渡来屋敷
「平気? あかり」
渡来屋敷の少し手前でタクシーを降りた。ここから歩いて正門に向かおうとして、あかりは急に動けなくなって立ち往生していた。
真っ白なワンピースに同系色のミュール。髪はティアが軽く束ねてアップにしてくれた。
――首筋、落ち着かないな。
不安げに触る。
「ねえ、やっぱり別の日にしようか。藤野さんに言って――」
スマホを取り出すティアを押しとどめた。
「だ、大丈夫。い、行ってくる」
ティアを引き剥がすようにして、踵を返すと何とか歩き出した。ティアが飛ばしてくる心配オーラを背中で受け止めて、ある意味ではそれを推進力にして進む。
先程から右手に続いている高い塀は遠くの方まで続いて先が見通せない。その塀のそばを進んでいく。
天気は薄曇り。春の初め、空気は甘く、流れる風はじんわりと温かい。
屋敷に行くと決めた日、あかりはティアと海明に宣言した。
『屋敷には一人で行きたいの』
意気込んで言ったものの、結局ここまでぐずぐずとティアについて来てもらった。
但し、ここからは一人で行くべきだと思う。
――ち、ちょっと休憩。
立ち止まって塀に手をつく。その手触りで、あかりは一瞬で過去に接続される。
屋敷での日々。
父親もいた。藤野やメイドの皆もいた。
あかりにとってはついこの間までの日常。
一人ひとりの顔を思い出していく。現在でも彼女の記憶の大半は屋敷が占める。
その上に僅かにティアと海明、研究所での日々がある。
ところが今、あかりの心の大半は研究所の日々で埋まっていた。
屋敷での日々はいつの間にか。
――遠く、なっていた……?
歩みを再開する。ようやく正門が見えて来る。見慣れた景色。辿り着くと、ほぼ同じタイミングで門扉が開き始めた。おそらく監視カメラであかりの姿を確認したのだろう。完全に開き切ったのを見計らって歩みを再開する。
お出迎えは止めてと繰り返し藤野にお願いしたことが効いたのか、正門を抜けたアプローチにも、遠く屋敷の玄関アーチ付近にも人はいないようだった。
アプローチは両側が花壇になっているが、今は色とりどりのチューリップが咲いていた。あかりは一歩一歩、踏みしめるごとに湧き上がる感情を抑えながら歩く。うっすら汗ばんでいた。
アプローチを抜け、玄関アーチを越えた先に、渡来家の玄関があった。ノッカーを持ち上げ、出来るだけの力を込めて数回振り下ろした。
がちゃ。
素早くドアが開けられる。思わず眼を閉じた。
「お帰りなさいませ、あかりお嬢様」
いつかよく聞いた低くて優しい声。
それは最近でもあり、遠い過去でもある。
ゆっくり目を開ける。
玄関先に、男は立っていた。
――ああ……。
目の前いたのはどこか面影のある見知らぬ老人。
誰なのか、少女は即座に。
――お嬢様。
老人の目の前にいるのは見慣れた愛しい顔。
見紛う事などあるはずもない。
あかりには見慣れぬ顔で、藤野には見慣れた顔。
お互いの価値観がきちんと交換でき切らないまま再会は完了する。
「ただいま……藤野さん」
声を掛けると、藤野は肩を震わせた。
「う、う……あ、あかり、お、お嬢様」
不意にあかりの両手を取る。
そのまま跪いた。
「お嬢様、お待ちしておりました……よく、お帰り下さいました」
「うん。わがままを言って、ごめんなさい」
二人はその体勢のままで、暫く動けない。
藤野の顔に刻まれている無数の皺、真っ白な頭髪、あかりは彼の手から優しく逃れて、その頬に触れた。
「ごめんなさい。長く待たせてしまって」
「滅相もないことでございます。決して、決してお嬢様の所為ではございません」
あかりはいつの間にか藤野と同じ目線にしゃがみ込んで、彼の肩を抱いていた。
「さあさあお二人」
数分後、声を掛けてきたのはメイドの一人だった。あかりは記憶にある最も近い顔と照合を完了する。
「ここではなんですから、ささ、中へ」
立ち上がり、藤野を抱えるようにして屋敷に入った。背後でメイドが扉を閉めて、初めて屋敷の中がはっきりと見えるようになった。
知る限り記憶と殆ど変わらぬ光景。きちんと清掃され、磨き上げられ、いささかも劣化していない。
「お嬢様、では食堂へどうぞ」
メイドに促され、食堂へ歩き出す。
廊下の辻々にメイド、執事が立ち、頭を下げてあかりを出迎えている。少し戸惑いながら食堂へ入り、長いダイニングテーブルの中央に腰を下ろす。
あかりは食事を運んでくる藤野と言葉を交わしていく。初めは探るように、やがて、矢継ぎ早に。
二人は先ほど交換し切れなかった価値観を交換していく。
急速にギャップが埋まり、彼らは自分達の最新の関係性を見つけ、それぞれに馴染ませていった。




