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 ある日。病室を出て、エレベーターで一階に下りてみた。吹き抜けのホールになっていて、空港の待合いのような広い空間。中央に大きなカウンターがあり、それが受付になっている。この病院は二階から上に診察室がある構造だ。




 あかりは中央ロビーのソファに腰を下ろして、院内を行き交う人々を眺める。せわしなく行き交う人、ゆったりとソファで談笑している人たち、不思議と明らかに体調の悪そうな人はいないように見える。まだ歩き回れるのは院内のみということもあって、この光景からはあかりの記憶にある世界との目立った違いは読み取れなかった。





「あれ、渡来さん?」

 背後から声を掛けられて振り返ると、あかりの主治医、石田だった。彼は眼鏡の奥で微笑んだまま隣に腰を下ろした。




「どう? 調子は」

「ええまあ」曖昧に返事をする。

「しっかり歩いているようだね」

「はい。さすがにじっとしたままだと退屈ですから――ところで石田さんって、幾つなんですか?」ふと思いついて訊いてみた。




「僕? 三十二だけど」

 怪訝そうな答えが返ってくる。





 ――と、年下かぁ。

 急に目の前の男性が幼く見えてくるから不思議だ。(はた)から見ると逆に見えているのだろうけれど。




「渡来さん、笑ったね」

「え? 私、笑ったこと、なかったです?」

「うん。今やっと笑顔を拝んだ気がするね――ちなみに、何が可笑しかったの?」

「いやいや」あかりは適当な相づちで誤魔化した。どう見てもおじさんなのに年下だという事実が可笑しかった、とは言えない。




「まあ、良かったね。少し、笑った方がいいよ」

 あかりは無言で頷いた。




「じゃあ僕は行くね。また後で」

 立ち上がると彼はどこかへ行ってしまった。何となくその姿を見送っていると、背後からまた呼びかけられる。





「あかり。こんにちは。今日は調子どう?」

 ティアが石田に代わって隣に腰掛ける。




「うん。まあまあかな」

 仕事が暇なのか、忙しいのに無理しているのか、ティアはほぼ毎日あかりの顔を見に来る。その所為もあってか、二人はだいぶ砕けた口調になっていた。




「そう。それは良かった」

「ねぇティア。私ね」

 あかりはティアの顔を見ずに、ロビーを行き交う人々を見ていた。





「私ね、考え方を変えることにしたよ――まだ何も思い出せないけど、いったんそれはいいや、って」

「あかり……」

「これ以上怖いことは聞きたくないんだ。それよりも、私は今ここにこうして生きている。ひとまずそれに慣れようって」

 ティアは少女を見つめて、少し微笑んだ。





「……そうね、それが一番いい」

「うん。もう、そう決めた。だからいったん何も言わないで」

「いいよ。黙ってる――じゃあ、これからどうするの?」

 ティアはあかりに聞いた。もちろん今日の予定の事ではない。




 ――この先、どうするかってことか……。



「えと、この未来(せかい)のことを教えて」

「いいわ。もうしばらくして、体力が付いたらね」

「必要最低限のことは入院中に教えてよ? 何も知らなくて恥をかくのは私なんだから」

「はいはい。それはそうね」

「宜しくね」

 笑い合う。





「でも、多分そんなに変わってないよ」

「ティアはこの世界に順応しているからだよ。私はつい最近知識ゼロでこの世界に投げ込まれたんだから、絶対そんなことないと思う」




「そーかなぁ」

「そうだよ……そろそろ病室に戻るね。ティアはどうする?」

「あたしも行く。売店に寄ってから戻るけど、何か要る?」

「オレンジジュースが飲みたい」

「オッケー。買っていくから、先に戻って」







 病室に帰ると、サイドテーブルに花が生けてあった。鮮やかな赤いチューリップで、あかりは久しぶりに花の匂いに触れた。




「あら、お帰りなさい」

「師長さん。これは?」チューリップを指す。




「ああ、お屋敷の人が来てね。それで、戻ってくるまで待ちますか、って聞いてみたんだけど、そのまま帰ってしまって……」

 お屋敷の人、といわれてあかりはちょっと顔を(しか)める。同時にあの日、自分が迎えを断ったのを思い出す。




 真っ黒な霧のようなものがあかりの意識を覆った。身をすくめて床に座り込む。

「あかり!」

 病室に入ってきたティアは屈み込んであかりを抱き寄せる。



「どうしたの!」

 あかりは無言でサイドテーブルの花瓶を指す。それだけでティアはどういうことか察したようだ。




「ああ、屋敷の人が……ごめん、私がこの間、あかりが目を覚ましたことを言ったから」

 あかりは首を振る。違う、という意味でも、ティアの所為ではない、という意味でもなく、単に反射で振られたように曖昧に。




「違うの……急に目の前が暗くなって、立っていられなく、なって……」

 ティアにきつくしがみついた。




「渡来さん、大丈夫ですか?」

 師長が呼んでくれたのか、いつの間にか石田が側に来て、あかりの手を取っていた。




「とりあえず、横になって」

 弱々しく頷くとベッドに横になる。不安そうなティアと目が合ったので、ちょっと口角を上げる。




「バイタルとかは問題ないね。歩き回って、疲れたかな?」

 石田は壁際の診断モニターを見ていた。





「とにかく、ちょっと安静にして様子を見ようか」

 ティアを残して、師長と石田は病室を出ていった。




「……大丈夫?」

「うん……何とか」

 暫くして落ち着いたあかりは身体を起こし、ティアからオレンジジュースを受け取った。軽くそれを飲むと、ようやく一息つけたような気がした。





「屋敷の人がね、来たんだって」あかりは呟くように言った。

「昨日電話で聞かれてね……黙っているつもりだったんだけど、流石に無理があった」

「言ってくれれば良かったのに」

「そうね。でも、あかりが辛いんじゃないかって」

「辛いというか……さっきの何が何だか。とにかく花を見た途端、目の前が真っ暗になってしまって」





 花束を屋敷の人間が持ってきた、という情報があって、その先に続く何か恐ろしいことが具体的なイメージを(かたど)りそうで怖くなった。





「ティア、あのね」

 あかりは俯いて、身体にかかっているシーツの端を見つめた。






「私、このまま行くとじき退院なんでしょ」

「うん。そうなるね」

 健康状態に問題ないことは検査で判明している。体力的な問題で入院が長引いているが、それも時間の問題だろう。





「そうなったらさ、あたしが帰るのはあの屋敷なんだよね」

「そうだよ。心待ちにしているんじゃないかな」

「昔の人たちも残っているのかな」

「そのはず」

 あかりにはそれが重石のように感じられた。






「あのね……お願いが、あるんだけど」

 ん? という感じでこちらを見つめてくるティアに、あかりはおずおずと切り出した。

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