶が唐突に呼び起こされ、あかりは目をしばたいた。










 あの夜。

 目を覚ますと私はベッドに寝かされていて、脇には誰かが立って、こちらを見下ろしていた。

 その人物は目が合うと、こちらを安心させようとでも言うように口角を上げた。



「あかりさん、大丈夫ですか? 気分はどうですか」

 狭い個室のようだった。ベッドから頭だけ起こして視線を巡らせると、入口のスライドドアの向こうに誰かがいるようだった。くぐもった声が微かに聞こえた。





「ここは……?」傍らに立つ医者らしき男に訊く。

「病院ですよ。あかりさん、あなたは車に轢かれてここに運び込まれたんです」

「病院……」

 ぼんやりとした頭で何があったかを思い出そうとする。






 信号待ちだった。軌道を外れ、こちらに突っ込んで来る車の鼻先――避けられず、押し潰されて。

 ――そうか。

 確かに私は車に轢かれた。男の眼を思い出してぞっとする。





 医者が口を開けた。

「大丈夫ですか? 何かして欲しいことはありませんか?」





 あかりは中空に視線を漂わせて考える。

 ――して、欲しいこと……。

 色々ある気もするが、いざとなると何も出てこなかった。






 ――あ、そうだ。この間のことを、ちゃんと謝らなくちゃ。

「お父さんと、話がしたいです」

 医師は頷き、部屋を出ていった。













 一人になった部屋であかりは少し寝返りを打つ。

 すんなりとそう出来たことに驚く。

 私はひどい交通事故に遭ったはずだ。その割に、自分の身体が傷ついていないことに疑問を抱いた。





 手を動かしてみる、足を曲げ延ばしてみる。どこにも傷はない。骨折してもいないようだった。痛みもない。少しだけ気分が悪かった。胸の辺りがむかむかした。





 一度そう思うとみるみる気分が悪くなってくるから不思議だ。

 身体が冷たくなっていくような感覚も覚える。






 ――手、冷た……。

 あかりは自分の肩を抱くようにする。後で毛布を持ってきて貰おう。





 ドアがスライドして開いていく。廊下の光が漏れて、ゆっくりと広がっていった。





 ――お父さん?

 激しい眠気に襲われる。(こう)し難い濃密な睡魔に急速に飲み込まれていく。あかりは目を閉じた。次に開かれるのは三十年後だなどと思いもせずに。




「あかり? 大丈夫かい?」

 ベッド脇に腰を降ろし、晴臣は呼びかけながらあかりの身体に触れて軽く揺すってみる。眼を――覚まさない。





 戸惑う晴臣。ふと娘の手に触れ異様に冷たいことに驚く。




 何かがおかしい。

 男の胸の内に嫌な予感がじわりと広がる。





 腰を上げる。踵を返して医者かティアを呼びに病室を出ようとする。







〈おとうさん。手を洗わなくてごめんなさい〉

 晴臣は娘の声を聞いたような気がして思わず振り返った。






 手を洗わなかった――そうだ、確かに、そんな些細なことで娘と言い合いになった。あれは、自分でも言い過ぎたと反省している。







「俺の方こそ済まない」






 いつかスマホに送ったメッセージだけでなく、自分の言葉で謝ろうとベッドに駆け寄った。





「あかり……?」

 娘は、目を閉じたままだった。

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