始まりの夜
日本という国がどんな国なのか、ティアには予備知識が全くなかった。
入国してから覚えればいい。とにかく急いでいた。
この国に捜している人間がいることは間違いなかったが、逆に言うと情報はそれだけだった。
――まあどうせすぐ見つかる。
狭い国土だ、調べもすぐにつくはずだ。
すぐにそれが甘い考えだと思い知らされた。
この国は都心に人が集まり過ぎている。
探索は難航した。
持ち込んだ貴金属をお金に換えて食いつないでいたが、何年も経つうちにそれも尽きてしまった。その上、身元が不確かで後見人もいないティアは住居も借りられず、仕事にも就けなかった。
お金が尽きるとあっという間に何もかも駄目になる。終いには食うにも困るようになって、ティアはあっけなく生き倒れた。
未だによく覚えている。
夏の初め、大雨の日の夜だった。
とある屋敷の塀にもたれ、足を投げ出して座り、雨に降られていた。
自分では結構頑張ったつもりだ。
――こんなはずじゃなかったよな。
懐から小さなポーチを取り出す。
ポーチを開け、手を突っ込んで何かを取り出す。
出てきたのは元のポーチにはとても入らないような五百ミリリットルのペットボトルサイズの水筒だった。
――これが最後の一本。どうする? 使うか?
確かに今の事態は好転させられる。でも、最後の最後にしか使えない。本当に今がその時なのかまだ判断しかねていた。
――最後の最後に取っておくか。
ポーチに水筒を戻す。どう見ても入らないようなサイズなのに、ポーチは水筒を飲み込んだ。
「――こんなところで何をしているんですか?」
不意に傘が差し掛けられる。顔を上げると、スーツ姿の壮年の紳士が立っていた。
「あ、この家の人かな。ごめんごめん、すぐにどくから」
立ち上がろうとするが足下が覚束ない。ふらついて思わず紳士にもたれ掛かる。
「おっ……と」
彼はその体勢のまま器用にスマホを取り出してどこかに連絡する。
「……ああ、藤野か。済まないがちょっと屋敷の外まで来てくれないか。うん、何人か男手も連れて来てくれ」
程なくして藤野と屋敷の人間がやって来て、ティアを連れていった。
気がつくとベッドで寝かされていた。
右手に栄養剤の点滴が挿さっている。ベッドサイドで椅子に座り、居眠りをしている男がいた。深く眠っているのか、前後に大きく船を漕いでいる。
先ほど塀の前で出会った紳士だった。オールバックにした黒髪、鼻筋の通った顔立ち、整えられた口髭の男が、灰色の三揃えスーツを着て、足を組んで――寝ている。
――助けてくれた?
意外に感じる。どう見ても外国人の自分を、こんなに無警戒に招き入れるとは。
恐る恐る半身を起こす。
ぐぐー。
彼女の腹が鳴った。その些細な音を捉えたのか男が目を覚ます。
「――ん……」
辺りを見回し、男は一点に視線を固定した後、欠伸をして大きく伸びをした。
「んんーー……」
よほど疲れているのか中々ティアに気づかない。やがて、起き上がっている彼女と眼が合った。
「おや、起きたんだね」
今の今まで寝ていたのはそっちでしょ、と思いながらもティアは頭を下げる。
「ど、どうも」
「――綺麗な赤い髪だね。地毛なの?」
「え? ええ、そうですね」
「いいね。とてもいい」男はにっこりと微笑む。
「ところで君は何処から来たのかな」
「え? えーと。南の方から」
男は顎をさすりながら何かを考えているようだった。
「僕は渡来晴臣と言います。渡来グループの会長をしています……えーと?」
水を向けられたティアは取りあえず偽名を使うことにした。
「あ、はい。あたしはマリー・ルーベンと言います。どうぞよろしく、って……わたらい?」
日本にいて渡来の名前を知らない人はいないだろう。
テレビでコマーシャルがばんばん流されているし、工業、製造業、サービス業、自動車、航空、果てはエネルギー業界まで、あらゆる所に出てくるのが「WATARAI」、日本の巨大財閥だ。
「あ、あの、ごめんなさい。あそこにいたのはわざとじゃないって言うか、たまたま座り込んだのがあそこだったって言うだけで、決して下心があったわけじゃ……」
「うん、大丈夫。そんなこと思ってないから」
赤面するティアを見て、晴臣は笑っている。
「さて」と、彼は立ち上がった。
「その感じだとどうやら何処にも行くあてはなさそうだね。なに、暫くここにいると良い。後のことは後で考えるとしてね」
「え、でもそんな……」
こちらの言葉を待たずに男は部屋を出て行った。
「って、人の話を聞かない感じ?」
大きめの独り言が、一人きりの部屋に響いた。




